欠けている僕らの恋の話
雪野千夏
第1話
いつのころからか、僕らの世界では、誰もが何かを失って生まれてきた。
僕は静寂を失って生まれた。物心ついたときから、周りは音で満ちていた。それは人の声のこともあれば、動物の鳴き声のこともあれば、自分の心臓の音のこともあった。
絶えず、聞こえた。
自分に響く音が実際の音なのか、幻聴なのか最初のうちは戸惑っていた。だけどそれもすぐに気にならなくなった。
僕らはみんな何かを失っていたから。失って生まれてこないものはこの世に存在しなくて、皆その煩わしさと満ち足りた世界への渇望を知っていた。
「あなたはどんな世界に住んでいますか?」
それが僕らの自己紹介の定番だった。
すべてを持っている親たちには理解されなかったけれど。
十六歳。その頃の僕は聞こえるすべての音が煩わしくて、常にヘッドホンをしていた。ノイズキャンセリング機能のヘッドホンをしていたって音は聞こえる。それでも少しだけましになった気がしていた。
学校なんてものに行きたくなかった。四六時中ひとつの箱に閉じ込められる苦痛。密室の中で逃げ場のない音が聞こえ、座り続けるのは拷問だった。
だから、僕は朝のホームルームに出ると学校を出る。ほかにも何人か同じように学校をあとにする奴がいた。駅のホーム。向かいでツンツン頭の男が軽く手を挙げる。僕が話しかけられるのを嫌うことを知っているそいつに僕も手を挙げた。
「ごめんなさい。私、音が聞こえなくて。ちょっと考え事していたから。けが、ないですか」
胸の下から聞こえた声に僕は驚いた。人とぶつかるなんて僕にはありえないことだった。人ごみを避けるし、人が近づくと音が聞こえすぎる僕は、ぶつかるなんて眠っていたってあり得ないことだからだ。
校章の色が緑、別の高校の一年生だ。彼女の丸い目からすべての感情が溢れていた。煩いくらいの感情に目を閉じる。音以外にも煩いものがこの世に存在していたことにびっくりした。
「大丈夫ですか?どこか痛みます?」
僕が目を閉じたのを痛みをこらえていると勘違いしたらしい彼女は、右腕に触れてきた。
やわらかい指先が触れた瞬間、すべての音が一瞬消えた。
「えっ?」
驚いて目をあけると、目の前の彼女も驚いたように目をまん丸にしていた。自分の指先をじっと見つめ、潤んだ目は何かを期待するように僕を見ていた。
「もう一度触ってもいいですか」
頷けば細くやわらかい指先が恐る恐る僕の手の甲に一本触れた。
「すごい」
僕らの声は重なった。
「「音が」」
「消えた」「聞こえた」」
さっきまであれほどうるさく鳴り響いていた音が聞こえなかった。彼女の透き通った声だけが僕の目の奥に入ってきた。
「ねえ、あなたはどんな世界に生きているの?」
いつもと同じ自己紹介が、彼女の声で甘く僕の脳に届く。
「音がたくさんあふれている」
いまだかつてこんなに肯定的に自分の世界を口にしたことはなかった。
「君は?どんな世界?」
「音のない世界。静かでなにもない」
だから人ごみにいるのだと彼女は笑った。僕とは正反対の理由でここに彼女はいた。
「喧騒って静かだよね」
「そう。どこに行くの?」
「CDショップ」
彼女は笑った。
それは僕の天敵の名前だった。
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