勇者イリスよ。魔王を倒し、この世界を救ってくれ
「あれ……?」
見たことのない光景が広がっていた。四畳半ほどの広さの部屋。赤や青で彩られたラグの上に小さな木製のテーブル――ちゃぶ台と呼ぶらしい――が乗っている。
上方に目を向けると、白くペイントされた木造の壁の二方向には窓が取り付けられており、そこから暖かな日の光が注ぎ込んでいる。天井に照明のたぐいは取り付けられていないので、光源はこの窓だけということになるが、そのおかげで部屋全体が柔らかな雰囲気に包まれている。
窓がない二方向の壁には扉がついているが、どこに繋がっているのかはわからない。
全体的に落ち着いた部屋という雰囲気の場所だが、その中で異彩を放っているのが部屋の隅に備え付けられているテレビだ。
剛範本人はおろか、彼の両親さえも実物は見たことはないのではないかと思えるほど古いそのテレビは、何の意味があるのかはわからないが小さなその画面の表面がまるく湾曲しており、箱形のその本体の上にはやはり何の意味があるのかわからない曲げられた金属の棒のオブジェが置かれている。
どうしてそれがテレビなのだとわかったのかというと、昔プレイしたレトロゲームに似たようなものが出てきたからだ。確か、テレビの中に入って敵と戦うとか、そんな内容だった。
「おや、まだお客さんがおったのか」
ガチャリという音と共に背後の扉が開かれたと思うと、そんな声が聞こえてきた。
振り返り声の主を見てみると、そこにはしわくちゃの老人がいた。
枯れ木、という表現がまさにしっくりくる細くて乾ききった手足は細かく震えており、今にも駆け寄って手を貸したくなる衝動に駆られたが、老人はそんなことに構いもせずにちゃぶ台の反対側までやってきて腰をかけた。
「まあまあ、お茶でも飲んでいきなされ」
老人が手を挙げると、何もないところに湯気の出るお茶の入った湯飲みが二個現れ、コトンという音と共に剛範と老人の前に置かれた。
この不思議な現象を前に、剛範はようやく自分の置かれている状況を理解した。
(ははん。これはフルダイブVRゲームのゲリラプロモーションだな)
数年前のことである。とあるゲーム会社がフルダイブVRゲーム内に別のゲームの体験版を予告なしにインストールしたことがあった。そのゲームをプレイしようとすると別のゲームの体験版が強制的に起動されてプロモーション効果を高めようとした施策である。
しかしそのプロモーションは大炎上した。当たり前だ。ゲームをやろうとして立ち上げたのに、別のゲームが始まってしまい、さらに悪いことに不具合によってプロモーション中は元のゲームがプレイできない状態になってしまったのだから。
そんな顛末だったので、その後同様のプロモーションをする会社はないと思っていたのだが……。
そんな残念な運営だったかな、と出されたお茶をすすりながら考える。
それにしてもリアルだ。グラフィックはもちろん、空気感や湯飲みから伝わってくるお茶の温かさ、香り、そして味まで本物と区別がつかない。お茶が胃に落ちる感触まであるではないか。フルダイブVRゲームもここまで進化したとは。
そんなリアルな様子に加えて、VRゲームによくあるゲージ等の
加えて配信中の表示も消えていた。どうやら、このゲームに接続した際に何らかの原因で生配信が切れてしまったのだろう。再接続のためにゲームをシャットダウンさせて……とコマンドを出すために手を振るが、何も起こらない。
疑問に感じて手を振ってみると、目の前に腰掛けている老人の姿が目に入った。
「わしはこの世界の神じゃ」
「はぁ? 神……?」
髪はないけどな、と老人の禿頭を見ながら思った。つるりとしたはげ頭に対して真っ白なまゆ毛とあご髭は伸び放題であり、よりそのはげ頭を強調している。
「うむ。実は困ったことがあっての。お主に助けて欲しいのじゃ」
「はぁ……」
