第九章(前)
奥へ奥へと進むにつれ、背後で聞こえていたジニスと兄上が激突する騒音が遠ざかる。それらはやがて聞こえなくなり、いよいよ墳墓の心奥へと入り込んだのを自覚する。
まだ。
まだ間に合う。
秘薬の存在がなくなってしまえば、兄上が狂う必要もなくなる。
銀の扉の中は真っ暗闇だった。唯一足元でぼうっと光る白線だけが標。
走ると床材とブーツが打ち合って大きな音が響く。それがこだまして、不思議な余韻を耳にのこす。その音があまりにもしっかりとしていたのもあって、私は暗闇の中をどこまでも真っ直ぐと指向する白線をなぞってひたすら走った。
まるで絵画の消失点に向かって走っているような、果てがない絶望感が湧き上がってくる。
「はっ、はっ、はっ——」
喉の奥が苦しい。鎧を着けての走り込みなど、最近はしていなかったから。
本当にこれでいいのか? 私はなにか、間違いをしていないか?
母上は何か別に、重要なことを言っていなかったか?
いつまで走っていればいい?
いや。
それ以前の問題として、私はなぜ走っている?
だって、足元に標となる白線が引いてあるから——。
——違う。これは誘導だ。
浅慮な侵入者を、未来永劫引き留めるための誘導だ。
「はぁっ! はっ……はっ……」
白線の上で立ち止まり、負荷を受けて痛みを感じだした肺を労る呼吸をする。落ち着いたところで、虚空を睨み付けて静かに待った。
『———視線誘導による行動誘引型トラップの解除を確認しました——』
頭上から聞こえてくる、男とも女とも区別の付かない声。直後、足元の白線が全て消滅した。
『遠隔遺伝子走査実行。——実行、——実行。登録済特異遺伝子断片を発見。侵入対象を、登録済みの系統より発生・分化した人類種として認定。知能指数評価を実行』
声は時折、聞きなれない言葉を差し挟みつつ勝手に事と次第を伝えてくる。
ただただ混乱するばかりだったが、正面に白い長方形の空間と……私が現れた。
『ようこそ。これからわたしの指示どおりに行動してください』
「あなたは……誰です」
『これはあなたの体格と風貌を模倣して、当構築物の自律管理機構が即製した、対話型光学立体映像です。いらぬ懸念を回避するため、通常は侵入者の風貌の平均値から出力された姿となりますが、現在はあなたの風貌をそのまま使用しております』
「そう、ですか」
『ではわたしのまねをしてください。私はこれから手を二回叩きます。繰り返します。わたしのまねをしてください」
「わかりました」
『では』
ぱん
ぱん
ぱん
虚空に、手が打ち鳴らされる音が「三回」響いた。
おかしい。
言っていることと行動が違う。
『どうぞ』
——戸惑いながらも、拍手を三回打つ。
『クリア。それでは次の設問……』
「待って下さい。今のを間違えていたら、どうなっていたのです」
『それまでの知能指数の生物ということで、燻蒸措置を行っておりました』
「燻蒸……? それを受けるとどうなるのです」
『低位存在による、それ以上の疑問に答える義務は当方にはありません』
冷然としたその答えに寒けがした。
この……私のカタチを模したこの存在は、私や他の侵入者を明らかに下に見ている。
それは自分が貴い存在だという奢りなどの自信に根付いた思考ではなく、私たちが馬匹や食肉用の動物に対する距離の取り方に似ている。
その後、いくつかの設問を拍手で回答していった。
やがて私のうつし身は満足そうに笑い、『対話に耐える知性体と認定します』といって消えた。そして再び白線が現れる。
今度は白線の先に、白い入り口のようなものが立ち上がってきた。
来いと言うことか。
誘われるがままに白い光の中へ足を踏み入れる。
サク、と、足の裏に土と草の感触が伝わってきた。
そしてどこかで嗅いだことのある花の香り。
眼前に景色が広がっていく。
私の思い出を読み取り、それを即興で白いカンバスに描いていくような広がり方が目の前で繰り広げられ、毎朝私が散歩をしている王宮の中庭が再現されていった。
傍らの花壇で咲く桃色の小さな花弁が風に揺れているのを見て、記憶がさらに鮮明になっていく。どこかで嗅いだことのある香りは、母上が好きだった花のもの。
栽培が難しく、母上がお隠れになったあとはみな、根腐れで絶えてしまった。
ああそうだ。この花壇は全て撤去してしまったんだ。私は花を育むことが性に合わなかったし、空になった花壇に別の花を植えることも父上が躊躇っていたから。
この温かな風が吹き始めた季節のころ、母上は中庭で午後の喫茶をするのが好きだった。
そう、あの白い茶卓で……。
………。
「ははうえ……?」
