チェックボックス
綺麗な目じゃねーか、なんて言ってやろうかどうしようか、少し迷う。矢束は律の言葉を栄養にするかもしれない。しかし、友達の形を変えることにどんな意味があるだろう? そうすることに責任は負えない。
「少なくとも、俺はそんな嫌じゃねーな。あの酒はどう考えても貰いすぎだし、一杯分の釣りぐらいにはなるんじゃねーの」
前髪を下ろして、……たちまちその双眸は見えなくなる。逆に、こいつには俺の顔が見えているのかな、なんて思った。
「じゃあ……、じゃあ、三摩くん僕と一緒にお風呂入ろう」
ちらりと矢束が傍の折戸に顔を向ける。
「昨日掃除したばっかりだから、綺麗だよ。その……、僕は、どうしたって男だからさ、三摩くんはノンケなわけだから、無理は絶対しちゃいけないと思うし、僕が裸になっても、嫌だなって思わなかったとして、……僕に触るのが嫌じゃないなって思ったとして、そのときに、三摩くんがしたいこと何かあったら、なんでもしてくれたらいいと思うし……」
極めてか細く弱い線を矢束が引いた。指で触れただけで切れてしまうようなものであることは彼自身も解っているはずだし、切って欲しいと願っていることは伝わって来る。
一歩引いたところで、シャツを捲り上げる。また一瞬、その顔貌の全てが露わになった。そして彼の白く貧相な、それでいて少しの脂質感を纏った上半身も。
髪や瞳の色を見ていて思ったことだが、全体として色に乏しい。細い、少ない、足りない、薄い、淡い、……そういった形容をたくさん掻き集めてどうにか形を為しているのが矢束蒼という男なのかもしれない。
「お前人生で腹筋とかしたことある?」
「あ、あるよ! ……体育の授業で」
「それ以外は?」
「……疑問なんだけど、普通の人ってみんな何の必要もなく腹筋とかするもの……?」
習慣付くまでは、確かに大変なことではあろうけれど、それでも「あー最近運動不足だなぁちょっと動いとくか」ぐらいのことは誰でもあっていいだろう。
「昔から……、ずっとこんな感じだよ。たぶん僕には筋肉なんて付いてないんだ……」
ベルトを外して、それから、……背中を向けてジーンズを下ろした。言葉としては失礼なものになると思ったから口に出しはしないけれど、やはり白くて陰影に乏しい。骨の存在がはっきり判るのに、皮膚の下には少しの蓄えがある。色感的に冷たさがあるのだが、それだけに動かして燃やしてやることはさぞ容易かろうなと思う。
黒い、何の変哲もないボクサーブリーフを穿いた矢束はそれを脱ぐ前に靴下を脱いで、傍で口を開けている洗濯機に放り込んだところで律を振り返った。
「三摩くん、は、泊まって行くの?」
「あー……、まあ……、どうしよう」
終電をなくしても、ちょっと頑張れば歩いて帰り着ける距離であるし、律の身体である。
「乾燥機、あるから。早ければ二時間かからずに全部終わるよ」
いいことを聴いた。ありがとな、とシャツを脱いで律が言うとき矢束は全裸になっていた。白い尻はでかくもないのに柔らかそうな輪郭である。筋肉量が少なくて、代わりに脂質感があるせいか、どことなく女の裸に近い気もする。けれど骨の形は間違いなく男なので、少々の混乱を催す。この男がこの身体で女を抱いたことがあるという事実の据わりが悪い。
「全部入れちゃっていい?」
うん、と頷きかけた矢束が慌てた様子で振り向いた。咄嗟に何をしようとしたのか、把握しかねた律の視線は洗濯機の中にあった。矢束の、昨日着ていたものであろう服が、下着が、洗濯機の底に溜まっていた。
その中に混じって、女の下着があることに気が付いた。
矢束も、律が気付いたことに気付いただろう。彼の顔は真っ赤だった。
