猫神さまを崇めよ

中今透

前編

『猫神さまを崇めよ……』


 家で飼っている愛くるしい三毛猫、アンとウミが行方不明になった。

 アンもウミも、元の家で虐待されていたところを保護されて、祖父が連れ帰ってきたのだ。虐待の痕は酷く、尻尾を刃物で切り裂かれて、まるで二つの尾がある猫又のようになっていた。


 飼いはじめた当初こそ、祖父にも、子供の私にも警戒心を抱いていたが、今では名前を呼ぶとどこからどもなく現れて、『さあ撫でろ』と言わんばかりに近づいてくるくらい、仲良しになった。


 基本的には室内飼いだったが、田舎の家の敷地は広く、よく畑や倉庫にでかけては、虫と戯れたり、時には鼠や、名前を呼びたくない黒いテカテカの虫を捕ってきては、『どうだ』と言わんばかりの表情で、私の元に運んできたりしていた。

 もちろん、私はその度に引きつった笑みを浮かべていたが……。


 そんな二匹が、行方不明になった、夜のことである。

 夢の中で、男性とも女性ともつかない声が聞こえたのだ。


『猫神さまを崇めよ……』


 ただの夢。

 しかし、耳にしたこともない『猫神さま』という言葉が、突然、夢に出てくるだろうか。


『猫神さま』。


 もしそんな神さまがいるなら、どうか、アンとウミを帰してください。

 あの子たちは、私の、大事な大事な家族なんです……。

 どうか、どうか……。



      *



「ねえ、おじいちゃん。どこまで登るの?」

「あと少しの辛抱だ。それに、陽子が自分から言ったことだ。弱音を吐くんじゃない」


 私――陽子と祖父は、獣道ともいうべき道なき道を登っていた。

 祖父がよく山菜を採りに行く山の斜面は、中々に急で、自分より高齢な祖父がスイスイと登っていくのが信じられなかった。どうも私とは歩き方して違うようだが……。


 祖父に昨夜見た夢――『猫神さま』の話をしたところ、かつてそのような神が祀られていた神社があることを教えてもらい、こうして神社を目指しているが、本当にこんなところに神社などあるのだろうか?


