私はおこりすぎて、少しのあいだ息をするのを忘れていた。

 そのせいか息を吸うと、プールでおぼれかけたときみたいな声が出た。


 ……私あれなんだよね、トンカチなんだよね……。


 いまだに体育の水泳すいえい授業じゅぎょうで、二十五メートルをおよぎ切れたことがない。


 いつもあとちょっとってところで息ができなくなって、ゆっくり体が沈んでいって、『これはヤバい! このままじゃ死ぬ!』ってなって、仕切りのプカプカにあわててしがみついて、そこで終わる。

 それに、クロールとイヌかきおよぎのあいだっこみたいなおよぎ方しかできないし。


 だから私にとって、クロールのできる人はすんごい人だし、背泳せおよぎや平泳ひらおよぎやバタフライができるなんて人は、もう超人ちょうじんだった。

 あんたらもう人間えてるよって感じ。

 あれに近いよね。トリとかを見て、飛べることにあこがれる、みたいな。


 学年で私だけだよ、トンカチは。

 走るのとか、たま使うのとか、スキーだって、運動はどれもうまいほうなのに……、……なんでか知らないけどおよぎはぜんぜんできない。

 あれかもね……もしかすると私の前世ぜんせはネコなのかも。

 まあネコもがんばればおよげるらしいけどさ……。


 でも、ネコとカラスは仲が悪いらしいしね。

 それがどれくらいなのかは知らないけどさ……犬猿けんえんなかなのか、ただケンカちゅうなだけなのか、……それとも、じつはこっそり仲よくしてるのかなぁ……。

 たまにあるよね、人間の世界でもさ。

 仲悪いと思ってた子たちがじつは仲よしで、『なんだぁ、あんたら仲よかったんだぁ……』ってなって、ちょっとほっとするみたいな。


「……わたし、落ち着いてるし。だからキミも落ち着きなよ」と、私はちょっぴりやさしく言った。

「まあ、それだけ時間をかけたなら、誰だって落ち着けるだろうな」

「……う、うるさいな……。……あ! ていうかさ、カラスさんの名前は?」


 自分だけ名前を知られているのはなんか嫌だし、それに、簡単に名前を言っちゃって、ちょっと負けたみたいな気がしていたから、私はカラスにそう聞いた。


「オレには、名前などない」

「ウソだぁ。そんなにじょうずにしゃべれるんだしさ。……ホントはあるんでしょ?」

残念ざんねんだったな、むすめよ。名前があるのはおまえだけだ」

「……え、ずるくない……? ……あれだよ、……卑怯ひきょうだよ。あれじゃんか……、卑怯者ひきょうものじゃんか……。この卑怯者ひきょうもの! ていうかこっちにおいでよ! 高いよ! あれが! ズが! ズが高い! 降りてこぉーい!」


 『ズが高い』って言葉が、『おまえそのえらそうなのやめろー!』って意味なのはわかるけど、『ズ』がなんなのかはわからなかった。

 ……『ズ』ってなんだろ? ていうか、いまはそんなの関係ない!


「はやくこっち来なよ! ……あっ。……ふふふ……じゃないと、このクルミ、わたしが食べちゃうよ? それでもいいの? ……うふっ……このクルミがどうなってもいいの!」

「オレにおどしは通じないぞ」

「……な……。もう! とにかくどっちかにして! 名前を言うか、降りてくるか!」

むすめよ。こんな言葉を知っているか? 『バカとけむりは高いところにのぼる』」

「……し、知ってるけど、……そこまでくわしくないかなぁ……。どういうあれなの……?」

「つまり、おまえのほうがかしこいし、ズが高いってことだ」

「……へぇ、そ、そう? それならいいよ。ゆるす。ゆるしちゃう。……でも、ホントに名前ないの? それで不便ふべんだったりしない?」

 そう質問してみると、カラスは少しを置いてから、「このにいるかぎり、オレはずっと名無しなのだ」って言った。なんか知らないけど、ちょっぴりカッコつけたふうに。

「なんかあれだね。カラスさん、ちょっぴりカワイソーかも」

「ふん」とカラスは、またバカにしたふうに言った。

「ふーん、だ」


 私は、仕返しにちょっとおどろかしてやろうと思って、変顔をしてみせた。

 だけど、カラスはそっぽを向いて、それを無視むしした。


「じゃあじゃあ、それならさ」、真顔になって私は言った。

「なんだ、むすめよ」とカラスはこっちを向きながら言った。

「わたしが名前つけてあげるよ……そうだなぁ――」

「――イヤだね。おまえは、ろくな名前をつけそうにない」

「……な、な、なんでよ! なんでそんなのわかんのっ!?」

「わかるさ。おまえははっきり言って、センスゼロだよ」

「……こ、このぉ……。やっぱ降りてきなよお! ……ぁ……あんたなんかねぇ……、ニワトリにしてやるぅーー!」

「オレに勝てると思うなよ。きっと後悔こうかいすることになる」

「わ、わたしにおどしは通じないよ。……ていうかさっきから、けっきょく『むすめ』って呼んでるし……ぜんぜん名前で呼ばないじゃん……。なんで聞いたの……?」


 私のツッコミには答えず、カラスは、なんだか魔王まおうみたいな感じでこっちをにらんだ。


 確かににらんでるんだけど、それといっしょに余裕よゆうみたいなものも感じる。あれみたい、ライオンみたい。百獣ひゃくじゅうの王の雰囲気だ。

 目だけで言ってる気がする、『言っとくけど、おまえなんか余裕よゆうだけどな。というか寝てても余裕よゆうで勝てるし?』って。

 もしかしてこのカラス……カラスの王さま……?


 そのヤバそうな雰囲気にのまれ、私は「ごくり」とつばを飲みこんだ。するとその拍子ひょうしに、小さく「ポキッ」っと首の骨のふしが鳴った。

 私の首の骨はこんなに弱っちいんだったっけ、と不思議に思いながら首をさすっていると、カラスから声がかかった。


「いまのはオレだよ」

「えっ? いまのキミがやったの? すごいけど……地味じみすぎない?」

「本気を出せばこんなものではないぞ」

「……出したら、どうなるの?」

「おまえの体は、オレののままだ」


 ……うわぁ、なんかエッチなセリフだなぁと思って、じゃっかんひいてしまう。

 ……これはますますヤバい……。

 気を抜いたらヤバそう……なんかエッチなことされそうな気がする……。


 これはもうやってやるしかないと思って、私は、精神統一せいしんとういつをするために、意識して息を吐き出した。

 するとその拍子ひょうしに、お腹の虫が「ぐ、ぐえぇ~」って大きく鳴った。


「……これもキミが?」

 お腹を両手で押さえて私は言った。

 カラスはそれに答えず、ただ首をかしげた。

「違うんだ……」


 ……ああそういえば、と……そこで私は思いだす。


 今日、お昼を食べてない。そもそも私は、お昼ごはんを外で食べるために家を出たはずなのに……それを忘れるなんて……。

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