今夜誰かを泊める予定なんて彼にはなかったに違いないし、酔っ払ったせいでそのことが頭から完全に抜け落ちていたのだろう。
今更人の趣味にとやかく言う気もない。何も言わずに律が自分の汗臭い汚れ物を、靴下までをも放り込んだら、彼も自分の服を入れて、滑稽なほどぎこちない動きで洗剤その他を投入して、蓋をして、スイッチを入れる。
「……見た?」
「見た。穿くの?」
ぎいい、と古い洗濯機が家を軋ませるみたいな音が耳に届くような動きで、矢束が頷いた。
「……女装、する勇気は、まだ、なくて。でも、……パンツぐらいだったら、と思って……」
「店で買ったのか」
「……通販で」
「へえ……」
がっくりと項垂れた矢束の裸の全部が見えた。足が、やけに白いなと思った。毛を剃っているからだと判るまで、少し時間を要した。だって、細い足、……形は確かに男のものではあるのだが、毛が生えていないことに、さほどの不自然さも感じられなかったので。
左手を翳して隠そうとしてはいるが、両足の間の男のシンボルもほとんど見えていた。大したことがない、と、……これもまた失礼に当たるだろうか。ちゃんと大人の男の形をしたものがそこにあるのが、かえって不自然に思われた。そこの毛もまた、矢束は丁寧に剃っているらしかった。
「別に引きゃしねーよ。……なんて言えばいいのかな、俺はそういう、男同士の、……語彙? 全然ないから。そういうのがいいって奴もいるってことだろ」
矢束の前を通り過ぎて、勝手に灯りを点けて入った浴室は、もちろん決して広くはないが、確かに清潔で、洗い場とバスタブがちゃんと分かれているというだけでいいなぁと思えるものだった。自分の家もこれぐらいの風呂だったら、わざわざ銭湯に行くこともない。しかるに、銭湯に行かなかったら自分の腹のたるみにも気付けなかったはずだから、これを一長一短と言うことが正しいかは判然としないが……。
クリーム色の腰掛けと、よりによって真っ黄色の、古き良き銭湯にて使われているような、薬の銘の入った洗面器。
「これどうした」
「買ったの、欲しくて。よくない?」
「いいな。……座れ」
でも、と言いかけたのを遮って、座らせる。シャワーを捻ると、律の部屋のそれより遥かに早く温かくなった。
「エロいことしよう」
「へ」
「お前嬉しいんだろ」
温かい湯を掛けても、矢束の震えは止まらなかった。曇った鏡がもし晴れていても、どのみち表情が伺えないことは同じである。けれど、律にはもうかなりの割合で矢束がどんな顔でいるかが判るのだ。
ボディソープを手に取って泡立てて、後ろから胸に手を回す。
「考えてみた、俺なりに。……俺はなんか、あんまり抵抗がないみたいだ、『こいつならいいか』ぐらいの感じでさ。お前が例えばもっとゴツかったり俺よりデカかったりしたら無理かもしんないけど、これぐらいの身体なわけだから。そんで、俺が何もしないで帰ったら、お前はたぶん今夜、すげー寂しいオナニーをして、でも気持ちよくなって、その分めちゃめちゃ凹むことになる」
今更気丈さを発揮することに意味などない。この男の、あちこちあまり硬くない身体の内側の心もまた、柔らかく傷付きやすいものであることは想像に難くなかった。
「だったら。……俺が気になんなくて、寧ろ、そうだな、お前が凹むのは嬉しくない、だったらさ、普通に楽しくエロいことすりゃいいんじゃねーかなって思った。だから、エロいことしよう。それで楽しかったらWin-Winだろ」
矢束は返事をしない。しかし律の、肌を撫ぜる手を止めることもない。上半身は、首から両手の指先まで白い泡に塗れた。そのまま足へと移る。答え易い問いの方が優しいかと思って質問を変えてみる。
「お前、休みの日とかどんなことして遊んでんの。発展場しょっちゅう行くの?」
