恋するスパイダー

貴島大翔

第1話


 校門をくぐり、ソメイヨシノが咲き乱れる中庭に入る。花びらが舞い散り、頭に乗ったそれを手で払いながら、やや早足で下駄箱へと向かう。部活の朝練帰りと思われるカラフルなジャージを着た生徒達からの奇異の目に晒されながらも、二年生と書かれた貼り紙の列から自らの組と番号を見つけ出し、靴をしまいスリッパを履く。後に同年代から時代遅れと揶揄される、祖父の形見の革製バンドの腕時計を確認すると、八時十四分を回ったところだった。慌てて滑らかな廊下を小走りで進み、迷いかけながらも階段を見つけることに成功する。だが、虚しくもそこで予鈴が鳴り響き、焦燥感を更に強めながら階段を上り終える。バクバクとうるさい心臓が背景音楽を奏でながら廊下を進み、六組と書かれた表札を見つけその教室へと滑り込む。


 教室の中は、騒がしいわけでもないが静かというわけでもない独特の緊張感に包まれていた。黒板に席順の書かれた用紙が貼り付けられてあり、それに最大限近付き、若干低下気味の視力を活用して自分の名前を教室の中央付近に確認し、おぼつかない足取りで席へと向かう。俺は周りの好奇の目を視界の外に追いやり、隣に座る男を真似てスマホを触り見たくもないSNSに目を通す。


 やがて、教室に先日挨拶をした男性教師が入ってくる。三十代後半だというその教師は、スーツに身を包み、スラっとした体格に、清潔感のある容姿をしていた。動きにメリハリがついているような、どこか真面目で慌ただしい印象を俺は前から持っていた。


「はい、おはよう。二年六組を受け持つことになった、柴崎です。知ってる人も多いと思うけど、サッカー部の顧問をしてます。え〜、じゃあお前、号令掛けろ」


「あ、はい」


 恐らくサッカー部の生徒が柴崎に指名され、号令を掛けた。その後、連絡事項や日程の記載されたプリントが配布され、柴崎の大まかな説明を受けた。


「六組だから始業式の移動まで時間あるな‥‥‥、そうだ。楓、その場でいいから自己紹介してくれ」


 柴崎の馴れ馴れしい名前呼びを受け、俺は椅子を引き、足をぶつけないようにゆっくりと立ち上がった。憂わしげな顔をしないよう努力しつつ、言葉を紡ぐ。


「石川県から転校してきた涼風楓です。あっちではサッカー部でした。シャイなんで誰でも気軽に話しかけてきてください。よろしくお願いします」


 俺が頭を下げ椅子に座ると大きな拍手が上がり、何人かは拍手をしながらコソコソと話をしていた。


「というわけで、仲良くやってくれ。じゃあそろそろ移動するぞ」


 クラスの面々はパラパラと始業式のある体育館へと向かい、俺もそれに続く。




 始業式が終わり、与えられたロッカーに幾つかの教材や体操着を入れ、帰路につこうとしている俺の肩を誰かが叩いた。


「ういっすッ!今日は部活来ないの?」


「ん?ああ、隣の席の‥‥‥誰だっけ?」


「ひどッ!?さっき挨拶したじゃんッ!?一清二、一って書いて、にのまえって読むって!忘れられたの初めてだわ、この苗字でッ!」


 そう捲し立てるのは、先程言葉を交わした背の低い坊主頭の男だった。坊主は野球部だという偏見を持っていた俺は、サッカー部だと聞き軽い衝撃を受けた。


「ああッ!よくサッカーボールに見立ててイジられてそうやなぁと思った記憶があるわ。よろしく、清二君」


「いやよく分かったなッ!?あと俺も楓って呼ぶから、楓も清二かニノって呼んでくれな」


「おっけー。清二ってサッカー部の人だったよね?今日は荷物の整理とかあるから、明日から参加させて貰うわ」

 

「おう。じゃあ、俺部活行くわッ!じゃあなッ!」


「ういー」


 俺は清二と別れると、何やら視線を感じ教室を見ると、三人程の女子がこちらを見ていた。正直短時間ではあるが精神的に疲労していたので、素通りするか一瞬悩むが、このクラスでの後々の事を考え余裕のある自然な微笑みらしいものを浮かべる。女子は「きゃー」とか「わー」とかこちらに見られている事を織り込んだ反応をした後、一人がこちらに近寄ってきた。ミディアムヘアのパーマがかかった茶髪に、くりっとした大きな瞳に長い睫毛を持った、人懐っこい笑顔をする美少女だった。

