Q 編0(ゼロ)

みはらなおき

第1話 天井裏(前編)

●お手伝い

 いつも開け放たれているガラス障子の上り口にランドセルが勢いよく投げ上げられた。樹は2年生としては小柄でランドセルを手に下げると、勢いをつけて持ち上げないと、この高い敷居に届かない。


「これ!いつもいつも」と、母・千鶴子は、そんな樹のことがわかっていてこれも合いの手を入れるように小言をかけた。続けて、


「Qちゃん、『帰って来たら手伝いに来て』って、お父さん言うてたよ。牧さんの裏の家」


 樹は、家族や周りから「Q」と呼ばれている。それは何年も前に「杞憂きゆう」を「キュー」と聞き間違えたことで従兄たちに笑われてから名付けられたものだが、からかいの意味が入っていることに樹自身はぼんやりとしたいやな感じを持っていた。


 樹は少しぼーっとした表情をしていたが、やがて「裏?」と、見当がつかない顔を母に向けた。


「牧さんの東角の電柱の脇の路地から入ったらわかるって」


 ふうん、と言いながら樹は壁際の電話台の上にぶら下がっているいくつかの鍵から自分の自転車の鍵を取った。




●下宮家

 樹の家は、言わば町の電気屋工事屋である。上り口から先の土間は店になっていて電化製品や器具が箱のまま積まれていたり、修理中のものが台に広げてあった。樹は狭い通路のようになったところを通り抜け、店先に出してある少し錆が浮いた16インチの自転車に鍵を差し込んだ。樹は少しサドルを高めにして乗っている。こんなところに小柄なことへのコンプレックスが表れていた。



 牧家の電柱の脇にすぐ路地が見つかった。牧家の前に樹の店の軽トラックが止まっていて樹の父・瀞が工具箱を降ろしていた。


「Q、それ」と瀞は、樹に気付くと工具箱を自転車の荷台に置いた。反対の手には電動丸鋸を持っている。


 そのまま樹は自転車をそろりと進めた。


 樹の父・瀞はひょろりと背が高く痩せ型で穏やかな性質だった。徴兵中に結核を患い、肺の何割かを失っていた。


 工具箱を乗せた自転車を押して少し奥に入ると板塀がやがてとぎれ門柱の先に玄関が現れた。


「あ、ここは先週テレビのアンテナを上げた家だ」と、樹は思い出した。カラーテレビを買ったついでにアンテナも新調しUHFも受信できるようにした家だ。


「こないだ天井裏に配線して、分岐させて残した方あったやろ。あれを縁先の天井から降ろしてクーラー付けるからな」「うん」


 樹は小学校に上がってしばらくしてから、父親の手伝いをよくするようになっていた。それは少しぼんやりしていて友達もあまりできない樹を父親なりに気遣ってのことでもあり、小柄で手先が案外器用な樹は「とても使える」助手になりつつあったからだ。


 工具箱を見た時、それがクーラーの配管を接続するためのものだったため樹は、今日の手伝いがクーラーの取り付けだと気付いていた。樹は、クーラーの工事がいやだった。この時代のクーラーは非常に重く、痩せた父親が力を振り絞って担ぎ上げる様が見ていて少しつらいものだったからだ。




「あら、お子さんですのん。お手伝いなん、僕えらいねぇ」


 開け放った縁にこの家の夫人が立っていた。三十手前で気の強そうな大きな目をし、髪を高いところでまとめてとめている。樹は、そのへんの長屋のおばさんとはちょっと違うおうちなんだと思った。




●天井裏で見たもの

 樹は、瀞の指図で先週と同じように床の間の天井板をずらして、天井裏に入った。金網で枠をこしらえた白熱電球を瀞が手渡す。スイッチを入れると、むき出しの梁や壁土と埃が積もった様子が浮かび上がった。瀞も首から上だけを覗かせて縁の方向を顎でさし、


「あっち、ちょっと光漏れてるやろ。あそこに穴開けてあるから、線おろしてな」「うん」


 樹は、先週残しておいて束ねてある電線を掴むと、ジャングルジムの中を潜るように天井裏を進んでいった。


「踏み抜いたらあかんで」「わかってる」


 当時の日本家屋の天井板は、細い竹製の吊り木で吊るしてあるところも多く、この家のそれも同じだった。樹は方々の梁に足や手をかけて縁寄りの光が漏れているところに辿り着き電線を降ろした。