「……発展場……、宿木橋ね、一回しか行ったことない。本読んで、あと、音楽聴いたり……」
「どんなの?」
「好きなバンドがあって……、メジャーな人たちじゃないんだけど、『ヴェル・デ・ラ・ビット』っていって……」
頬に唇を当ててみた。こちらを向かせて、唇に唇を重ねてみた。嫌悪感は少しも湧かない。もうとっくのとうに友達になってしまった気がする。きっとこの男にとって柔らかな心の中の深いところまで晒した相手はそう多くないはずで、だから律は貴重な存在である。尊重するのは言わずもがなのこと。
「三摩くんは……? 趣味とか……」
「あー……、あんまねぇな、漫画読むぐらい」
「どんなの?」
「『霹靂』とか、……『雷帝じじい』とか」
「おじいちゃんが出てくるのが好きなの?」
「わりと……。いいじゃん、強いじーさん」
太腿から足の裏まで、遠慮することもさせることもなく泡だらけにした上で、身を乗り出して両手で右の脹脛を包んで擦り上げる。
「おっひゃ!」
矢束は妙な声を上げた。律も時々セルフケアとして行う。靴下の跡がくっきり付いていたから、きっと浮腫みやすい体質なのだろうと思ったのだ。
「お前足疲れやすいだろ。夜寝る前にマッサージした方がいいぞ」
左足を擦ってやったときには、声を堪えていた矢束だった。足の指の間に指を入れる。ひくっひくっと震えているのはくすぐったさを堪えているのではないようだった。右手を口元に当て、左手は足の間を隠している。彼が隠している場所以外泡まみれにした上で解放して、後ろから抱き締めてみる。
律にとっては一つひとつが実験だった。
俺はこれが、上手く出来るか。設けたチェックリストに印を付けていくという作業……、いまのところ、何一つ問題がない。
「普段男呼んで遊ぶときもこんな緊張してんのかお前」
震えながら、後ろ手に律を探る。触りたがっている手に委ねるのは、「今日が初めて」という女に触らせるときよりもずっと安心感があった。
「洗ってくれんの?」
指先が触れた瞬間に、やけどをしたときのように逃げた。それから、息を震わせながらぎしぎしと軋む身体で振り返って、……振り返ってしまってから背後からボディソープのボトルを取って、落として、拾い上げて。その間ずっと全くガードの効かなくなった矢束の下半身が、欲深い形で律と向き合っている。まだ律はそこに泡を付けていないものだから、そこはとてもラディカルで、極めて男性的である。しかしながら、毛の生えていない、けれど大人の男の形をしたそれが震えて欲を求めている姿には、どこかしら不憫さを覚えた。
矢束の手が、律のそれを掴んだ。優しい力、丁寧な指先、もう律は彼のキスを当たり前のこととして受け止められる。絡む舌を舐め返して、……上手いな、上手いよな、こいつ……、感心しながら、ぬるつく手で矢束の砲身に触れた。舌を伝った声を呑み込み、徐々に矢束の手のひらを押し返す力を持ち始めた自身の矛先へ、矢束の矛先を寄せて、重ねてみる。
「よかった」
僅かばかり、笑みが溢れた。
「ちょっとだけ俺の方が大きいや」
人差し指と中指で、泡の中でも紅く腫れていることが判る果実のような矢束の先端を舐めるように挟んでみた。矢束はもうとうに腰掛けから落ちていて、律の砲身を手放して両手で抱き着いている。そうしないではいられない、一杯いっぱいになっている様子は、泣きそうなこどもを見ているみたいな気持ちを律に催させる。
弾けそうな興奮を持て余している矢束を、ちょっと羨ましく思った。同じ次元で遊べたなら、俺もきっともっと楽しい。
「いきそう?」