 

「涼風君、コネクト交換しない?」


「いいよ」


 コネクトは五年程前から流行りだした中国発のコミニュケーションツールで、石川県の中でも相当の田舎に住んでいた俺でさえ、スマホにインストール済みだった。俺はスマホをポケットから手早く取り出し、アプリを開いて表示された付近の連絡先から「愛上萌」を追加する。


「あいがみさん?で合ってる?」


「うんッ!でも萌でいいよ!それで、あの二人とも交換してくれる?」

 

「うん。あと俺も楓でいいよ」

 

 俺より一回り小さい萌に上目遣いで聞かれ、嫌とは言えず頷く。それから萌の友達ともコネクトを交換した後、下駄箱まで一緒に行く流れになった。


「へぇー、雪村さんはバスケ部かー。俺全然分かんないんだけど、ダンクとか出来るの?」

 

「いやいや無理だって!男子でも珍しいし!涼風君背高いしバスケ部入らないの?あっ、でもサッカーやってたんだっけ」


「うちのサッカー部ってあれでしょ?超弱いって有名の。今年は新入部員集まらないんじゃない?」


「しかもあいついるしね〜、ほら不良の——」


 適当に相槌を打ってていると下駄箱まで辿り着き、そこで部活があるという萌以外の女子二人と手を振って別れる。


「楓君って電車通学?」


「うん。今朝は鞍山駅から来たけど、近くにもう一つ駅があるんだっけ?」


「うん、だけど‥‥‥うちの高校の人は殆ど鞍山から来てるよ?」


「へぇ〜、そうなんだ」


 一瞬萌の顔に翳りが見えたが、深く詮索するのは気が引けたので話を変える。


「萌さんはなんか部活はやってるの?」


「うん、テニス部だよ!グラウンドの横にあるコートでやってるから、興味あったらいつでも来てね」


「テニスか〜、苦手なんだよな」 


「楓君なら大丈夫だって!」


 何の根拠もない萌の発言は、その恐ろしいほど輝かしい微笑みと、その小動物さながらの稚気に富んだ仕草の相乗効果によって、俺にまで根拠のない、自信のような何かを伝染させた。

 いつの間にか鞍山駅に到達していた俺達は、ホームで電車が来るのを待つ。少しの沈黙の後、萌は俺の顔を覗き込むようにして、口を開く。


「でも凄いよね、楓君。光明高校に転校できるなんて、相当頭良くないと無理だよね?」

 

「いやいやそんな事ないって。たまたま受かっただけだよ。面接とか得意だし、それが評価されたのかも」


「え〜、そんなに甘くないよ!だって日本でも三本の指には入るくらい名門校だよ。しかも文武両道だし!楓君からは憎き天才の匂いがする!」


「そんなこと言って萌さんも頭いいでしょ」


 全く意味のない謙遜を互いに繰り返していると、やがて電車が到着した。昼前だからか今朝ほど混んでいなかったので、二人で空いている座席に腰を下ろした。絶妙な距離感から放たれる馥郁とかした女子特有の香りに、内心ドキドキしながら流れる景色を何とはなしに眺める。窓の外の灰色のビル群は、俺にとってはどこか別の世界に迷い込んだような高揚感と畏れを感じさせた。

 やがて萌の家の最寄り駅に到着し、手を振って別れた。その後十五分程経過し、俺も電車から降りる。チラチラと光明高校の制服を着た生徒も降りてはいたが別の制服を着た生徒が多く、近くに別の高校があるのだと思いながら、駅を出る。スマホを取り出し、複雑に入り組んだ道を迷わないように進む。コンビニやスーパーの位置を覚えながら、横断歩道の前で信号待ちをする。

 すると、反対側の歩道から一匹の野良猫が車道に飛び出すのが見えた。俺が可愛いなぁと呑気に思っていると、自動車が物凄い速度で走ってくると、減速の素振りもなくその野良猫をはねた。野良猫は宙を舞い反対側の歩道に落下して、微動だにしなかった。俺は信号が青になると同時に野良猫の方へ走った。前から来る人の波は、まるで野良猫なんていないかのように、目も向けずただ避けて歩いていた。俺はその光景に違和感を抱きつつも、横たわる野良猫に触れようとしたが、思い直して手を引っ込め歩道の脇に移動する。代わりにスマホを取り出し、ネットで検索し辿り着いた道路緊急ダイアルを打ち込み、自動音声に回答する。