白い茶卓で喫茶をする女性は、間違いなく母上だった。私と同じ褐色に変じた、巫女の証となる肌をしている。
目の前に懐かしい人が現れ、私は思考が一瞬止まった。そしてフラフラと、芝の絨毯を歩いて茶卓へと歩み寄ろうとした。
母上がこちらに気づき、微笑んだ。
「——……」
「どうしました、レトヴィア」
もはや思い出にすら断片しか残っていない声が、耳の奥の感情を掻きむしる。
だが。
「母上では、ありませんね」
「はい」
「何者です。不敬ですよ」
見かけだけの母上は、私のその言葉を聞いて笑う。
「なぜ、思い出に浸ろうとしなかったのです」
「若すぎます。母上は私が十の時にお隠れになりました。あれから十年経ちます。違和感を感じるには十分なほどに、私の歳が追いつきつつあります」
「なるほど。思ったよりも複雑な精神構造をしている知性体のようですね」
「私のことを弄んでいるのですか」
「試しているだけですよ。この墳墓に入ってきたあなたという訪問者の、程度を調べているのです。確かに私たちはあなた方の祖先に、巫女となる者を選出して対話するという権利を与えました。しかしその巫女が愚かで、私たちの言っていることの真意や意向を解さなかったら? しょせん、このように原初的な言語による意思疎通に頼っているのです。その時点で、私たちの意思はほとんどがくみ取れないでしょうし」
母上は茶を、ふぅふぅと吹いて冷ましながら飲んでいる。そっくりだ。
「……私は、あなたをなんとお呼びすれば良いのです? いや、あなたは……生きているのですか? この墳墓に住んでいる存在?」
「呼び方などどうにでも。私たちはかつて、虚無に近いこのソラを旅し、多くの者から多くの尊称を捧げられました。しかしそれらは全て記録に残さず捨てました。無意味ですから」
すぅとこちらを向いた母上の目が恐ろしい。
私たちを、生命とも思っていない意思を感じる。
「……では、母上」
「その概念は、幾分か相応しいですね。しかし、つがいという不完全なシステムの、不完全な一部という意味では不本意ですが」
調子が狂う。
「本日はお願いの議があってまいりました。——秘薬の源泉についてです」
「秘薬? ああ、多目的微小構造体のことですか。フフ、秘薬とは」
母上が嗤う。
「源泉を、不可逆的に停めていただきたい」
「なぜ?」
「そんなこと、母上のような崇高な存在であれば聞かずともお分かりになっているでしょう」
「いえ、私が疑問に思っているのはそこではありませんよ、レトヴィア。ああ、そこで立っているのもくたびれるでしょう? ヒト種は、すぐに集中が切れるでしょうし」
母上は手を差し伸べて私を対面の席に誘った。その誘いを受け座ると、言い知れぬ感動を覚えてしまった。
いつの日だったか。
幼く、視線の高さが合わない対面の座席に座っていたころ。いつか母上と同じ高さの視線で椅子に座り、一緒に熱い茶を楽しむのだという憧憬。
それが、このようなカタチで……。
「あなたがたの言葉で秘薬、と言いますが、ソレを停めてしまったら困るでしょう?」
「のっぴきならない理由が現出したのです」
「停めることはあなたの本意ですか?」
「はい」
「秘薬の産生を辞めた途端、この星が腐り落ちると言っても?」
「それは比喩ではなく?」
「ええ。どこかに記録が残っていませんか? この星はそもそも、生き物が根付かない星なのですよ?」
神話のあの話だ。
神話のとおり、本当にこの星は不毛だったのか。
それを秘薬の力で、命溢れる星にしたというのか。
「この星の生命は全て、秘薬と一蓮托生なのですよ。例えばあなたがたの腸内細菌。これは全て、あなたがたが秘薬と呼ぶ微小構造体が担っています。秘薬の産生を停めたことで摂取が滞るとどうなります? まあ、不快なことになるでしょうね。そのまま栄養失調で死ぬでしょう」
「ではどうしろと!? 今もこうしているうちに、星の外から来た者達が秘薬を求めて押し寄せてきています! ある知恵者が、最悪はこの星がまるごと秘薬の泉に作り変えられると言っておりました!!」
「ほう。それはなかなか先が見えている知恵者ですね。会ってみたいものです」
「ごまかさないで頂きたい、母上! 私はこの星に生まれ育ち、そして民を見守る者として、星の平穏と平和を護りたいのです!」
「フフ。平穏などという定常状態。それを維持するのがいかに難しいか」
「今までは出来ていたではないですか!」
「愚かな娘ですね。路傍の石だと思われていた物が、実は金塊だったと露見したのですよ。暴露されてしまった以上、もはや元の石には戻れません」
そんなことは分かっている!