焦りを帯びた頷き方をした矢束の身体に、シャワーの湯を掛ける。泡を洗い流して、代わりにあどけなさのようなものを纏った矢束にもう一度キスをして、「そうかぁ……」と独語しながら考える。
俺はこの友達と、……今日出来たばかりの友達と、どこまで仲良くなれるだろう? レ点がまだ付いていないチェックボックスが、まだまだたくさんある。
「あのさ、一応だけど、お前病気とかないよね?」
矢束が、こっくり頷いた。あまりリスキーなことをしそうなタイプではないことは確かだ。
「ちゃんと」
律儀な男は言う。
「する、とき、ゴム、するし、検査も、この間受けて、平気、それから、誰ともしてない、から」
だから。
この先もきっと平気。三十センチぐらいの距離を経て見ているもの、十五センチ、十センチ、距離を詰めて行ってもまだ大丈夫。
「ま……っ、待っ、……マ? まっ」
何だよそれ、と噴き出しそうな気持ちになったところでゼロになった。
「う、うそっ、うそだ、嘘だっこんなっこんなのぉ……!」
動転しきった声だった。これまで(片手で収まるほどの数の)女に与えてもらった快感がどれほど素晴らしいものであったかを、律は言葉で表現することは出来ないし、自分の身体的運動でそれをするのは全く不可能だと思った。意外と平気、でもちょっとだけ苦しい、あとしょっぺえな……、自分の感想ばかりが湧いてくる。こんなにリアルに口の中で脈打ってる感じがするもんなのかぁ……、それも単なる感想である。
どうなん。
と問おうと舌を引き顔を上げようとしたところで、矢束が短い悲鳴を上げ、口の中で何度も何度も彼自身をのたうたせた。脈動のたびに、どろりと重たくて、あとわりと親しみのある臭いの液体が放たれて、たちまち口の中を満たす。
味は、まあ、こんなもんか。もっと不味いものかも知れないという懸念を抱いていたことを、律は認める。くそ不味いものを「飲んで」なんて言っていたことを、これまで応じてくれた女にいますぐ謝りに行かなければいけないと思ったけれど、これぐらいならまあいいか、……いや、呑み込みづれえな、なんだこれ! ごめん!
「くっ……、はー……、アレだ、多分、お前めっちゃ濃いの出しただろ! 量もすげえし!」
「わ、わあっ、わあぁ、呑んじゃった!」
「うるせえよ、呑んで欲しくねーなら出すな!」
新しい遊びの楽しみを、律は覚えた。
何やってんだお前、すっぽんぽんで、何泣きそうになってんだ。気持ちよかったんならそれでいいじゃねーかと、矢束の頭を引き寄せて、昔の彼女にやられて「お前マジふざけんな」と半ギレというかもう全ギレしたことを、平行移動して実践する。
「ご、めんな、ひゃっ……、らって、らってぇ、ひょんな、みちゅまくんフェラひてくれるなんて思っへなふぁった……!」
うっかり期待を上回ってしまったらしい。
「気持ちよかったか」
現象から明らかなことを、わざわざ訊いて、
「楽しいな」
男の身体の臭いの息で言って笑う。矢束は呆然と律の顔を見詰めて、これ以上ないぐらいに困って、身を縮ませて頷いた。
「っつーか、お前早いのな」
「……それが、『可愛い』って言われるよ」
「あー、なるほどな……。まーいいんじゃねーか、俺も早い方だと思うし、……遅漏の方がダメだろ」
「……この間まで付き合ってた人、すごく長持ちする人だった。でも、一回終わると『もういい』って言うんだ」
「そいつ幾つ?」
「おじさんだよ、三十五」
「ふーん……、俺も三十過ぎたらそうなんのかな……」
矢束がどのぐらいの罪深さを味わったのかは判然としない。ふーっと長く嘆息した彼は、
「びっくりしたぁ……」
と力感のない笑みを浮かべる。何に、と問うほど愚かしい真似はしない。
「俺、向いてんのかもな」
「たぶんね。……三摩くんは、きっともてるよ。僕なんかより全然」