「ん」と瀞が、小さな声を出してスルスルと電線を引っ張っていく。樹は、電線がでていく様子を見ながら少し周りを見渡した。隣の間の天井裏との間には、土壁が20センチほど立ち上がっていたが、その向こうに何かが見えた。樹は、蜘蛛が向きを変えるように白熱電灯のところに這い戻り、電灯を隣の間に向けた。


「ドンゴロス?」


 それは、麻袋の口を縄で縛って梁にぶら下げられていた。よくみると5つほどある。埃と土壁のにおいに混じって違うにおいが鼻に感じられた。薄汚いドンゴロスのどす黒いシミや何か不揃いのものが詰まっている袋のでこぼこした膨らみ方、それが生み出す陰影がないまぜになって樹の心に恐怖が湧き上がった。全身が硬直し、それまで梁に引っ掛けていた右足が滑った。


「どん」と天井板が震え、隙間から埃が薄く舞い落ちた。


「Q?」と配線の端を処理していた瀞が、声をかけた。天井が蹴破られるほどの強さでもなく、続いて音もしない。瀞は、樹にこれまで手伝いをさせてきた経験からも一定の「信頼」をしていて、そう心配な声をあげなかった。自身が乗っていた脚立を降り、天井板を外したところに向かおうとした時、そこからひょいと青い顔をした樹の頭が出てきた。


「なんか吊ってある」と樹は、ぎりぎり父親に届く程度の小さな声を絞り出した。これまで手伝いで客の家を訪問するたびに、


「お客さんとこに何があってもじぃっと見てたりしゃべったりしたらあかんで。余計なことは言わんと『しなもん』納めて帰ったらええねんからな」と言われていたからだ。だからぎりぎりの声、樹としては恐怖をぎりぎり押さえつけて頑張って吐いた言葉だった。


「どこや」瀞の声に樹は、無言のまま手を伸ばして指差した。それは、クーラーをつける客間の奥にある納戸を指していた。


「降りてきぃ」と瀞は、樹に手を差し出してやり、一緒に縁に出て隣の納戸へと歩いた。瀞のとぼとぼ歩く様には、張り詰めたものは一切感じられず、そこから樹は、何か納得がいくこと、種明かしのようなものが待っているのだろうと思い始めた。納戸の板襖は、他の建具と同じように拭き込まれて少し艶も感じるほどで、瀞の手の動きにおとなしく従い、するりと開いた。衣装箪笥や小引出しが両脇に並んだ三畳ほどの板の間で、見上げると天井の一部に引き戸と手をかけられるような古めかしい金具がついていた。


「天井裏に物置あるんや」と、瀞にすればこれで樹が言った「なんか吊ってある」は解決だ。天井裏に入り口があれば、そこに家人が何かをしまっていても当たり前だ。それが何かといったことは立ち入ったこと、余計なことである。


「ここ、閉めときや」と軽く言いながら、瀞は工事の続きに戻った。


「この家の人が何かしまってる場所なんだな」と、樹も一定の納得がいった。だが板襖は、樹が引くと少し重く、閉じるに従って更に重くなっていった。最後の10センチほどで止まってしまう。


 樹の目は、改めて天井裏の引き戸に引き寄せられていた。そのまま目を逸らせなくなっていくものを感じ、最初の恐怖がじわりと戻ってきた瞬間、


「スッ」と板襖が、いきなり何の抵抗もなく閉まった。気配を感じて振り返ると、紺色の着流しを着た三十代の男性が立っている。男性の手が板襖の端にあった。この人が閉めてくれたんだと、樹は思った。男性は、端正な顔で穏やかに微笑んでいる。髪をきっちり七三に分け、丸い眼鏡をかけている。


「あ、ありがとう・・」覗き見をしていたような罪悪感と板襖くらいのものを閉めることを手伝ってもらった気恥ずかしさで樹は、少しうつむいて礼を言った。男性は、見咎めたわけではないことを表すように、もう少し笑顔を増やしながら、手のひらを振ってみせた。


「いやいや。お手伝いなんか。ちっこいのにいろいろちゃんとしてるなぁ」


 そして、「悪かったなぁ・・・」と、男性が続けた時、瀞が樹を呼んだ。


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