天才陥落

橋広 高

本文

 その首は細く柔らかく、指が吸い付くほどきめ細かいが一定の弾力で掛けた指が跳ね返され、そうされまいと僕は垂直に体重を込めた。ウ、ウと低いうめき声が喉元から漏れた。肩に向かって伸びた真っ白な腕は寸前で力を失い重力に従ってゴトンと鈍い音を二つ鳴らした。日本人離れした端正なその顔はもう寸分たりとも動くことはない。窓からさす斜陽が彼のブロンドの髪を金色に照らす。僕の体は太陽光が壁に遮られてできた影の中にいた。

 鹿野響。十五歳。僕が今絶った命の名前。十歳の頃に出演したドラマが社会現象を起こすほどの大ヒットを記録し、家族を戦争で失った少年という難しい役を演じきった彼は、天才子役として一躍有名となり、今も様々な作品に彼の姿を見る。兄との確執に悩む弟、シリアルキラー、不老不死で三千年生きてる吸血鬼。様々な役に憑依したかのように演じる彼は天才の名を冠していると言えよう。それに彼はとても人柄が良いと聞く。彼は二年も年下なので今まで接点がなかったが、今日の放課後、図書室に資料を探しに来たと言う彼を見て、なるほど良い人だなと漠然と感じた。カバンを肩にかけ、ギリギリの高さに置かれている歴史文学に向かい背伸びをする姿は同性の僕でも少しドキッとしてしまう。そんな彼の行動を何気無く見ていると、ふいにカバンから紙切れがひらりと溢れた。僕は駆け寄り、それを拾い上げた。僕はほぼ反射的に紙を裏返した。先週行われた定期テストの順位表。鹿野響、総合三位。脳みそを支える土台が熱を持って溶ける感覚がした。その熱で温められ理性が吹き飛んだ血液が、体内をゴウゴウと巡っていく。

 「あ、先輩すみません。ひろってくれ」僕の両手は首元を素早く掴み彼の言葉を殺し、体重を乗せ彼を勢いよく押し倒した。

 なんでだ。なんでなんだ。こっちは毎日毎日放課後誰もいない図書室で勉強して良くて十位なんだぞ。ふざけるなカメラの前で笑ったり泣いたりするだけで万単位の金が出る生まれつきの勝ち組みたいな人生では飽き足らず秀才としても明るい人生を歩もうというのかふざけるなふざけるなこっちは毎日毎日来るとも言い切れない安定した日々を過ごすことを夢見て闇雲に生きているのになんだ一抜けしやがって許せないゆるせない。


 我に返ると彼は死んでいた。僕は仰向けの彼に馬乗りになって首を絞めていた両手を思わず離し後ずさりした。やってしまった。どうすればいいんだ。息がうまく吸えない。恐怖が悪寒となって体を走る。手のひらだけ熱を持っている感触があったので思わず頬に当てた。僕は少し落ち着いて這うような姿勢で扉の鍵を締めた。ドアに背中を預けるように体を支えながら立ち上がる。床に散乱した彼の荷物を見て、とりあえずカバンに戻さなければと思った。体の芯を前に倒すようにかろうじて一歩ずつ前進する。手にしたのは映画の台本。多分まだ撮影中の作品だ。何ページかめくって僕は息を呑んだ。台本の中を埋め尽くす手書きの赤い文字列。発するタイミングやその時込める感情、台詞では説明されてない細かい演技、それらが他の演者の台詞の文字の上にまでびっしりと書かれている。次のページも、その次のページも、さらに次のページも、そうやって最後のページまでありえないほど真っ赤だった。僕は震えていた。これは彼の努力の結晶だ。ずっと、ずっとずっと、真剣に努力を、真摯にただずっと、繰り返してきた結果なのだ。成功への道は茨の道であり、その滲み出した血が、この赤字だったのだ。気づけば僕は膝から崩れ落ちていた。側頭部を勢いよく殴られたような衝撃とくぐもった耳鳴りがする。心のなかで声がする。そんな、そんな……

 そんな事はあってはならないと僕は台本のページを掴んで破った。一心不乱に、原型がわからなくなるほど、グシャグシャにして、ビリビリに破いて。否定しなくては。努力を否定しなくては。天才は努力なんてしない。生まれたときから完成品なんだ。存在してはならない。成功の理由なんて天才だったからで十分なのに。

 彼のカバンの中から教科書を取り出す。至るところに付箋がびっしり貼ってあった。違う。教科書からはみ出した付箋をまとめて引き千切る。才能なんだ。才能で努力を塗りつぶさなければいけないんだ。光に陰りなんていらないんだ。才能は太陽よりも明るく、見る僕らの心の影すら焼くものでなければならないんだ。カッターナイフを取り出し、教科書に振り下ろす。才能で否定しなくては。努力をなかったことにしなければ。

 彼は天才なんだ。努力なんてするわけがない。僕は地面を這いながら彼の顔を観察した。僕の呼吸が顔に跳ね返り風を感じるたび彼はまだ生きているのかと錯覚する。それほど彼は美しかった。でも彼の目の下にはクマがある。否定しなければ。カッターナイフを握りしめて胴体の上に跨った。否定しなくては。彼は天才なのだから。なかったことにするんだ。努力という影を切り取って光に変えるんだ。僕は両腕を大きく振り上げた。

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