「って言うのは、あれか、ケツの穴の締まりが良さそうに見えるか」
あはは、と無邪気な笑い声を立てて、矢束が律の胸に凭れ掛かった。言葉を交わすようにキスをしながら律の肉に触れた彼は、まだそこに余裕があることを不服に思うのだと、律の唇に歯を立てた。
罪深さに慄くはずの時間を、矢束は容易く過ごし切ったのだ。律はうっすらと安心して、矢束の唇と手による愛撫が心に届くのを覚える。自分のやり方は見様見真似程度のものでしかなかっただろうし、それで矢束が達したのは彼が自認する通りの早さのお陰だろう。
逆に、自身のペースを掴んだ矢束は、ある程度の経験は積んで来たと自負する律を容易く高めた。
「三摩くんは、何したら怒るんだろ……」
律の耳を噛んで矢束は囁く。
「怒らせたいのか」
「怒られるのは、嫌だな。だから、怒られない範囲で……」
だいたい何でもして来たなあ……、と振り返る。別にそれほど女に好かれるタイプの人間でもないだろうけれど、振り返ってみるとここまで人生五打数三安打。
「ぜんぜん、引かないし、引かないどころか、僕の口でするのも平気みたいだったし」
「どっか引くようなところあったっけ」
「普通は、……最初で引くよ。最初のは我慢出来ても、パンツ、見たときにだいぶ引くよ」
そういうものかも知れない。
「何枚も持ってんの?」
小さく、矢束が首肯した。
「穿くと興奮する?」
「……ちょっと、する」
「じゃー、……今夜は別にいいけど、今度穿いて見せろよ。服はまだ買ってねーの? なんなら、ぜんぶ揃えて着て見せろ。引くかどうかは見て判断する」
唇がまた重なった。深く、深く、舌を絡めながら、矢束が再興した自身の熱を律の先端に擦り付けてくる。顔が離れても舌先はまだ触れ合っていて、その舌と舌との間に距離が生じても、まだか細い糸で繋がったままだった。二人で見下ろした場所でも同じように、……矢束から溢れたものだけではなくて、律から滲んだものとも混じり合って、糸で繋がっている。
「したいことすりゃいいじゃん。それで『嫌だな』って思ったら言うし。引かれることそのものをそんな怖がんなくてもいいんじゃねーか、その瞬間お前のこと嫌いになるってことは、今更もうそんなないと思うし、……逆にお前もな、俺が言ったりしたりしたことで嫌だと思ったら、それは言えよ。俺のために無理なんかしなくていい」
例えば。
「さっきからわりと、しょんべんしたい」
やっぱり律も多少は緊張していたのだろうか。欲を果たしたい気持ちが高まっているタイミングでそちらの欲も高まっている。「このまんま、していいか」と言ってどういう顔をするだろうと思っていたら、
「僕もしたい」
矢束がはにかんだように笑った。
「三摩くん、そんなのも平気なの……?」
「女に顔の上で漏らされたことある。……俺が『しろ』って言ったんだ」
「変態だ……」
「そう言われたよ。でも、思うんだけどな、一定数はそれ好きな奴もいるじゃん。お前の付き合った奴の中にはいなかった?」
こくん、と頷くだけではなくて、
「『して』って言っても、してくれた人はいなかった」
真実を告げる言葉まで持ってくる。自身の心の丸裸を、律に見せずにはいられないのだろう。
いい具合に歪んでいるから、いい具合に噛み合うのだろう。律が握り返したそれの先端を愛撫した途端に、矢束は高い声を上げて透き通った飛沫を解き放った。特有の臭いと、精液と比べれば控えめな温度が律の胸に飛び散る。それを先に感じて、僅かに安心した気持ちになって律も矢束に握られたまま放った。
「うぁ……、すごい……、すごい……、すごい……、気持ちいいっ……」
