香りの辿る物語

柊 秘密子

オペラ座の乙女


 十八世紀、フランス、パリ。

 ここに、時代の栄華を築いた巨大な劇場があった。設計には画家、彫刻家や当時高名だった建築家を幾人も招き、高価な建材も惜しむことなく使用し贅を尽くした建築に加え、随所には美しい大理石の彫刻が置かれ、天井画まで描かれた。

 完成してからは貴族の社交場としての役目はもちろん、その天国のような美しさからパリに住む庶民たちの憧れの的となり、いつかそこに足を踏み入れる事を人生の夢としていた。

 そんなオペラ座で常にプリマドンナを演じていたのは、他でもない、豊かなブロンドの髪と、翡翠のような緑色の瞳、当時の流行を常に取り入れた豪勢なドレスに彩られた豊満な肉体を持つ、女神の如き美女……クリスティーヌである。

 彼女は十六歳で舞台に立ち、それからすぐに美貌と圧倒的な歌唱力、澄んだガラスのような歌声を武器にプリマドンナの地位へのし上がった。十九歳になった今も、その地位は誰にも譲ったことはない。


 そんなある日のこと。

 クリスティーヌの元へ一通の手紙が届けられた。それは真っ赤な蝋と薔薇のシーリングスタンプで封をされたもので、紙の質も上等……貴族や、王族からのファンレターのように思われた。

 しかし、その中身は紛れもない誘拐予告であった。


 愛しい女神、クリスティーヌへ。

 今宵、あなたを攫いに参ります。

 誰が止めに入っても無駄だ

 君たちに私を邪魔することは出来ない。

 彼女は既に私のものだ。


 とても美しい筆跡で、砂金が散りばめられたかのような紺色のインクを使い綴られた手紙。

 彼女から相談を受けた婚約者は貴族という立場を利用し、金を惜しむことなく実力のある傭兵を雇えるだけ雇い、愛しい女を守ることを決めた。

 劇場の仲間たちも、人柄も良く皆の憧れの存在であったプリマドンナを守ろうと、女も男も子供たちまで武器をとった。

 しかし、クリスティーヌは楽屋にこもり舞台に立つ前のように世話係の少女に手伝ってもらいながらコルセットを締め、衣装の中から黒い……まるで夜空のようなシルクに金の糸やビーズの星が瞬くドレスを選ぶと、それに見合うように化粧を施し自らを飾り付け……そして、普段は使うことのない、高級娼婦のためのチュベローズの香水を吹きかけ、じっ、と……誘拐犯が来るのを待った。


 深夜零時、時計の針が重なる頃。

 ……劇場に、男の歌声が響き渡った。

 それはまるで地の底から響くような、ハリのある迫力のバリトンで、プリマドンナを護るために集結した者たちは……その誰もが、これほどまでに力強く美しく、妖艶な男の歌声を聞いたことがなかった。

 それはクリスティーヌへ私の元へ来るよう、愛しいあなたを私だけのものにしたい、としきりに訴えかける。

 ……歌声に誘われるように、プリマドンナの楽屋の扉が開いた。

 クリスティーヌは普段の可憐さは息を潜め、凛として毅然と男に立ち向かおうとしていた。婚約者は必死に止めた。行かせてはいけない、行ってしまったら……彼女はきっと戻ってこなくなる。

 けれどもクリスティーヌは首を振り、口づけを交わすといつものように花の咲く笑みを見せて

「大丈夫よ、お願い……私を信じて」

 と、彼を説得した。

 渋々兵を引き上げさせ、武器を持つ劇団の仲間たちの間をまるで海を掻き分けるように、大広間へと歩みを進める彼女の細い腰は、歌声の主によりしっかりと抱き寄せられた。


 それは、あちこちにボロがあるものの、とても豪勢で貴族のような服を身にまとい、その下の肉体は鍛え上げられ彫刻のようだ。帽子を目深に被り顔を伺うことはできない。

 けれども目に入る部分だけでも痛ましい……ひどい火傷の痕がある。帽子をとってしまえば、ここにいる全てのものは悲鳴をあげてしまうことだろう。

 クリスティーヌはじっと、帽子の下に隠れる男の目を見つめた。甘い甘い……とても官能的にも思える花の香りが鼻腔をくすぐり、優しく……まるで子供に語りかけるように、クリスティーヌは男に話しかける。

「素敵な歌声ね。あなたほどの力なら、十分にここでやっていけるはずよ」

「それはできない。私はとても……とても醜いのだ。あなたと同じ舞台に立つには、これしか方法がなかった。……憧れていたんだ、あなたに……美しくて、誰からも愛される光の妖精のようなプリマドンナ……クリスティーヌに」

 隠れた目から、ぽたりと涙が落ちる。ようやく光を映したその瞳は、まるで朝焼けのような灰色であった。

 クリスティーヌは、しっかりと男の体を抱き寄せると、火傷で引き攣った唇へ口付けを落とした。

「今夜だけ、ここは私とあなたのオペラ座よ」

 そして二人は語り合うように歌を交わした。

 力強く妖艶な歌声に、ガラスのような可憐で美しい歌声が混ざり、傭兵や劇場で働く者たち……ハラハラと彼女を見守っていた婚約者の男すらも、その歌に魅了され涙を流すものもいた。

 武器を取っていた楽団員も皆、あわてて楽器を吹き鳴らし、たちまち深夜のオペラ座は特別な一夜限りの演目に酔いしれた。


 その後、クリスティーヌは二十歳を迎えると同時に結婚をし、オペラ座を辞めた。……未だに彼女を超えるプリマドンナは現れていない。

 しかし、それと入れ替わりに彼女と並ぶほどの実力を持つプリモ・ウォーモが現れた。庶民の出でクリスティーヌから歌や演技の手解きを受けたという彼は常に仮面で顔を隠し……地に響くほどの力強く、そして官能的な歌声で多くの人々を魅了した。

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