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@iriyamazu
第1話#8891 良く滑る落ちない話
宇津井古書店の店先のワゴンから、講談社漫画文庫の『紫電改のタカ』三巻をとって店内に足を踏み入れた。
「コバ兄ちゃん、おはよー」
「もう昼だよ。昼飯食いに来たんだろ?」
宇津井古書店二代目の小林さんは、分厚いハードカバーの本から顔をあげて、こちらをギョロリと見る。話してみれば全然悪い人じゃないんだけど、本の読み過ぎで顔の筋肉が退化していて、とても無愛想な人に見える。。
「古本屋で飯食うわけないだろー」
小林さんは少し年上だけど、子供の頃からの知り合いだ。そういう人に敬語で話そうとすると、舌が絡まりながら喉の奥に落ちていって窒息しながら、蕁麻疹も出そうにならない? だって冒険に付き合わされて一緒に迷子になったり、夜中にこっそり家から連れ出されて肝試しをして一緒に迷子になったり、河原をひたすら歩いて海に連れていかれそうになって一緒に迷子になったりした人に改るなんて恥ずかしい。さっき小林さんなんて言ったから、頭のあたりが痒くなってきた。
「どうした? 頭ちゃんと洗ってるか? 洗い方教えてやろうか?」
「違うよ。もう大人だから頭の毛も、下の毛もちゃんと洗えてるよ」
さっきワゴンから取ってきた漫画の裏表紙の値札を見せる。
「これ百円で借りていくよ」
一段高くなった所に置かれたレジ代りの文机の上に百円玉を置く。
「うちは貸本屋じゃなくて古本屋だけどね。毎度ありがとう」
コバ兄は文机の引き出しを開くと、そこに百円玉を滑らせて落とした。あの引き出しがレジだ。
「ポプラ?」
お店の奥にある住居部からひとみ姉ちゃんが僕を呼ぶ声がした。多分いつものやつだ。
「ひとみ姉ちゃん、ありんこ堂一緒に行く?」
「行く行く! ちょっと待ってて!」
ありんこ堂っていうのは、ここの向かいのご飯屋さんだ。声だけで姿が見えない会話の相手はひとみ姉ちゃんだ。僕の幼馴染でコバ兄の奥さんで、宇津井さん家の一人娘。昔コバ兄とひとみ姉ちゃんが結婚するって聞いた時、嬉しいような失恋したような気持ちだったのをよく覚えている。
コバ兄と違って、ひとみ姉ちゃんはいつ見ても、いつまでも綺麗だ。
僕らの声を聞きつけて、ありんこ堂の店主のリンコさんが宇津井古書店にやってきた。ありんこ堂はこの季節、ほとんどずっと出入り口を開け放している。
「注文決まってる? 決まってたら先に聞いとくけど」
「僕はビーフライス」
「クリームあんみつ!」
ひとみ姉ちゃんの大きな声が聞こえてきたが、一向に姿を現さない。
「ご注文ありがとうございます。待ってるね」
リンコさんは自転車が来ないか左右を確認して店に戻っていった。僕はひとみ姉ちゃんに待っているように言われたので待っているが、ほんの数歩先のありんこ堂に行くのに、一緒に行く必要があるのだろうか。まぁ、待てと言われた以上待たないと、後でひとみ姉ちゃんに何を言われるかわからないので待つけども。
「ポプラ、そこにいられると、本が暗いから、玄関で待ってて」
読書に戻っていたコバ兄が、本から顔を上げずにお店の横の方を、ちょいちょいと指で示す。
「それじゃ失礼して」
一度宇津井古書店を出て、隣の店との間の路地に入る。ちなみに隣の店は僕の店だ。その路地を進んでいくと、うちの裏口と宇津井古書店の裏口が向かい合っている。ドアノブに手をかけてみると鍵はかかっていなかった。
「お邪魔します」
一応声をかけて上がり框に腰をかけた。家の中が見えないように下げられた薄い布がヒラヒラと風でめくれて、時折食卓が見える。椅子が三脚、テーブルの上には一組の空の食器類が並んでいる。
え、まさか僕はひとみ姉ちゃんがご飯食べ終わるの待たなきゃいけないの? 僕もご飯食べてないのに?