「すみません。猫が車に轢かれて。えっと、現在地は、どこだろう。山守二丁目の——」


 スマホを駆使してどうにか詳細を伝え終え、どっと疲れが身体中を駆け巡った。いつの間にか日は西の地平に傾きつつあり、鳴り響く自動車のクラクションやバイクの駆動音、歩道にひしめくカラフルな老若男女の群れに軽く目眩を覚えた。ふと視線を野良猫の死体へと戻す。すると、野良猫の体が微細に動いたような幻覚が見え、目を擦る。


「どうして?」


 俺の頭の中に響いた聞き覚えのある女の声に、思わずビクッと身体を震わせた。道ゆく人からジロジロと見られることによって、ようやくそれが野良猫の怨みの声でも、記憶の中にのみ存在する女の声でもなく、幻聴であったと気付いた。途端に俺は強烈な吐き気を覚え、野良猫の死体に背を向け無我夢中で路地裏へと走った。横断歩道のない道路を突っ切り、潰れた飲食店の跡地を通り過ぎた後右折し、奧に聳えるラブホテルへと続く道を進むと、その途中に二階建てのアパートが見えてきた。

 焦茶色の手摺に手をかけ、砂に塗れたボロボロの階段を軋ませながら登る。鉄の錆びた臭いに、ピンと糸を引っ張ったような頭痛が俺を襲う。リュックから鍵を取り出し鍵穴に押し込み、カビ臭い部屋へと入った。軽く咳をしながらリュックと制服を投げ、小さな流し場を洗面所代わりにして顔を洗う。立てかけられたヒビの入った手鏡には、内面の陰気臭さとは正反対の、均整のとれ、見る人によっては軟派な印象を持たせる、暗い顔のよく似合う男が映っていた。俺は口角を無理矢理持ち上げ、いつからか自然に笑った表情が嫌いな人と重なって見えてから、上手に笑えなくなった事を思い出す。


(俺は勇気を出して都会に来て、新しい人生を始めようとしているのに、今更死者が邪魔をする。‥‥‥もう嫌だ、寝よ)


 俺は吐き気と頭痛を綺麗さっぱり吹き飛ばしてくれる事を期待して、畳に敷いてあった布団に潜り込む。壁が薄いのか一階からギシギシという音が耳に入るが、何とか眠りにつくことができた。





 夢の中で何者かと壮絶なカーチェイスを繰り広げていた俺は、物凄い物音と怒鳴り声に叩き起こされた。寝ぼけた脳にも瞬く間に怒りの感情は広がり、文句でも言ってやろうと立ち上がったが、新参者が偉そうに講釈を垂れては、都会の人はどんな事をしてくるか検討もつかずその場で足踏みしていると、「うるせぇぞ!」と一階の住民が俺の気持ちを代弁してくれた。ふとスマホを開くと、時刻は夜中の二時ちょうどだった。


(だいぶ寝たなぁ‥‥‥、怖ッ!?まだ怒鳴り声する‥‥‥、都会じゃ当たり前なのかな)

 

 俺の怒りはすっかり鎮まり、百八十センチの図体をビクビクと震わせながら、ドアを少しだけ開けて廊下を覗き込む。だが、ドアがボロすぎるあまり、ギィと軋んだ音を立ててしまった。更に誤算だったのは、騒音の原因が部屋の中では無く、外に居たことだった。


「‥‥あ?何、お前?文句あんの?」


 隣の部屋の開け放たれたドアの前には、オラついた男が立っていた。つばのついたキャップにピチピチのズボン、シンプルなTシャツといった出で立ちで、身につけたネックレス等々と履いているサンダルで不協和音を奏でながら、俺にガンを飛ばしてきた。ここまできたらしょうがないと俺は部屋からゆっくりと出た。


「文句あるわチンピラ。人の安眠妨害してんだよボケ」


「おいあんまりイキんなよガキ、殺すぞ?」


「その中坊みたいなファッションセンスじゃ怖ないわカス!」


 俺が自然に口から出てくる幼稚な暴言をチンピラにぶつけると、怒りの形相で俺を蹴ろうとする。慌てて躱し、反撃しようと拳を握ったところで、パトカーのサイレンが夜の街にこだました。


