第1話 桜子の恋人

 入社して初めての金曜の夜。

 寮にいる新入社員で、居酒屋に集まった。その席で目の前の桜子さくらこがふいに右手の指輪を左手薬指に移したものだから、千紘ちひろは目を丸くした。

「えっ、どういうこと!?」

 千紘の声に驚いた周りの数名が、桜子の手を覗き込む。桜子は隠そうともせず、指をぴんと伸ばしてはにかんだ笑顔を見せた。

「ほら、仕事中に左手にしてたら、新入社員だし目ぇつけられそうでしょ」

 いやそういうことじゃなくてと、千紘は驚いたまま桜子に突っ込んだ。


 千紘と桜子は中部地方のQ県の第二の都市に本社を置く情報機器メーカーの新入社員。残念ながら地元Q県では大手だが、全国的にはさほど有名企業ではない。そのうえリーマンショックの影響で、新入社員の数は男四十名、女八名とわずかだった。彼ら新入社員の大半は、まずこのQ県M市の本社で数年を過ごした後に、全国の各支店に配属されることになる。

 

 彼らはみな、広大な会社敷地内にある寮で生活をさせられた。初めての社会という不安要素も手伝って、新入社員同士の距離が縮まるのは早かった。

 そこで心落ち着かない最初の週末、寮生はみな声を掛け合って会社そばの居酒屋チェーン店に集まったというわけである。


「りぃくんとはね、いずれ結婚しようって話してるんだあ」

 ちょっと鼻にかかったような甘い声で嬉しそうに言う桜子を、千紘は羨望の眼差しで見つめた。

「いいなあ」

 りぃくんとは桜子の彼氏の理央りおのことだ。同じ大学の彼と長く付き合っている話は、内定式の時に桜子から聞いた。付き合ってるだけでも羨ましいのに、結婚まで考えてるとは。


 桜子は少しウェーブがかった柔らかい髪を肩下まで伸ばし、私服も甘いピンクのフリルのついたブラウスにチェックのスカートと、正に『女の子』である。

 一方千紘はといえば、大学時代に合コンでもバイト先でもいい思いをしたことはない。友達の紹介で二人と付き合ったことがあるが、どちらも程なくして別れた。それでも不景気の中、頑張ってなんとか内定を勝ち取ったのだ。

 

 ──恋愛はいまいちでも、私には仕事がある。確かに地方の、大して有名でもない会社だけれども。

 与えられた環境で精いっぱい頑張ろうと意気揚々入社してみれば、これである。こっちは仕事だけでなく、結婚相手も彼氏もこれからだというのに。


 千紘は、目の前の仕事の話そっちのけで彼氏の話をし続ける桜子を、つまらなそうに眺めていた。


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