セカンドエンカウント
律が矢束蒼を知ってから四日が経っていた。そのうち三日は顔を合わせているし、矢束の部屋に二回宿泊し、もうかなりの回数のセックスをした。一緒に聴こうと言われて、「ヴェル・デ・ラ・ビット」なるバンドの曲も聴いた。どうせイロモノだろうと高を括っていたのだが、豈図らんやきちんと骨がしっかりしていて驚かされた。
それはそれとして、
「……おい、マジか、そっから上がんねーのかお前」
「ううううるさいー!」
矢束は腕立て伏せが出来ないのだった。
肘を曲げた時点でどこからともなくぱきぽきと音がして、ぷるぷると産まれたての子鹿のような震えをしばらく走らせた末に、べた、と静かに胸がマットに落ちた。
「マジかぁ……、どうやって生きてんだお前……」
「う、るさぁ……、マジ、うるさぁ……」
初めて矢束を抱いた翌日。僕でも筋肉を付けられるだろうか、と真剣な顔をして訊かれたから、とりあえずお前みたいなのはまず根本的な体力を付けてからだろうと、その夜のジョギングに付き合わせた。猪熊沼のジョギングコースは一周十キロ。さすがにいきなりフルコースはきついだろうと、三分の一の地点まで行って戻って来ようと思ったら、五分の一のところで「待って、待ってぇ、死ぬ、死んじゃう」と音を上げた。律はようやく身体が温まってきたかという段階だったのだが。
「僕の身体はきっと、運動するためには出来てないんだよ……」
絶望的な言葉も否定出来ないレベルかも知れない。身体はもう隅々まで知ってしまったけれど、筋肉が皆無というはずはもちろんなくてあちこちにその息衝きは感じるのだけれど、……まさか本当に腕立て伏せを一回も出来ないなどとは思わないではないか。今日は雨なので試しにこうしてトレーニングルームに連れて来たのだけれど、悪い意味で注目の的となってしまった矢束だった。
「加蔵がいりゃーなぁ……」
昨日は、バイトがあると言う矢束と別れてから律が独りで寄って身体を動かし始めてからしばらくしてやって来た。
律がかつての弛んだ身体を捨てて、まあまあ理想的と言っていいはずのこの肉体を得たのは、加蔵のお陰もある。
趣味の鉄道写真撮影で険しい山に入るためのトレーニングを積んだのだと言う加蔵は、律に正しいトレーニングのフォームやルーティーン、更にはおすすめのプロテインやサプリメントまで教えてくれたのである。何事も、アドバイスの有無は成果に大きく関わってくる。律は自分のボディコンディションの整備には成功したが、他者のこととなると途端に覚束なくなるし、そもそも矢束は鍛えることが可能なのか(もっと言えば、こんな奴は鍛えちゃっていいのか、怪我をしてしまうのではないのかというレベルで)という点についても是非助言を授かりたいと思っていたのだが。
「いいよ、もう。僕はずっと骨と皮と脂肪で生きて行くから……」
すっかりヘソを曲げてしまった矢束は、腕立て伏せ一回、いや実際は一回も出来ていないのに、汗だけはしっかりかいているのだった。ジョギングに誘った日、まず服を買いに行った矢束であり、わりと形から入るタイプなんだなと律は思った。トレーニングウェアはまだどこも擦り切れていないが、汗びっしょりで、形ばかりはハードなトレーニング後の姿であった。
走るのもダメ、筋トレもダメ、とにかく絶対的な体力がない。あと出来そうなことと言えば、
「ウォーキングぐらいか」
ということにはなろう。歩くぐらいなら、まあ当たり前のことながら問題なく出来ている。しかし矢束はぽっきり心が折れてしまった様子で、力なく首を振るばかりだ。友達なのだから、あまり強いるようなこともしたくない。しつこく言って付き合っていた相手に嫌われた苦い経験が律にはあった。良かれと思って言っているつもりでも、相手にはそう受け取られないということは往々にしてあるものだ。
「帰る……」
矢束はしょんぼりと立ち上がって、ふらふらとトレーニングルームを出て行った。あいつが現状以上を望まないのならば、律が求める理由もない。それは単なる大きなお世話だ。
俺はどうしようかな、七時からはバイトがある。ひょっとしたら怒らせてしまっただろうか、「どうやって生きてんだ」は言い過ぎだったか、追い駆けて行って謝った方がいいのかと思ったけれど、結局そのまま座り込んでいた律の視界の端に、知っている顔が二つ、意外な組み合わせでやって来て、思わずぽかんと口を開けてしまった。
片方は加蔵である。それはいいが、もう一人。
ちっとも似合っていない真っ黒なトレーニングウェアに、サコッシュを提げて入ってきた男は涙袋の目尻側が紅い。
猪熊駅で「もし」と話しかけて来たあの男だった。目元の色は酔いの証ではなくて、生まれつきのものだったらしい。
それにしても、ちっこい。矢束よりももう五センチ以上は小さくて、薄い身体をしていて、加えて言えば蛍光灯の下で余計に判ることだが童顔である。隣に立っているのが巨漢の加蔵であるということも手伝って、余計にそれが際立ってしまう。大人とこどもだ。
彼らは同時に律に気付いた。二人は互いに、律を知っていることを初めて知ったらしく、顔を見合わせて何か言い交わしていた。
「こんにちは」
ちっこいのはにこりともせずに、しかし礼儀正しく挨拶をした。硝子で出来た人形みたいだが、涙袋の血の色が僅かに生体であることを主張しているかに見える。
「先日一緒におられた方は、今日はいらっしゃらないのですね」
「ああ……、いや、まあ……」
加蔵は少しばかり居心地悪そうに「ナカツルさん」と小柄な、こどもみたいな男に言った。
「早いところ始めましょう」
三年生であり、一浪二年生の律と同い年の加蔵が敬語。
ということは、いま「ナカツル」と言われたこの男は四年生であるということだ。……この見た目で? 二十歳を過ぎている? 本当に?
「ええ、解っています」
ナカツルは鷹揚に頷いて、……ほんの少し、笑った。
「この通り、ひょろひょろな身体をしていますもので、仕事場の上司に言われたのです。『ちょっとぐらいは身体を動かせ。基礎代謝で追い付かなくなったらあっという間に肥るぞ』と。プラスティックで出来ているみたいな無愛想のくせに、悪口を言わせたら天下一品という人なのです。とはいえ僕も肥って早死にするのは嫌なので、親しい後輩の中で最も身体の大きな加蔵くんに助力を求めたという次第なのです」
別に訊いたわけでもなかったが、なるほど、何かの講義か演習かで、加蔵はこの童顔な先輩と知り合ったのだろう。
「はあ……、そうなんすか」
「文学部国文学科四年のナカツルと申します。こういう字を書きます」
律にスマートフォンを見せた。中寉、「寉」は鶴の異体字だろう。
「はあ……、えー、あの、二年の三摩です」
矢束が「あの人みたいに可愛かったら」と言っていたことを思い出す。中寉は綺麗な顔をしてはいるが、なんとなく、整い過ぎていて、可愛げという尺度で言えば乏しい気がする。それならば矢束の、性格とは裏腹に悪い感じに見える目の方が好みである。
「中寉さん」
このあと、用事でもあるのだろうか? 加蔵は妙にそわそわしている。
「そうでしたね、ごめんなさい。これは何の自慢にもならないのですが、僕は腕立て伏せが一回も出来ないのです」
そんなやつ同じ大学に二人もいなくていいのに。
矢束が使って、敷きっぱなしになっているマットの上に両手を付いて、
「よ」
細い手首に微かな力が入った。
「い」
肘がじわじわと直角に曲がって行って、
「しょあ無理です」
そのままべたんと落ちた。
こういう者たちはどうやって生きてるんだろう本当に。
うつ伏せになったまま、中寉はしばらく動かず、
「明日起きたら筋肉痛になっていそうです」
などと顔だけ向けて無表情に言った。
「……なあ、こういう人でもお前どうにか出来んの」
加蔵も中寉がここまでどうしようもない非力者であるとは思っていなかったようで、頬を強張らせている。先輩であるから馬鹿にすることも出来ない。
「中寉さんは、体力はある。圧倒的に筋力が足りないだけで……、でも、本当に根っこのところから変えて行くしかない。腕とか腹とかパーツ単位じゃなくて、全体としてのビルドアップをして行く前段階として、食事とかな、そういう部分から改善して行かんことには……」
中寉はマットに伏せたままでいる。
「ごはん、作るのはすごく好きなのですけど、量は少しでいいと思ってしまうのですよね」
言ってから、ごろんと仰向けになった。
「腹筋はどうですか」
「さあ、やったことがありません。試してみることにしましょうか」
足の裏は付けて、膝は曲げて、フォームは正しい。
「えい」
ほんの僅か、指一本入るかどうかぐらいの隙間が、彼の後頭部に生じたぐらいである。それなのに、どうですか、みたいな顔をして律と加蔵を見上げている。矢束も似たようなもんなんだろうなぁ、いやあいつのほうが少しはマシだといいなぁ、なんて余計なことを思う。
「中寉さん歌唄うのに何で……」
「唄うときに使うのとは少し違う筋肉なのではないでしょうか。唄って筋肉痛になったことはありません。跳ね回って膝小僧をぶつけたことがあるぐらいです」
意外な情報だった。このちっこくて声も控えめなヴォリュームの、大勢いる中に放り込んだら見えなくなってしまいそうな人が……。
「仲間と一緒に細々と活動しているバンドですよ」
「……汗すごいっすね。マジで今のだけでどんだけ体脂肪燃やしてんすか」
「おそれいります」
「いえ、褒めたわけじゃないすけど……」
効率のいい身体と言うべきか、それとも燃費が悪いと見るべきか。こういう体質の人がいるのだ、……矢束も同様であると解釈すれば、そもそも筋肉云々と言ったことからして間違いであるのに、落ち込ませるようなことを言ってしまったことに後悔の念が浮かんだ。そもそも、恋人でもないのに指図するような傲慢な真似をするべきではなかった。
「やっぱり、中寉さんはいまのままでいいんじゃないですか」
加蔵は無表情で息を弾ませ汗びっしょりという有り様の中寉に嘆息しつつ言った。
「向き不向きありますし、その、ええと何というか、そういうキャラでいて全然おかしくないと思いますし」
キャラ、ああなるほど非力キャラという話だろう。しかし中寉は汗だくの童顔をサコッシュから出したハンカチで拭いて、ちょっと不服そうに唇を尖らせる。感情が露わになると、余計にこどもの顔になってしまう。指先まで神経の行き届いた流麗な仕草で顔を拭く、それは「キャラ」ではなくて、この中寉という男の自然な振る舞いのようだった。どんなお坊っちゃん育ちなのだろう? ぼんやり呆れながら眺めていた律の思考にはまるで気付いた様子もなく、中寉は加蔵に向けて淡々と言う。
「しかし、世のため人のために働く『王子様』が不良に絡まれたからと言って同僚の『王子様』にいちいち助けを求めるというのはあまりにも決まらないでしょう。やっぱり『王子様』たるもの暴漢の一人や二人自力で撃退できるようにならなければ。そうでなくともマスターは僕が『王子様』であると宣したときは、あのプラスティックみたいな人が笑いを堪えるために控え室に引っ込んで十分近く出てこなかったのです。あの人を見返すためにも、僕はしっかりとした『王子様』にならなければいけません」
加蔵は中寉が「おうじさま」と発話するたびにビクンビクンと身を強張らせた。中寉は最終的にふんすと鼻息荒く、
「ですから、きちんと教えてください。僕だって加蔵くんのようになれるとは思っていませんよ、こちらの三摩くんほどで結構、せめて『ヒョロガリ』とか『キショガリ』とか言われない程度の筋肉と、あと出来れば護身術の二三を教えて下されば」
なんて言う。
誰かを殴打しようとすれば、その反動で骨をいわしてしまいそうに見える中寉であるのだが、そしてどさくさに紛れて失礼なことも言われたように思うのだが、それはそれとして。
「……王子様?」
ああ、と加蔵が顔を覆った。
先ほどの中寉の言葉の中に頻出した「王子様」は、中寉が自身を指して用いた単語であると見てよかろう。
そして、彼の言葉は、……同僚、とか、マスター、という単語もあった。「王子様」がなんらかの集団の構成員であり、複数存在することを示唆している。
つまり、である。
つまり、矢束があの日遭遇した「王子様」というのは……。
「……あの、詳しく話聴かせてもらいたいんですけど、いいすか」
加蔵が「あぁ……」と絶望的な嘆息をした。
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