だから私は、不埒者の気を惹く秘薬の湧出を停めようといっているのに……。
湧出を停めたら皆死ぬ?
では、ではどうしたらいいのだ!
「民を統べる者、導く者としての覚悟を見せなさい。レトヴィア」
「……? なにを……」
「もはや安寧の中で平穏を貪るのではなく、奔流の中で平穏を生み出す時なのですよ。そういう、歴史の節目に立っているのです。レトヴィア」
つまり。
今までの平穏は戻ってこないということ?
だから違う平穏を、未来を私が創りあげろと?
今このときから、誰も考えなかった別の平穏を私が一人で?
「黙ってしまいましたね?」
できるのか? そんなことを私ができるのか?
……いや。そうではないのか。
やらないと、いけないのか。
もう、私しかできないのか。
「……面白いでは、ないですか」
「あら」
「私以前の歴代の王も巫女も出来なかったことを、私がやらないといけない? 上等ではありませんか」
「生半な道ではありませんよ」
「それしか道はないのでしょう、母上。私はお飾りの巫女ではありませんし、王族として教育を受けてきました。そして今日この日まで生きて、この場に立っている。今までの積み重ねがここで活きようとしているのです。ここで逃げたり、無理だと怯むのは自分の今までを否定することですから」
啖呵を切ったが、正直なところ不安しかない。
だが本心だ。ここには私しかいない。
私が一番、自分自身の力不足を分かっている。
父上を補佐することもできず、兄上を諫めることもできない、不能な者だ。大切な近しい者も目の前で失った。
だがそれは、私が無知で、危機感が欠如していたからだ。
奥歯に違和感を感じる。不安と、体の震えを抑えるのに全力を注いでいるから。
母上は私を涼しい顔で見据えている。今までの調子だと、私が未来に怯えているのを見透かしているのだろう。
「それが聞きたかったのですよ」
「………!?」
「自分を真に不能と、苦悶の中で客観的に評価できる者は聡い。そしてそれを恥じてもいる。なるほど。この墳墓の心奥に至る血筋に値します」
「私の心を読んだのですか」
「さあ。どうでしょうね」
不意に景色が暗転した。やがて白い茶卓と椅子だけが残り、茶卓が姿を変えていく。
白い、うっすらと紋様が彫られている四角柱が足元に現れた。
「それをお持ちなさい。そして、すぐにこの墳墓を立ち去るのです」
「これは?」
「あなたたちが秘薬と呼ぶものの設計図です。量産に必要な技術の指南も入っています。ですがそれは、あなたたち以外には秘伝です。製法を星の外に持ちだすことは禁じます」
「それでは何も解決しては……」
「いえ。あなたがこの空間を出た直後より、この墳墓を海中に沈めます。秘薬も海底に没することになるでしょう。不埒者達の手の届かぬところへと消えるのです」
「秘薬がなくなれば私たちは滅ぶのでは」
「もはや私たちが庇護を与える時期は終わったのですよ。今渡したそのデータを理解し、自分たちの技術として昇華させなさい」
四角柱から取っ手がせり出してきた。
まるで私に「連れて行け」と訴えているようだ。
「さあ手にとりなさい。駆け出しなさい。もはやあなたたちは子ではありません。自分を律して自分が何者かを理解し、難問に対してどん欲に立ち向かう存在なのです」
「——分かりました。母上」
取っ手を掴む。柔らかな温かみを感じる、陶磁器のような感触。
そして重い。水の一杯入った木桶ほどの重さがある。
覚悟を決めよう。
大丈夫だ。母上も言っている。やってみせようではないか。
母上ほど賢くは立ち回れないかも知れない。いや、泥臭く走り回ることになるだろう。
「まぁレトヴィア。立派な貌をして」
母上が私の顔を見て喜んでいる。
「茶番はやめていただきたい……」
「茶番? 茶番なものですか。本物のお母上も、きっとこう喜ぶという、確かなシミュレートですよ」
「……母上」
「なんです?」
「いいえ。……さようなら」
そう呟いた直後、母上は優しく笑ってくれた。
やがて何もかもが消え、再び暗闇に光る白線が現れて出口を示す。
急がねば。
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