二階から音がする。ひとみ姉ちゃんは上にいるようだ。大きな声でいつまで待てば良いか聞いちゃおうかなと思っていると、裏口が開いてイグサが帰ってきた。
「うわ、驚いた。なんでこんな所にいるの?」
イグサは、この家の子供だ。今は確か高校生だ。白いブラウスと灰色の吊りスカートの制服に、派手な色のデイパックを背負っている。
「おかえり。学校早いね」
「ただいま。今日、昼までだったから。おかーさん、ただいまー」
イグサが奥に向かって大きな声を出すと、階段の方からトットットッと、三、四段降りる音がしてひとみ姉ちゃんの声が聞こえた。
「おかえり! 思ったより早かった。ちょっと待てて、着替えたらご飯にするから」
ローファーを蹴り飛ばすように脱いでいるイグサに声をかける。
「イグサ、ひとみ姉ちゃんに先行ってるねって伝えといて」
「ポプラー先行っててー」
軽くかぶるくらいにひとみ姉ちゃんの声がした。
僕は何の為に待たされていたのだろうか。
路地を抜けてアーケード通りに出ると、眩しさと食べ物の匂いがふわりと香る。アーケードの下は、そこにいる人達の営みの香りが濃い。
ありんこ堂の前には、腕組みをして店の入口を塞ぐように立つリンコさんがいた。呼び込みをするでもなくアーケードの下を通る人々に鋭い視線を投げかけている。もう接客業というよりは、セキュリティとかボディーガードみたいで怖い。服はカントリー調のワンピースで可愛いのだけれど、その短い袖からチラチラ見えるタトゥーがカラフルなのも相まって、リンコさんの前を通る通行人は少し緊張しているように見える。
「どうしたの? 具合悪い?」
「いや、日光浴」
「そんなミーアキャットみたいな」
ありんこ堂の店内は、アリさんの視点をテーマにしており、巨大なキノコのテーブルと椅子のセットが何組か並び、壁紙には大きな植物が描かれている。僕は偏見を持っているので、きのこを食べてハッピーになった時に見える世界にしか見えない。もしかしたらテーブルや椅子のキノコが、青、紫、オレンジと派手すぎるのが原因かもしれない。
「遅かったね。ひとみさんは?」
「イグサ帰ってきたから、後から来るって」
「そー。いつもの流木席でいい?」
「それでお願いします」
キノコの椅子は座り心地がすこぶる悪い。なので僕のお気に入りは流木席だ。リンコさんが元カレのサーフィンに付き合っている時に見つけた巨大な流木が転がしてあるだけの席だ。そこに輪切りの丸太をテーブルとして三個置いてある。いつも通り流木の真ん中に腰を下ろす。そして財布とスマホを慎重にテーブルに置く。アリさん目線がコンセプトなので、表面を滑らかにするなんてひ弱なことはしていない。迂闊に触れば容赦なく棘が刺さるテーブルだ。
リンコさんが厨房でご飯を作ってくれている間にさっき借りてきた漫画を読む。一巻と二巻が無かったのは残念だが、最初にこれまでのあらすじがあるので助かった。あらすじを読みながら、昔、宇津井古書店で立ち読みした事がある事がわかった。そう、そう、こういう話の漫画を夢中で読んだ。あの時は宇津井のおじちゃんはまだ生きてた。
「お水忘れてた。どーぞ。いったぁ!」
「棘? 大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。この間、ちょっと高い刺抜きかったから」
レジカウンターの下から、高い刺抜きと消毒セットが入った透明な箱を取り出して、こちらへ見せつけてくる。そのとき、ふとレジ横のショップカードが少ないのが目に留まった。
「棘抜いてよ」
リンコさんはこれで抜けばいいけど、お客さんが棘刺したときどうするつもりなんだろうか。
リンコさんの差し出した手は、僕の手の半分くらいで、ふわりと光を跳ね返すつやがある。刺抜きを受け取って、包むようにその手に触れる。そのしっとりとして、包み込まれるような弾力のある手に、永遠に触れ続けたい気持ちになった。
「リンコさんの手、気持ちいいね。ずっと触ってたい」
「ありがとう。頑張ってケアしてるからね」
ニヤニヤと嬉しそうなリンコさんの中指の腹に刺さった焦げ茶色の棘を引き抜いた。引き抜いてみるとこれが太くて長かった。
「あー痛かった。まだじんじんする。ありがとう」
リンコさんは、消毒されながらお礼を言いながら、空いている手で刺抜きを持った僕の手を握る。それからゆっくりと顔を近づけて来る。
二人の唇が触れ合う寸前、外から大きな声がした。
「ちょっとー! チューしようとしてたでしょ?」
二人して昔の漫画表現みたいに飛び上がってしまった。僕たちをひどく狼狽えさせた声の主はイグサだった。
「外から見えてるからね? 高校生じゃないんだからやめなね?」
僕らがなにか言い返す前に、お説教顔からニコニコ顔になって、駅の方へ走って逃げていった。
リンコさんと無言で顔を見合わせてから改めてキスをしようとすると、今度は僕のスマホが鳴った。無視しようと思ったけど、リンコさんが視線を外してスマホのを見たので、諦めて画面を見ると、ひとみ姉ちゃんからだ。僕のスマホなのにリンコさんがスピーカーで通話に出た。よく考えたら、リンコさん今、顔認証普通に突破したな?
