第2話
マスクで顔の半分を覆い、帽子を目深に被り、地味な服装にシルクの手袋をつけ死んだような目をしている。
姿もない不潔恐怖にただただ怯える、情けない姿だ。自分が恐れている対象物が、本当は存在しないこともわかっているはずなのに、それでも胸の奥から湧きあがり、肌の下を虫のように這い続ける。どうすればこれは消えてくれるんだろうと願い続けても、一向に叶う気配はない。
自分はこの社会から爪弾きにされた、そんな気分だった。帽子とマスクの間からのぞく目は、自分のものだと思いたくないほどに暗くよどんでいた。
そこからまたとぼとぼと歩き出すと、アロマオイルのような香りを纏わせた女の人がすっと目の前を通り過ぎてビルの中に入った。着ていた服からエステティシャンだとか、セラピストだとかそういう類の人間だろう、と潔子は察する。
真っ白な陶器肌に、オレンジがかった明るい髪を頭の後ろでまとめている。現実味を感じさせないほどの美しさに、潔子は目を引かれた。
──綺麗だったな、今の人。
女の人の行く先を目で追うと、そのビルの入口には『メゾン・ド・モンストル』と銀色の文字で書かれていた。入口の側壁には『入居者募集』というポスターと『従業員募集中』と大きく書かれたちらし貼られている。淡いクリーム色の塗壁に、主に青と赤を使って派手に彩られたちらしは目立ちすぎて、いやでも潔子の視線を奪う。
近寄って読んでみると、このビルには来月新しいカフェバーがオープンすることと、そこの従業員をひとり募集していると書かれていた。
──バイトくらいなら始められるかな。そこから社会復帰を……。
ふっと潔子の中にそんな考えが浮かぶも、すぐに諦めた。今朝もただ夢を見ただけで手を洗わなければならないという強迫観念に囚われてしまった。こんな状態で働こうだなんて、甘い考えだ。
そもそも手袋もはずせないのだから、不特定多数の人間と接するカフェのバイトなんて到底できるわけもない。潔子がちらしから距離を置こうとしたところだった。
「おやおやあ、その求人に興味がおありですか?」
「ヒッ」
物音も気配も一切なく、見知らぬ男が背後に立っていた。しっかりとアイロンが効いた薄水色のシャツを着て、グリーンの生地の中に細かいスヌーピーの柄が入ったネクタイを締めている。
丸いシルエットの髪型に狐のような目と口元──やり手の営業社員か詐欺師のような雰囲気があった。関わってはまずい、と潔子は本能的に身構えるも男は気にもせず潔子との距離を詰める。
「僕はこのビルの管理人で、
「い、いえ……結構です。私、ちゃんと働けるような状態でもないし」
「お話だけでも! 実は従業員が決まらなくて困ってるんです。せめて、せめてお話だけでも!」
「い、いえ、話を聞いても多分無駄……」
「まあまあ、美味しいコーヒーでもご馳走しますから。気に入らなければ断っていただいていいですから! ネッ」
その男──ルキに気圧されて潔子はビルの中に押し込められる。薄暗い廊下は潔子の不安を煽り、ここで殺されるか、金を取られるのではと身の危険を感じていた。
廊下には五つの部屋に通じるドアが並んでいた。右手側に二つ、左手側に三つの部屋がある。まるで飲み屋街の細い通りのようで、ドアの前にはいくつか看板が設置されていた。
──ヒーリングサロン『ファムファタル』
──焼肉『しんげつ』
──フィットネスジム『サルーテ』
ルキは左手側の真ん中の部屋の前で足を止めた。ここにカフェバーができる予定だが、まだ看板は掲げられていない。しんと静まり返った廊下と、重そうな金属製のドアの冷たい感じが潔子の背中の温度を下げていく。
先日ドラマで雑居ビルの一室に閉じ込められた人物が、無惨な殺され方をする──というシーンを見た。潔子は殺された人物に今の自身を重ねた。
逃げるなら、今だ。潔子はごくりと唾を飲み込む。
「あの、私やっぱり……」
潔子の言葉など聞く耳を持たない様子で、ルキは「2」と書かれた部屋のドアを勢いよく開ける。部屋の中は薄暗く人の気配はなかった──それがますます気味悪さを増す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます