夢を食う男
棚からぼたもち
夢を食う男
男は、夢を食って生きていた。
画用紙に白を滲ませたような街灯が、街中を照らす頃に彼は外へ出ていく。外は案外涼しくて、夏とは思えないほどからっとしている。彼は闇夜で照らされたガラスに映る自分の顔を眺める。少しひげが生えてきた。そろそろ髪を切ったほうがいい、目にかかるくらいには伸びている。少し太ってきたな。痩せなければいけない。思えば、そんなことを昨日も考えていた気がする。月を見ると、不気味に、清く笑っている。
夢というものは存外不思議なもので、そいつの欲しいもの、したいことがはっきりと映る。彼はそれを食べる。なんの比喩でもなく、食べる。彼に人と同じような食事はいらない。ただ、きっかり毎日夜の二時、外へ出ては、うまそうな人の夢を食べる。夢は欲望が強いほどうまくなる。人気女優がお金を欲するのと、単なるJKが大金を夢見るのでは、まったく味が違う。うまい夢は何というか、まろやかで、刺激的で、匂いをかぐだけで腹が鳴るような気持ちになる。
彼は家を出てから数分歩くと、足を止めた。彼の家は住宅街にあるが、その周辺の夢は全部食ってしまったため、新しい食事を食べるには、少し歩く必要があった。やっぱり刺激を求めていくのが人の性らしい。夜の住宅街は全く素晴らしいもので、道路の真ん中に寝そべっても、誰にも何とも言われない。男は、道路の真ん中で、大きく息を吸って吐いた。
今日はどんなものがあるだろうとあたりを見渡すと、随分とちんけな食事の中に、まるで闇夜を照らす一等星のように、ひときわ目立ったものがある。彼の自宅から11分、黒い屋根で、壁はきれいな白塗りが施されており、一階には大きな窓が一つ、二階には小さな窓が一つ、ベランダにはイチゴが真っ赤な身をぶらりとぶら下げている。その家には確認できる限り、父親と母親、そして一人っ子の息子がいるようだった。
彼が夢を覗くと、其れは随分と強い欲望を放っていた。いいにおいが彼のお腹をさすってくる。それは一人っ子である息子の夢だった。特に何の変哲もないお話で、怪獣二人に息子君が襲われていて、もう少しで食べられてしまうというところに、顔のキリっとしたかっこいいヒーローが飛んでやってきて、怪獣二人を炎の力でやっつける、決め台詞は「お前らはこの俺の熱い心で燃やしてやるぜ!」だった。彼は、まったく小さい子ってのは(この子は10歳にいくかいかないかくらいだった)、なんでもそれっぽい決め台詞を思いつくものだ、と感心した。しかし彼はまったくその夢が不思議に感じた。なぜこんな強い欲望を放っているのか、それが一番の気がかりだった。
その答えは、両親にあった。正確には、答えにつながるヒントが親二人の夢には隠されていた。彼は何となくそんな気がしていたから、両親の夢を覗いた。
「今日はやめておこう。食欲が失せてしまった。それから金輪際、この子の夢を喰おうなんてことはしないでおこう。」
彼のお腹をさすってきた、食欲という悪魔は、すっかりどっかに消え失せた。結論から言うと、息子君の夢は、食べてしまってよい代物ではなかった。食べるには、あんまりにかわいそうだった。それから、明日は雨らしいが、傘の一つも持っていなかったので、彼は帰路に就いた。月はまだ不気味に、清く笑っていた。
男は夢から覚めると真っ先にカーテンを開ける。今日は雨のようだ。厚くなった空を眺めると、きっとその向こうに太陽が輝いているのだと考えられる。今日も仕事だ。顔を洗って、自分の顔を眺める。髪はまだ切らなくて大丈夫そうだ(それでも、目にはかかっているが)。食事を済ませた後に、歯を磨く。まるで男の丸まった背中を隠すように、スーツをばっちり決めて、ネクタイをしめる。男は物心ついた時からこのルーティーンだ。食事が先で、あとから着替える。服が汚れてしまわないように。
玄関を出ると、残念ことに雨はまだ降り続いていた。実は男は今日、早起きをしている。いつもなら朝の7時15分には目を覚まし、8時30分には出ていく。でも今日起きたのは6時30分だった。彼にはいかなければならない場所があるのだ。それは昨日見た随分と強い欲望を放つ子供がいる家。男はどうしてもそこを確かめなければならなかった。
7時14分。いつもなら目覚める時間に、男は子供の家の前にいた。やっぱり予想通りであった。白塗りの玄関には水をやってなかったのか、枯れたアサガオとアザのついた少年が一人、ポツンと座っていた。男はそれを近づくでもなく、遠く、見守るでもなく、見つめていた。