はしゃいだ声を上げて、水流を浴びつつ矢束が腰を振る。お陰で彼の飛沫が律の顔に掛かった。男も女もこれは同じ味であることは想像していたし、これもレ点を一つ打つ確認作業、……楽しい作業の一環である。
律よりも経験人数で上回るのかもしれない矢束ではあるが、律はその中でも一番の変態であるかも知れない。律は律で、いままでは羞恥心と理性を最初から最後まで手放さないような、……人間としてはだいぶまともな相手との、愛情表現と言い換えることしか出来ないタイプのセックスばかりしてきたものだから、これはとても刺激的な時間。尿の勢いの先に弱まった矢束の前に立ち上がって自身の水流を突き付けたら、矢束は嬉しそうに口を開ける。
「美味しいの?」
片目が覗いている。目付きが悪いことはもう理解した。しかし、その瞳が蕩けている。
「おいひい……、うれひぃ……」
口から溢しながらも喉を鳴らして呑む間中、矢束は自分を汚した律の体液を白い肌に塗り広げるように肌に手を這わせ、やがて行き着いた自身を握って動かしている。
「お前のしょんべんまみれになった。綺麗にして」
きっと矢束は律がそう求めなくてもしてくれたはずだ。
とても、……とても丁寧なやり方だということを、まず思った。舌で清拭するという目的があるにしても、敬意の感じさせる舌の動き。律がどう感じているか、どこをして欲しいと願っているか、耳を澄ませて探る彼の舌によって、律のそれの表面は律と矢束自身の尿ではなく、矢束の唾液の味に塗り替えられて行く。陰嚢も、これ以上ないという丹念さで舌の先で存分にくすぐってから、片方ずつ口に含んで今度は面で拭って行く。
その健気さは、律に、この男の髪を撫ぜてやりたいという気持ちを強く催させるには十分過ぎるもので。
「おしっこ、だけじゃなくって……」
前髪を掻き上げて見る。とても淫らな色に染まった顔貌の全てを受け止めることに、律はほとんどもう何の抵抗もなかった。こいつはこういう顔をしている、ということを確認して、それを「嫌」とは思わない、ただそれだけのこと。
「いいよ。呑めよ」
目を見られているという意識があるからだろう、ほんの少しの躊躇いを覗かせた。しかし、矢束は自身のすると決めたことに関しては、どうあってもするのだ。そういう心を「男らしい/らしくない」と言うのはこれまた問題の伴いそうなことであるが、そう臨機応変に言葉が思いつけるわけでもないと開き直りながら、律は自分の肉を口に収めるなり器用さを感じさせる動きで舌を巡らせ始めた矢束を見て、
「お前、可愛いな」
思った言葉をそのまま舌で紡ぐのはとても簡単だった。
それはどうやら魔法の言葉だった。矢束の舌と頭と、彼を握る右手が、勢いよく動き始めた。
男のそれはヤバいらしいって。誰が言ったのを聴いたのか、それとも何かで読んだのか、……発話者あるいは著者が実体験としてそれを持っているのかどうかも判然としないのだが、律は今この瞬間にリアルな気持ちとして言える。
男の口はヤバい。
どこをどうしたらどうなるのかを、全部判っている。だって今日まで男と肌を重ねたことなどなかった律だって(矢束が早漏であるという自己申告を差し引いても)容易く矢束を幸せにすることが出来てしまったのだ、特に何かのスキルを発動させたつもりもないままに、呆気ないほど。であるならば、経験において秀でる矢束の口が心地いいものであるに決まっていることを、もうちょっとぐらいは律も認識出来ていなければならなかった。だから律はちょっと軽率だった自分を今更のように自覚する。これを思うことは、……願わくば、差別ではないと思いたいけれど、……だってそうだろ女には生えてねえもんどこが良くてどこが良くなくてって知らんからすっげえ一生懸命やってくれてんのは判るしありがとうなって思うんだけどそれぜんぜんこれっぽっちも気持ちよくねーんだよなぁごめんなぁしんどそうにしてくれてんのになぁと何度も思ったあれはそうだよなそもそもお前女だもんな生えてねーもんなしょうがないそれなのに求めた俺が全面的に悪いよほんとにごめん世界中の女子たちよもう二度と俺はお前たちのお口を汚すようなことは断じてしませんから他のあらゆる男どももそうしなくなる世界が来るといいよな。