「ほら、あれだ」


 斜面を登り切り、祖父が指し示した場所を見ると、物悲しい気持ちになった。


 女子高生である私の背丈と同じくらいの、小さな木製のお社は半ば崩れかけて、傾いていた。木が中から腐っているのだろう。

 苔で緑色になった鳥居にいたっては、一方の柱が折れて左側に傾き、地震でもきたら倒れそうになっていた。

 近づいてみると、傾いた小さな賽銭箱の隅には水が溜まっており、底の一部には穴も空いている。


 完全に人々の信仰を失い、荒れ果てた神社だった。


「……どうして、この神社、こんなことになってるの?」

「儂が子供の頃は、この辺りでも、養蚕ようさん業が盛んでな。かいこという虫のまゆから取れる生糸を作ることを生業としていたんだ」

「はじめて聞いた」

「儂が働ける歳になってからは、もうほとんど衰退していたからな。それで儂は大工仕事をするようになったんだ」


 祖父は近場に石に座って、腰をトントンと叩いた。


「猫は、蚕や繭を食い荒らすネズミという大敵を退治してくれるから、この辺りでは昔から、『猫神さま』といって祀っていたそうだ」

「じゃあ……、この神社は、『猫神さま』の神社なの?」

「そうだ。ほら、鳥居のとこにかかっている木板に『猫神社』とあるだろう」


 もう鳥居から落ちかけていたが、たしかに、『猫神社』とかかれた木板が鳥居にかかっている。


「昔は親父が手入れしてたみたいだが、もう、誰も参る者もいなくなって、こうなっちまったんだろうなあ」


 時代の流れで養蚕ようさん業が衰退して、仕方がないとはいえ、このように荒れ果てた神社を見るのは、物悲しい気分にさせられた。特に、猫好きにとっては堪らない。


「……この神社、綺麗にできないかな?」

「なんだ。昨夜見た夢を、本気にしているのか?」


 祖父はいぶかしみながらも、真剣な面持ちで聞いてきた。


「それとも、また『猫神さま』を祀るようになれば、アンとウミが帰ってくると思っているのか?」

「そ、それは……」


 私だって、半信半疑だ。

 所詮は夢の話で、しかも、『崇めよ』というだけで、アンとウミについては一言も触れていなかった。


「アンとウミは、腎不全に罹っていた。もう死期も近かったことは、陽子も知っているだろう」

「……うん」


 認めたくなかったが、腎不全は猫の宿命ともいえる病気で、猫の長寿化を妨げる要因ともなっていた。

 もう十二歳を超えたアンとウミも例にもれず、どんどん衰弱していく姿は、見ていられなかった。元気に走り回ることも、おもちゃで遊ぶこともせず、縁側でゆったりと日向ぼっこしていることが多くなった。


「死期を悟った猫は姿を消すなんていわれている。もしかしら、俺たちに死ぬ姿を見せたくなかったのかもしれん」

「そんな……」


 嫌だ。私は、たとえアンとウミが死んじゃうんだとしても、最後まで一緒にいたい。

 一緒にいて、「楽しかったよ」「嬉しかったよ」「ありがとう」、って声をかけてあげたい。

 ちゃんと、看取ってあげたい。


「……まっ。たしかに、神社がこのままというのは忍びないわな」

「え?」

「どうせ俺は、去年仕事を引退した身だ。ばあさんもしばらく前に亡くなって暇してたところだ。いっちょ、神社を直してみるのも悪くない」

「おじいちゃん……!」


 なんだかんだいって、祖父は私に甘いところがある。

 悪いことをしたときこそ、きちんと叱るが、そういう時は理由をしっかり説明して、私が理解するまで根気強く悟らせた。

 そうした、祖父の厳しさと優しさが、私は大好きだった。


 祖父はやおらに立ち上がり、神社の様子を確かめるように、お社の扉を開けた。

 小さなお社の中には、ちょこんとした招き猫の石像を中心に、古ぼけた猫の人形がたくさん入っていた。


「陽子の仕事はこれだ」


 そういって、祖父は人形のひとつをこちらに投げてよこした。

 慌ててキャッチしたそれは、酷く汚れており、ところどころ破けてもいる。鼠か虫かなんかに齧られたのだろう。


「これを、綺麗にして直すのが、陽子の仕事。それで、神社と鳥居を新しくするのが、俺の仕事だ」

「うん……! ありがとう、おじいちゃん!」


 祖父はうれしそうに破顔した。

 その力強い笑みが、とても心強かった。



      *



 調べて見ると、養蚕ようさん業において、猫を祀ることはそれほど珍しい話ではないことが分かった。

 東京の八王子市には、『絹の道』という絹を運ぶシルクロードがあり、そこから北北西に位置する青梅市にある『琴平神社』にも招き猫がたくさん奉納されているらしい。


 私はそうした情報を集めながら、荒れ果てた神社に奉納されていた人形の数々を、修繕していた。

 まずは、中の綿を抜いて外側を洗って干し、破けているところは別の布をあてがったりして縫い直し、そしてまた綿を入れ直す。

 その作業を延々と繰り返した。


 修繕された猫の人形は、果たして最初かこうだっただろうか、と思わせるほど表情がにこやかになり、私は嬉しくなって次々と数をこなしていった。


 お社の中にあった猫の石像は、一旦、家の中に避難させておいて、今は仏壇の上に鎮座している。

 おそらくは、この石像が、『猫神さま』のご神体なのだろう。

 この石像も苔やよく分からない染みで汚れていたため、濡らした布で丁寧にぬぐって綺麗にしておいた。


 祖父の方は、大工仲間を頼り、資材を入手して一人で神社の修繕を行っている。神社そのものの規模が小さいので、趣味がてら一人で行うそうだ。


 私の夏休みの大半はこの作業に費やされ、そしてその間、アンとウミが帰ってくることはなかった。

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