「ポプラ、もうデザート食べちゃった?」
もしもしくらい言った方が良いと思うけど。もしかしてこっち見ながら電話してきてるのかな。向かいの宇津井書店を見るが、体をゆすりながら本を読んでいるコバ兄しか見えない。
「まだ頼んでもないよ、デザート」
「良かった。私ちょっと行けなくなったから、代わりに食べといて。おごるから」
「いいよ。悪いから出すよ」
「いいのいいの。ちょっと頼みたいこともあるし」
世話好きのひとみ姉ちゃんから頼まれごとをされるのはよくあることだ。今度はどこの誰が何で困っているのだろう。
プライベートな話かもしれないと気を使ったリンコさんが、一歩二歩と距離を取る。
「あ、リンコにも聞いて欲しいからいて、そこに」
やはりひとみ姉ちゃんは、どこからかこちらを見ているようだ。だったら十メートルもないんだから、こっちに来ればいいのに。
リンコさんは丸太テーブルの横にしゃがみこんで、スマホに覆いかぶさるように尋ねる。
「お願いってなんですか?」
リンコさんはひとみ姉ちゃんの大学の後輩らしい。ありんこ堂のこの場所を世話したのもひとみ姉ちゃんだし、リンコさんのお店の手伝いなんかもしている。
「実はね」
一旦言葉を切って、深呼吸すると静かに続けた。
「イグサに彼氏ができたらしいの」
「おーいいね」
生意気にも大きくなったもんだ。
「うそうそ、どんな子なんですか?」
リンコさんは楽しそうだ。後で弄り倒すつもりなのかもしれない。
「それがどんな子なのかよくわからないの。だからちょっと二人に探っておいてほしいなって」
「ひとみ姉ちゃん結構過保護だよね」
「そうね。自覚はあるんだけど、うちってそっちの話をちゃんとしてないから気になって」
「同じく恋する乙女として、話聞いとくんで任せてください」
今は独身だけど養育費を払っているリンコさんが目をキラキラさせて、大きくうなずきながら言う。
店の前を制服姿のイグサが肉屋のビニール袋を上機嫌で振り回しながら通り過ぎた。
「じゃあ、お昼食べたら、そっちのお店に行くように言っておくからよろしく!」
そう言って切る寸前、電話の向こうでイグサが元気よく「メンチ買えたよ」と言ったのが聞こえた。
「どんな子なんだろうね、相手」
リンコさんが楽しそうに言った。
「どんな子でも良いから、ご飯作ってよ。おなかすいちゃったよ」
「ごめんごめん。もうできてるから持ってくるね」
すぐに少しだけ冷めたビーフライスが運ばれてきた。まさか本当にできているとは。そして少し冷めたまま提供されるとは。
「いただきます」
少し冷めたビーフライスを一口頬張る。ケチャップとソースとビーフの味が口の中に広がる。
これを味わうと営業兼買い出し旅行から、無事に帰ってこられたなって安心するようになってきた。
じっくり味わって食べていると、食事を終えたイグサがやってくるのが見えた。今まで付き合った彼女全員に食べるの遅すぎると言われてきた。イグサもどうやら僕よりも食べるのが早いようだ。高校生は育ち盛りの食べ盛りだからだろうな。
「ポプラまだ食べてる。ウケる」
イグサの出で立ちは部屋着のジャージに、商店街の靴屋で五百円で買えるシャワーサンダルをペタペタ言わせている。リンコさんが恋バナしたい、恋する乙女はここにはいないかもしれない。
「ママがデザートないから、ありんこ堂でポプラと食べなってお金くれた」
二枚の千円札を胸の前に掲げる。
「ありがとうございます。いただきます」
「イグサちゃん何にしますか?」
「うーん。うち今ダイエット中だからみつ豆」
言いながら紫色のキノコの席についた。
「イグサの一人称”うち”になったの?」
「そー。なんか可愛くない? モテそうだし」
小さい頃、集めに集めたダンゴムシを見せてくれた時と変わらないキラキラした笑顔をこちらに向けてきた。そしてキノコ椅子から少し滑り落ちた。小さくおいしょと言いながら座り直している。