ああ、これはやべえわ。
「……っん……、んーっ、……ふふ、ふっ、くふふ、ふっふふふぅ……」
しょんべん臭いのみならず精液臭い口で、矢束が妙な笑い声を立てている。彼の腹や胸は彼自身が放ったものが白くこびり付いていた。律が高まる波に乗って、そのまま自身も一緒に達したのだろう。そうしたい、と彼が願って叶えた。
さあ、いかばかりの罪深さを感じることになるのだろう、この心は。
ぎゅっと身を縮ませて、衝撃に備えていたのだけど、何一つ痛みらしきものは走らなかった。
「や……っべえ、な、これ……、なぁ……」
ずっと指に絡めていた髪を、握って、ぐしゃぐしゃ撫でた。ご満悦、という顔の矢束は、そうだ、端的に言うと、クソガキの顔をしているのだと律は思った。八重歯がある。律の恐れていたものは、この男がこの歯で噛み砕いて飲み込んだ後だったのだろうか?
「嬉しい。ノンケの三摩くんのこといかせちゃった……」
チェックリストをまた一つ埋める。
「どうすんだよお前……、知ってたけど、知らなかったわこんなん……、どうすんだよマジで男の口じゃないといけなくなったら困るぞ」
一つ塞ぐはなから次へ次へまたその次へと新たなる設問が目の前に現れる。空っぽの箱を埋めるのは、十分後の、一時間後の、明日の予定を決めるようなもの。
「いい発展場教えてあげる、一緒に行こうよ。あと、まだ僕バーに入ったことないんだ」
「独りで行けよそんなん、俺はお前の保護者かよ」
「三摩くんもそういうとこ行っておいた方がいいと思うんだよね、やっぱりすごい素質あると思うしさ」
たぶん褒められているのだと思うので、そこまで悪い気がするものでもないが、……それでも、ちくり、ほんの少しだけ、痛みを覚えた。
「三摩くんは間違いなくもてるから、よりどりみどりだよ。みどり……、そうだ、『緑の兎』っていう、さっき言った『ヴェル・デ・ラ・ビット』ってバンドの人が働いてるお店、一緒に行こ」
「ゲイのバンドなのか」
「みんなメイド服着てライブしてる。人気あるんだよ、ゲイだけじゃなくて女の子のファンも多いし。ボーカルとギターとキーボードと笛の四人組」
「笛」
「そう、笛。みんなすごく可愛い。僕がどれぐらいか、三摩くんも色んな人と見比べてさ。それでも僕を『可愛い』って思ってもらえたらいいなって思うけど、どうかねぇ」
にひー、と笑う顔は、針の刺さった感じを覚えた律に、「ここ痛い? ねえ、ここが痛いの?」って、無慈悲な強さで押し込んでくるみたいだった。
でも実際、そうなのだ。矢束にとって自分が「何番目」であるのかも判らないし、訊いて確かめたいとも思わない。律には現状、……いまだけ、あるいは今後ずっとかは判らないけれど、「男」はまだ矢束蒼しかいないのだ。
「ねえ、今夜泊まって行きなよ。あした朝ごはん作ってあげる。起きられたら、だけど……」
文学研究の講義は既に矢束に伝えたように、まだ余裕がある。今後、ぼつぼつと穴の開く講義が増えて行くのだろうか、それとも今夜と幾つかの夜を過ぎた後には最初から夢か何かであったみたいに消えてしまうのだろうか。
そうであったとして、俺は。
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