男が昨日見たこの少年の両親の夢はひどいものだった。母親のほうは、男の夢ばかり見ていた。男にたかっては、承認と快楽でその身を満たし、おまけには金もついてくるというさまであった(出てくる男は存外若く、それでいて彼女の夢は欲望が強くなかった。おそらく、毎日のように若い男たちと、こんなことをして飢えを満たしているんだろう。こんな女でも好いてくれる青年が存在するものなのだな、と感心までした)。大方、この子供はそんなことをしている間にできた子供なのだろう。それに、男がもとより男がもとより父親だと思っていた人は、やはり、父親ではなかった。ただ、一夜を過ごした関係で、その父親もどきの夢には母親は出ておらず、ほかの女性が出てきていた。
全くかわいそうだ。こんな子を見ていると、自分がどれだけ恵まれているかがわかる。彼の心情は今どうなっているだろうか。こんな最悪な母親に嫌気がさしているだろうか。それとも、むしろ何も感じないのではないだろうか。少年の学校は今、夏季休業中であるので、きっとの間ずっとこんな扱いなのだろう。男は、そうを思った。
少年は、下を向いて、口から涎を垂らしている。きっとお腹を空かせているんだろう。服は案外きれいだが、頬はやせこけ、いかにも不健康な顔色をしている。男は、何もできず、そのまま会社に向かった。
それから数時間たって、男は帰路についていた。もう丸まった背中をただす気力もなく、ただ、仕事で疲れた体を早く休めたいと、家に帰ることを願っているだけであった。彼はいつもバスと電車を使う。家を出て、バスに乗り、電車に乗って、バスで会社へ向かう。つまり帰りはその逆で、男はあとはバスに乗れば家へ着くというところまで来ていた。20時25分、バスが到着した。男はバスに乗る。バスの席は満席だった。
男が降りるバス停は、10駅目。もう9つ目まで来ている。10駅目はこのバスの半分程度の位置にあり、まだバスには人が18名程度乗っている。ただ下を向いて、スマホを見たり、本を読んだり、そういう人ばかりだった。そんな中、窓の外を見て、バスに揺られる男の胸には、懸念があった。それはとても大きいのに、どうしようもできない懸念。
男は自分というものに、今まで自信を持ったことがなかった。自分のすることにいつも正解はなく、自分という人間が自分であるからには、どの行動もすべて不正解だった。髪の毛は目が被るまで伸ばし、自分という者の中身が悟られないように口調は敬語で、人から距離を置き、調子に乗らぬよう、傲慢な人間にならぬように努めた。なのでもとより、発表の場というのがとても苦手だった。学生時代はもちろんのこと、社会に出てからも、満足に自分をさらけ出したことがない。人の目が怖かった。彼はそういった恐怖を感じるとき、なぜか自分の額が熱くなる。まるで、彼の額におっきなニキビができているかのように。額は髪で隠れているし、誰からも見られていないはずなのに、誰かがきっと見ていて、自分が額が熱くなって悶えているのを嘲笑っている、そんな気がしてくる。
それがなぜか、今となって起こった。バス停も9つ目を過ぎて、もう四分の三のところに差し掛かっている。だが、彼はその大きくてどうしようもない懸念を誰かが知っていて、自分を責め立ててくる、そんな気がした。男は、その丸まった背中をもっと丸めて、10駅目のバス停で降りた。すると、痛みはぴたりとやんだ。あぁ、またダメかと、男は思う。周りに、人はいなかった。その頃の月は、雲に隠れ、どんな表情をしているのか、悟られぬようにしていた。
家に帰ると、男は疲労でベットに倒れこんでしまった。今日の食事は抜いても大丈夫だろうと、そう思った。
彼は夢から目を覚ます。大丈夫、今日こそは決心した。鏡で、自分の顔を見る。髪は短く、目がはっきりと出ている。自分の目がまるで夢のように、嘘みたいにキリッとしている。朝ごはんはいつものとは違って和食。新しい歯ブラシを出して、辛い歯磨き粉で歯を磨く。大丈夫。大丈夫。スーツを着こなし、背中は伸ばす。外に出ると、太陽は口角を存分に上げ、彼を見守っていた。
早歩きで9分、大きな懸念の前に立つ。今日は子供は外に出ていない。大丈夫。大丈夫。玄関の前に立って。小さな爆弾を、箱とリボンでかわいく装飾した爆弾を。そっと置く。10歩下がって左を向き、まっすぐ会社のほうに進む。キリッとした顔で、まるであの子の夢に出てきていた、ヒーローのように。後ろから爆発音がするのを聞いて、あの子供の喜ぶ顔を想像する。きっと、さぞ喜んでいるだろう。
そんないいにおいのする夢を、男は食べることができなかった。
夢を食う男 棚からぼたもち @tanabota-iikotoaruyo
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