親戚の子どもと似たような感覚で、少しアホみたいでも可愛く見える。けど、小学生の頃のあだ名はイグサエルだ。天使の仲間じゃなくて、チューチューしてるトレインの方だ。その事実で、女性の集団における彼女のポジションがおわかりいただけるかもしれない。
「へえ、で、モテるようになったの?」
ポーカーや麻雀が下手な僕の顔を見て察したようだ。
「ポプラママから聞いたんでしょ? そうです。なんと彼氏ができました! 本物です! 人間です!」
小さくおいしょと言いながらキノコ椅子に座り直すイグサ。
なぜ急に僕の母が出てくるのか不明だが、とにかくイグサは鼻をふくらませて、大いに得意そうだ。
「ポプラさんはどうなんですか? 昨日まで一人で旅行してたみたいですけど?」
小さくおいしょと言いながらキノコ椅子に座り直すイグサ。
「僕の彼女の話じゃなくて、イグサの彼氏の話がしたいんだよ」
「やだよ。邪魔しないでよ? 初彼氏なんだから!」
リンコさんがニヤニヤしながらみつ豆を持ってきた。
「おめでとう。もうちゅーした?」
「したい!」
小さくおいしょと言いながらキノコ椅子に座り直すイグサ。
「イグサ、ちょっと真剣な話だからみつ豆食べながら茶化さずに聞いてよ」
「真剣な顔のポプラ見ると笑っちゃうから、もうちょっと面白い顔しててよ」
注文通り”自分の前に焚き火があるつもりの小芝居をする人”を始める。そういえば開業直後にリンコさんは、店内に本物の焚き火を設置して、すぐに消防団の人が飛んできてマジ説教されてたな。
イグサが小さくおいしょと言いながらキノコ椅子に座り直している間に、僕は手を火にかざしてから揉む動きをした。
「イグサは初めての相手だから、それは変だとか、これは嫌だとか、あんまわかんないだろ?」
「多少は友だちの話とか聞いてるからわかるよ。まあ、わからないこともあるかもだけど」
なにか怒られるのかと少しおどおどと慎重な物言いをしている。素直で可愛い。
小さな声でおいしょと言ってキノコ椅子に座り直したイグサは、どんな事を言われるのかと身構えた。
「そういう時、よくわからなくても、少しでもイグサが怖いとか変だなって感じたら、嫌だって断った方が絶対良いことだけ覚えといて」
「なんかよくわからないけどわかった」
小さな声でおいしょと言ってキノコ椅子に座り直す。
茶化されたりしなくてよかった。
僕にこれ以上弾がないことを察したリンコさんが一歩進み出る。
「どんな小さなことでも、すぐにこのリンコさんに相談しなさい。見た目によらず、そっち関係は経験豊富だから」
リンコさんはありっていうより、キリギリスのイメージだから意外でもなんでもないんだよなと思うし、イグサもそういう顔をしているが、すぐに切り替えた。
「わーい。リンコさんありがとう! 困ったら色々教えてね」
と言いながら、リンコさんに近づいて手をつないでいる。
僕はふと思い出して、財布の中を確認しながら話しかける。
「イグサ、これ、この間仕事でもらったからあげるよ」
そう言ってペラリと駅前のビジネスホテルの割引券を出す。
「やだ最低。本当に最低。いらないから」
そういってイグサは割引券をしっかり受け取るとキノコ椅子に帰っていった。
「必要なものは全て持参するように」
「必要なもの?」
「そういうのいいから、ちゃんと使えよ? 正しい使用法でな?」
「しないから使わない」
嘘だしそんなわけないよねー。
「よし、僕からの話はおしまい。笑わないで聞いてくれてありがとう」
「じゃあ今度は私の話聞いてね。ポプラたちはどうなってるの?」
生意気に意地悪そうな顔をしている。
「絶好調だよ。昨日結婚した」
「してないわ」
「へーほおん。あ、そうだ。今度ダブルデートして色々おごってよ」