聞いてもいないのに老人は説明を始めた。曰く、この世界の人間は魔族の攻勢にさらされており、今まではどうにか均衡を保っていたが、魔族側にとてつもない強力な皇子が現れたために劣勢に立たされているらしい。これを覆すために彼の助力が必要だとのことだ。
ありきたりなストーリーだな、と剛範は思った。
これはおそらくフルダイブVRMMORPGか何かの体験版だろう。だとするとまあ妥当なストーリーだなとも思った。レイド戦がしやすい設定ともいえる。
「ところでお主、名前は?」
老人が唐突に聞いてきた。なるほど、これがネームエントリーか。ゲームプレイの中で自然にネームエントリーを行えるのは嫌いではない。丁寧に作ってあるという印象を受けた。
剛範が名前を入力しようとして手をかざした。しかし先ほどと同じくコンソールが出てくる気配はない。
「……? 何をしておる? 名前、名前じゃよ。言葉、わかるじゃろ?」
「え? わかるけど……」
「なら、名前を言えい」
「あ……イリスです……」
思わず普段使っているキャラクター名を言ってから後悔した。
同名の虹の女神よりとっているこのキャラ名は、
それだけでなく、大会に出る際はいつもこの名前なので、GTで二度の世界チャンピオンになった高校生プロゲーマーは箕浦剛範ではなく『イリス』なのだ。要するに、仕事で使う名前だ。仕事道具といっても差し支えない。
ゆえに、あまり真面目にやるつもりのないゲームでこの名前を使って無様なところを見せてしまうと仕事に差し障りがあるのだ。
だから訂正しようとしたのだが……。
「うむ、イリスじゃな。女性名で良かった。ちょうど男の器が切れていた所じゃ」
「いや、今の名前はなしで……」
「それでは、人間の王国の王都、ルーシェスに転送するぞい」
「ちょっと待ってくれ。名前の変更をだな」
この時点で自分の声が変わっていることに気がついた。キーの高い、女の子の声だ。思わず自分の喉に手を当てる。そこには慣れ親しんだ首ではなく、細くて肌がすべすべの首があった。
「お、おい。どうなってる? ちょっと待て。あ、そうだ。ログアウトを……」
そう思いついてコンソールを出そうと手を動かした。が、やはり何の表示もない。
「それでは、勇者イリスよ。魔王を倒し、この世界を救ってくれ」
神を名乗る老人の腕が上がったかと思うと、あたりが真っ暗になった。まるで、自分以外の全てが消えてしまったかのように。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
どういうわけか、どこかに落下している感覚だけははっきりと認識できた。
そんな彼を追いかけるように老人の声だけが聞こえてきた。
「あ、これ、ゲームじゃないぞい。一応言っておくが、これから赴くのはマジモンの異世界じゃ。念願の異世界召喚じゃ!」
何をふざけたことを……と考えつつも意識はなおも落下していく。
「これで全部かの? まったく、教皇の奴、勇者召喚の秘術を教えた途端に召還しまくってからに。これであとは……。む、しもうた」
誰もいなくなった部屋の中で禿頭の老人は一人つぶやいていた。大きく伸びをしている途中で動きが止まる。
「異世界召喚でのお約束、チート能力を与えるのを忘れておったわい」
神を名乗る老人は顎髭をさすりながらうーんと少し考えたあと、考えるのを放棄したように、
「ま、ええか。999人も勇者がおれば、一人くらいそういうのがおってもええじゃろ。個性じゃ、個性。うほほほほ」
そして、先ほど剛範が座っていた座布団の上に腰掛け、ぱちんと指を鳴らした。古めかしいテレビに電源が入る。
「せっかく骨を折ってやったんじゃ。せいぜい楽しませてくれ、勇者達よ。ほっほっほ」
老人は剛範のことなどもう記憶の片隅にもないとばかりにテレビ画面に見入るのであった。
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