「ちッ!‥‥‥おい!入れろッ!」


 チンピラは突然、ここに警察が来る確証はないのにも関わらず焦りだし、俺を無視して開け放たれた隣の部屋に押し入ろうとした。俺はチンピラの肩を掴んで引き寄せ、腹を素早く殴打した。身体をくの字に曲げたチンピラを掴み階段側に放る。


「警察呼んどいたから、もうすぐムショに行けるぞ。メシは結構美味いらしいし、良かったな」


「てめぇがチクりやがったのかッ!!‥‥‥顔と家覚えたからな」


 俺の熟考すれば分かる薄っぺらい嘘にまんまと騙されて、チンピラは背を向け走っていった。相変わらずの慌てように違和感を感じつつも、少年法が厳罰化され続けているため、逮捕を恐れたんだと結論づけた。取り敢えず難を逃れた俺は隣の部屋の住民に事情を聞こうと思い、開けっ放しの部屋を覗いた。瞬間、俺の心筋は収縮を放棄した。


「?」


 そこには、俺の語彙力では形容できないが、無理矢理例えるとするならば、「天使」が倒れていた。少女のくっきりとした二重の下の半月型の目には、ブラウンダイヤモンドよりも美しい瞳が嵌め込まれており、毛穴一つ見えない雪白の肌と桜唇は、遠目から見ても分かるほど張りがあった。無造作なロングの髪はストロベリーブロンドのメッシュが入っており、煌びやかな雰囲気を醸し出していた。着用している光明高校より数倍派手な制服の下には、男好きしそうな豊満かつ美麗な肉体が隠伏していた。しかし、神の眷顧とも言えるその圧倒的な美を、焦点の定まらない虚な瞳と、表情筋が死んでいるかの如き無表情さが台無しにしていた。

 人間は本当に衝撃を受けた時、声を失うと身をもって理解した俺は、乾いた喉を懸命に動かした。


「あの、大丈夫ですか?」


 そう問いかけるも返事はなく、ただ瞳を俺に向けただけだった。その目を俺は知っていた。現実を生きてる様で生きれていない、絶望の目だった。

 俺はその目から逃れるように視線を移すと、少女の部屋の中には、数えきれないゴミの山があった。唖然として鼻を研ぎ澄ますと、此方まで悪臭が届いてきた。

 俺はこういう時どうしたらいいのか分からず、取り敢えずこの明け方の肌寒さから少女を守るため、ドアを少し閉めようとして気付いた。ドアの表面には、ペンキかスプレーのどちらを用いたか定かではないが、言葉にするのも悍ましい、胸糞悪い罵詈雑言が書き殴られていた。俺は少女に訳を聞こうと、腰を落とししゃがみこむと、少女の手首には痛々しいリストカットの痕が見えた。その瞬間、俺の中から論理的思考や常識や良心など、人間の常識的な部分は綺麗に爆散した。


「ははッ!‥‥‥ムカつく」


(何で、何で誰も助けないんだ?こんな分かりやすいサインがあって。もしかして都会ってこれが普通なのか?ドアに酷い落書きがあっても、リストカットしていても、自分じゃないからいいのか?何だこれ?無関心ってやつなのか?これが都会に、社会に順応するって事なのか?)

 

 横たわる少女の姿が轢かれた野良猫と重なり、誰も答えてくれない疑問は俺の心を蝕んだが、やがて一つの天啓ともいえる答えが浮上した。


「この街に慣れる必要なんて、最初から無かったのか」


 俺は本能の赴くままに、少女の部屋へと許可もなく押し入った。





 朝日が昇り、窓からの木漏れ日によってアタシは目を覚ました。


(‥‥‥あ〜、頭痛い。‥‥昨日どうしたっけ?隣のクラスの奴にセックスがどうたらこうたら言われて、断ったら家までつけられて‥‥‥犯される前に薬一杯飲んで死のうと思って‥‥‥ん?)


 そこでアタシは、昨日までの悪臭の代わりに、香ばしい匂いが狭い部屋に充満しているのに気が付いた。違和感はそれだけに留まらず、布団もいつもより綺麗でふかふかだったし、服も消臭剤の甘い匂いがした。極めつけは、何やら小さな音が流し場から聞こえてきた。流石に鈍いアタシでも、誰かが部屋に居るんじゃないかと恐怖と危機感を抱き、恐る恐る起き上がった。流し場を覗き込むとそこには——


「は!?」


 学ランの上に花柄のエプロンを着けた不法侵入者の青年が、鼻歌を歌いながら弁当箱にミートボールを詰めていた。

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