青年カップルと壮年カップルがダブルデートなんてしてたら、おまわりさんにお話聞かれちゃうよ。
「あ、イグサ、更にいいものあげるから、ちょっと待ってて」
めんどくさいので雑に話題を変えることにした。返事を待たずにありんこ堂の斜向いの自分の店に戻る。鍵を開けると「ありんこ堂にいます」と書いたホワイトボードが揺れた。
カウンターの上のサンプル用のフォルダから、お目当てのカードを引っ張り出して確認する。
この知識が必要のない人生であることを願ってやまないが、もしもの時にしっていれば、何かを変えることができるかもしれない。
ありんこ堂に戻ると、イグサは一口ごとに、よいしょよいしょと座り直しながらみつ豆を食べていた。
「おまたせ。ほら、これ」
そういって僕は名刺サイズのカードを手渡す。表面にはシアンのサンセリフ体で
『#8891』
裏面には同じ色の同じフォントで
『性被害のワンストップ支援センター』
「いらないよ、こんなの」
「世の中、覚えておいて損する知識ってないからさ。番号覚えたら必要そうな友だちにあげな」
イグサは不満げに、だが一応ジャージのポケットにカードをしまいながら
「そんなひとじゃないし」
と口を尖らせる。
リンコさんが謎のステップを踏みながら、エプロンを撫でて、目配せでイグサと二人で話をしたいなって伝えてきたので、これで失礼することにした。
「ごちそうさまでした」
千円札と伝票をレジに置いておく。足りない分は、きっとさっきの二千円から出るだろう。
2
さて、普段なら、さっき百円で買った古本を、内日古書店で十円で買い取ってもらうのだが、『紫電改のタカ』3巻はとても面白かったので、先程買わなかった4巻と5巻も買って帰ることにした。ついでにひとみ姉ちゃんにご馳走様と店先から叫んでおいた。
宇津井古書店の隣の自分の店に帰ってきたが、朝からお客さんの影すら見えない。普段は買い出し旅行から帰ってくると、ショップカードマニア達がわんさか押し寄せてくるのに、珍しいこともあるものだ。
僕はここでショップカード専門店をやっている。ショップカードを作ってよというお客さんも来るし、潰れたからショップカード買い取ってよっていうお客さんや、珍しいショップカード売ってよというお客さんも来る。ショップカードのお店は、そんなに数がないので、マニアの皆さんに支えられてどうにやっている。
あ、そうそう、僕の店が珍しいのは、取り扱っている商品だけじゃない。
実は不定開なのだ。不定休ではない。
「あ」
そういえば今日は開店していますという告知をするのを忘れていた。それじゃあお客さんがくるわけがない。
レジとしても使っているタブレットでSNSに開店のお知らせを投稿した。画像は買い出し旅行で手に入れた色とりどりのショップカードだ。
しばらくタブレットを眺めていたが、いいねの通知一つ来ない。でも、もしかしたらお客さんが来てくれるかもしれないので、漫画を読んでのんびり待ってみよう。カウンターに置いたライトを点けた。
遠くからぼんやりと耳馴染みのある音楽が聞こえていく。水面に浮かび上がるように、その音楽がはっきりと聞こえてくる。『家路』だ。商店街の橋にあるスピーカーから、小学生に帰宅を促すチャイムとして毎日流れてくる。
どうやらお客さんが一人も来なかったおかげで、僕はどっぷりと漫画の世界に浸っていたようだ。
チャイムが鳴っても、この季節はまだまだ明るい。体を伸ばしがてら店の外へでる。斜向かいのありんこ堂からリンコさんも出てきて腰に手を当て、何も考えていない顔で、スピーカーの方角を見ている。
毎日のようにあれをやっているけど、何か意味があるのだろうか。瞑想とか? そんなぼーっとしてるリンコさんを毎日見てる事にも意味なんてないんだけど。
