そろそろ桑田佳祐を歌詞で論じるのはやめてメロディで語ろうよ

高柳孝吉

第1話桑田佳祐さんは歌詞よりメロディ重視なのか?

最初の頃、サザンの曲を作曲してるのは、クレジットでは桑田さんだったけどあの当時桑田さんちょっとバカっぽいキャラ作り(?)してたような気がしてて、いや本当にバカだったと思ってた?から(本当に失礼!)桑田さんは作詞担当で、作曲はゴーストライターで実は、頭の良さそうな原坊がやっていたのではないか、と思っていた。ーーとここまで読めばわかる通り、あれは中学生当時僕の中では作曲者の方が作詞者より一段も数段も才能的にレベルは上の人がやるもんだと思っていた。そしてで今でもその気持ちは変わらない。変わったのは、勿論桑田さん御本人が作曲(そして作詞も)しているという当たり前の事実を認識している事だ。本当に失礼な言い方で桑田さんに心酔している僕としては遺憾極まりないのだか、桑田佳祐さんは、ーーすみません!、ーーバカではない。もうバカだの頭いいだの、そんな概念突き抜けちゃっている天才、「作曲家」だ。ーー作曲家。そこを敢えて強調したいのは、所謂文化人の方々、特に作家さん方、こういうサイトに自ら文章まがいの物を書いて投稿している僕が言うのもなんなのだが、特にそういった方々が過去に論じて来た所謂桑田佳祐論では、まるで申し合わせたように必ずと言っていい程、この事について論じられ、賛辞されているからなのだ。ーーそれはつまり歌詞だ。あるいはメロディにいかに見事に日本語があてがわれているか伝々…。僕はそこで言いたい。ずっとジレンマだったのだ。ーーそうじゃねえだろ。桑田佳祐さんの真の才能は、作曲力にこそある、と。この話しは何も桑田さんに限った話ではない。昨今の日本のミュージック・リスナー・シーンに於いて、歌詞重視傾向なのは、勿論人それぞれ考え方があっていいけど、だからこそ今僕は言いたいのだ。音楽は、メロディに始まってメロディに終わる、と。桑田佳祐さんの最高の魅力はメロディメーカーとしての桑田佳祐さんにある、と。音楽評論家はジャンル分けに忙しくてこのメロディのここが白眉だ、等の批評はお目にかかった事がない。僕は難しい音楽理論とかはわからないけど、このメロディのここにしびれた、ぶっ飛んだ、鳥肌が立った、という初期衝動に近いのであろう心の、感性の感じたところを言う事は出来る。ーーそこを語りたくて、というか歌詞重視の桑田佳祐論や歌詞重視傾向のリスナーシーンに対する反発もあって、ここ(カクヨム)でパスワード忘れてログイン出来ずパスワード変えて戻って来た次第である。具体的にいやあ、サザンの、いや全ての音楽の中で一番ぶっ飛んばされた「EMANON」のサビ、『アイ・ラブ・ユー、二度と言わぬ台詞さ』の"度“、の部分なのだ、僕が高校一年生の夏発売前の「EMANON」をAMラジオでサビだけ聴いてぶっ飛んだのは。ーーそういう事なのだ。例えばユーミンの「A HAPPY NEWYEAR」の出たしの傑作メロディ『ハピニューイヤー』のイヤーの部分、もっと言えばヤーの部分なのだ、音符が読めないから歌詞の何文字かで表現して行こう。ーーそうか、この桑田佳祐論は、語るのが難しいかも知れないメロディを、"語ろう“、という試みでもあったのか。ーーそれにしても、本当のところ桑田佳祐さんは、音楽を言葉と考えているのか、それともメロディ、音と考えているのか?

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そろそろ桑田佳祐を歌詞で論じるのはやめてメロディで語ろうよ 高柳孝吉 @1968125takeshi

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