店じまいするしかないなと思いながら、なんとなく動けずにいた。ただただリンコさんを見ていると、彼女の眉がピクリと動いて、顔が瞬時に笑顔に変わり会釈した。そして僕の方を見て、その相手を手で示す。そちらに目をやると僕の母だ。
「インスタ見たらやってたから来ちゃった」
「久しぶり」
家が近いと逆に休みに帰省するイベントがないので、多分母さんに会うのは二年ぶりくらいだ。もう髪の毛も化粧も終わって、後はお店の看板を出すだけの格好だ。もしかしたら、僕の店に来たのは初めてかもしれない。開店の時に花は来たけど。
母さんはアーケードの終わった先にある飲み屋街でシローというスナックをやっている。
「もう開ける時間だから、あんた店閉めて、うちの店おいで。ちょっと話あるから。晩御飯はあるから」
それだけいうと向きを変え、さっさと飲み屋街の方へ帰っていく。こちらの都合を伝える暇一つ与えてくれなかったのに、リンコさんには手を振ったりしている。
SNSに営業終了と、それとは別にシローの悪口みたいなレビューを投稿して、シャッターを閉めに外へ出る。
もう『家路』は終わっているのに、リンコさんはまだ外に立って虚空を見つめている。
「リンコさん、飲み屋街行くけど、一緒に行く?」
「これから夕ご飯のお客さん来るかもしれないから行かれないよ」
リンコさんはそういうと不機嫌そうに虚空を見つめる作業に戻った。
「じゃあ、買い出し旅行でお土産にお酒買って来たから、夜遊ぼうよ」
「え! ありがとう! じゃあ、お店終わったら連絡するね! 一緒につまむもの買いに行こう」
「今日、お店何時まで?」
「いつもと同じ」
僕はわかったとコクコク頷いて、お店のシャッターを勢いよく下げて鍵をかけた。
歩き出す前にリンコさんにヒラヒラと手を振ってみる。ニコニコと手を振りかえして、リンコさんはお店の中に戻っていった。
あれはお土産の催促だったのだろうか。だとしたら面倒な人だなと思った。
母の店に向かう道中、僕にショップカードの注文をくれているお店に全部寄って、ご挨拶と追加注文がないかを聞いていく。
どこのお店もまだ元気だけど、お客さん減ってるのかな。ショップカードの注文は減少傾向だ。最低限の注文数を下げていった方がいいのかもしれない。市報によると、C県の人口は増えているらしいけど、ここL市の人口は減っているそうだ。
一通り挨拶も済んで、アーケードと飲み屋街の境の横断歩道に着いた。昔はココが境界で世界が変わったような気がしたが、人が減ると境界も薄まるようだ。今は別世界に行く期待感もない。駅に向かう道路を迎えの車が数台、通り過ぎたが青信号は変わらない。信号も手持ち無沙汰な顔で沈黙の時間が流れる。やがて曖昧にペコペコするように信号は変わっていった。
母さんの店に行くのも久しぶりなので、少し道に不安がある。横断歩道を渡ったところにある、飲み屋街の案内看板を見る。畳四畳くらいの大きな手書きの看板で、このカンファタブル横丁の中をヤンバルクイナや顔が赤っぽい亀が行進している。そして各店のところに、店名と店主の似顔絵が踊っている。描いた人の頭の中がどれくらい楽しい気持ちになると、こんなに賑やかな案内看板が描けるんだろうかと陰気な僕は思う。
その楽しい案内看板によると、ダンジョンのような横丁のほぼ中心に位置するのが目的地だ。そこに描かれた、人を食べそうな母さんの笑顔とか、隣の店の店主の眉一つ動かさずに人を殺しそうな髭面の似顔絵を見ていたら、とても帰りたくなってきた。鳥は亀はとても楽しそうに描かれているのに、なんで人間はこんなに恐ろしく見えるんだろうか。三白眼で焦点が定まっていないからだろうか。
どんどん心が重くなっていくのを感じるが、気を取り直して横丁へ入っていく。多くの店が開店直前だ。無軌道に伸びる細い路地はにわかに活気付き、看板に灯りは灯っていないものの、店の入り口を開け放って、いろいろの準備に忙しそうだ。路地の隅っこには、一日中カンファタブル横丁にたむろっている不良高齢者たちが、地面に直に座って、パック酒片手に、時代遅れの棒状の物の煙を吐き続けている。
そんな場末の横丁の準備の風景を見ながら、自分の店の看板をしまい忘れたことを思い出した。
これは非常にマズい。このままではイグサから「しまい忘れてたよ」というメッセージと共に、無惨に落書きされた看板の画像が送られてくること請け合いだ。今日は暇そうだったから、きっとリンコさんも奮って参加するに決まっている。リンコさんは恥ずかしげもなく幼稚で下品なイラストがかける人間だ。
晩御飯を食べたらすぐ帰ろう。リンコさんのお店が閉まる前に帰って、店じまいの手伝いをして喜ばせよう。
そうと決まれば大急ぎで用事を済ませる必要がある。早足に母の店を目指した。リンコさんの店でご飯を食べるようになるより前は、よく母さんの店の隣、キンキンというタコライス屋さんに毎日通っていた。しかし夜の横丁は本当に久しぶりだ。寝ぼけた昼の顔と、目が爛々とした夜の顔、街の変わりようは目に楽しい。そうそう、昼よりも夜の方が明るいんだよね、飲み屋街って。
母さんの店に着いたが、看板も出てないし、closedと札が下がっている。しかし急いでいる僕は構わずドアに手をかけた。カウベルが呑気な音を立ててドアが開い。
「こんばんは、柳ポプラです。母はおりますでしょうか」
カウンターの中にはバーテンダーっぽい青年がいる。初めて見る顔だ。いや、もしかしたら何回か会ってるかも。ちょっと自信ないから曖昧に会釈しておく。すると相手も同じように探るように会釈してくれたが、その反応から僕らの関係を窺い知るヒントはなかった。
さて困った。が、可能性は狭まった。会ったことがあるか、お互いに会った事がある気がしているだけか、本当に初対面かのどれかだ。全人類がそうか?
母さん、早く出てきてくれ。四歳の時の初めての留守番のように母が恋しくなった。幸いなことに僕がべそをかく前に母が入り口から入ってきてくれた。
「早かったね。はい、これ晩御飯」
そういってキンキンのタコライスを差し出した。テイクアウト用の容器ではなく、店内用の皿だしラップすらかかってない。
「ありがとう。前はよく食べに来たんだよ、これ」
「お店の看板を出す時さ、お隣さんが『今日来ましたよぉ』って教えてくれるから知ってるよ」
間に挟まった、似ているようで似ていないキンキンの亭主のモノマネが気になってツッコミそうになったが、時間がないので静かに母さんに従ってボックス席へ向かう。途中バーテンダー風の青年が出してくれた水とスプーンを、給水ポイントのように受け取っていく。いい人だ。お礼を言いながらボックス席に座る。
深紅のソファに体を沈めると、テーブルの向こうに母が仁王立ちした。
「それを食べながら聞きなさい。もうすぐお店の娘たち来ちゃうから時間ないの」
「あ、マヨネーズ」
キンキンの店長お手製のマヨネーズがないのだ。これは大問題だ。時間がないらしいのでバーテンダー風の青年が出してくれたマヨネーズを取りに行きながら答える。
「何の話なの? 父さんの話?」
人に聞かれたくない話は別れた父とか、その親戚の話くらいしか思いつかない。
「イグサちゃんの彼氏の話」
思ってもみない話だった。母さんとイグサの彼氏が繋がらないので、何の話か見えず、返事を考えあぐねていると母が続けた。
「実はイグサちゃんの彼氏が、うちのお店の慶子ちゃんの息子なんだ」
「へえ、世間は狭いね」
この辺りの子がいく高校は三つしかない。松竹梅みたいにランクが分かれている。
「人の行動をコントロールできないのはわかってるんだけど、慶子ちゃんの息子さん、龍翔くんっていうんだけど、彼がイグサちゃんをアレさせちゃったりしたら……」
イグサは思い切りが良い質だから、アレがアレしたら、そのままして危ないかもしれない。
「龍翔君がうちの関係者だって知れたら、商店街の方々に申し訳がたたないし、売上にも影響が出るかも知れないじゃない……」
そう言って母さんは自分の肩を摩りながら、心配そうな顔をした。
イグサは別に愛想がいいわけでも、愛嬌があるわけでもないのに、どうして商店街の面々に愛されているんだろうか。極端に子供顎減っている地域だからだろうか。
「まぁ、どうしようもないでしょ。四六時中二人を見張ってるわけにもいかないんだからさ」
「それはわかってるよ。だから、もしイグサちゃんに何かあったら、龍翔君に制裁を加えてもらいたいのよ、あんたに」
たぶん父さんは、このサイコパスっぷりに嫌気が差して離婚したんだろうな。
「いやだよ。なんで僕が手を汚さなきゃいけないんだよ。頭おかしいだろ」
「これ、龍翔君の写真ね」
スマホが振動してSNSにDMが飛んできた。
「やめろよ。他人の画像を勝手に人に送ったらダメだから」
「とにかく頼んだからね!」
頼まれても困るし、了解もしていない事を、どうやって納得してもらうか考えていると、お店のドアのカウベルが長閑な音を立てた。
「おはようございます」
その声に、振り向く母は少し慌てているように見えた。
「慶子ちゃんおはよう。今日もよろしくね」
「はぁ……よろしくお願いします?」
普段はよろしくなんて言わないんだろうな。お陰で母だけでなく慶子ちゃんも動揺している。慶子ちゃんって龍翔君のお母さんだったよね、さっきの話からすると。
関係者ど真ん中が出勤してきたんじゃどうしようもない。
残りのタコライスを飲み物のように、喉の奥に押し込んで、最後の一口と同時に席をたつ。立ち上がりながら水でタコライスを飲み干す。
「じゃ、お金置いてくから」
財布から三千円取り出してテーブルの上に置いた。ここでお金を払わずに帰ったら報酬を受け取ったと思われて、ヒットマンをさせられかねない。タコライスだけで、そんなとんでもない仕事引き受けたくない。いや、報酬がなんであれ、そんな事が行われてはいけない。
「頼んだからね」
「聞かなかったことにするから」
外に出ると、他の店にもそれぞれスタッフが出勤してきて、横丁は賑やかさとは違う騒がしさに溢れていた。カンファタブル横丁に常駐している酔いどれ高齢者は、入店前なのにすっかりできあがって、大きな声で笑い合っている。今日って年金の日だっけ?
早足に自分の店まで戻ってくると、気付いたリンコさんが外に出てきて教えてくれた。
「看板、しまい忘れてるよ」
「ありがとう。思い出して急いで戻ってきたんだ」
ちょっとだけシャッターを開けて、ドアの前のスペースに丁度良く看板を収めると、そのままシャッターが締められる。
「僕の方、用事終わったから店手伝うよ」
「ありがとー! 大好き! ポプラ用のエプロン、今日洗濯したばっかで、まだ干してあるから、上がって取ってきてよ」
「はい、お邪魔します」
ありんこ堂の裏口から入って2階に上がる。一階は日が当たらなくなって、すっかり暗くなっていたが、二階はまだ西日が強く差し込んで、眩しいオレンジ色の世界だ。
丁度アーケードの上に張り出している物干し場で、紺色のエプロンだけを取ると、向かいの二階にいたイグサと目があった。
そのニヤニヤとした顔で「あらあ、ラブラブですこと」と言っているのがわかるし、右手で卑猥なハンドサインを送ってくる。あれ教えたの絶対リンコさんだろ。
洗濯物を取るとき、鼻歌歌うくらいに上機嫌だったのを見られて恥ずかしくった僕は、イグサから視線を逸らした。すると遠くに夕陽が輝いているのが見える。
「まだまだ全然落ちませんねぇ」
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