第9話:エリトリアへ

 クラーケンの開けた大穴を見て、放心していた二人。

 水平線の向こうに見える景色に、いつの間にか太陽が沈んでいく。

 ヴァネッサはエルクに体を預け、彼の首に腕を回した。


「立てませんの。運んでくださる?」


「は、はい。勿論です」


 氷が溶け、濡れた頬が触れ合う。

 少年の薄い胸板に、少女の柔らかさが伝わる。

 彼はその感触がむず痒くて、急に暑くなるのを感じた。


「顔が赤くてよ?」


「い、いえ、そんな事は」


 照れてる。とからかわれたと、エルクが恥ずかしさを覚えると。


「体が冷えましたし、風邪かもしれませんわ。貴方の氷魔法は強すぎですの」


 心配した声でヴァネッサが返す。


「あ、そう、そうですね。部屋に戻ったら僕もちょっと休みます」


「そうしましょ。穴は船員さんが塞いでくれますわ」


 そして二人は、誰もいないラウンジを後にした。



――その頃



「船が無事で良かった。俺は部屋に戻る。修理が出来次第、航海に戻るがいい」


「いや~~~!! ヘクトル王子殿下!! 流石でございました!!」


「ヘクトル王子殿下万歳!!」


 ヴァネッサとエルクが戦っていた二等ラウンジから少し上。

 甲板にいる、クラーケンに襲撃された船から逃れようとしてきた乗客達。

 その中心でヘクトルが拍手喝采を浴びていた。

 彼は不機嫌そうに、その喝采に背を向けて特等船室に戻ると、王家に伝わる宝剣を壁に掛け。


「……おかしい。クラーケンにしては諦めが良すぎる。いくら俺とこの宝剣デュランダルでも苦戦するはずだが」


 流石に死を覚悟して戦った。とため息を付き。

 甲板上で船員や護衛の兵士たちを率いて勇猛に戦い、クラーケンを退けた彼は。

 海水に濡れた上着をハンガーにかけると、ふかふかのベッドに横になった。


「そういえば、戦っていた時……触手が船内に入り込んでいたな……」 


 船体に絡みついて転覆させようとするのではなく、何かを探すように船内に入っていった。

 そう思い返して首をひねったが、今の彼は完全に疲労困憊で。


「頭が回らないな。エリトリアに着いてから、改めて考えよう」


 小さく震える宝剣デュランダルには気づかず、泥のように眠り込んだ。



―― 一週間後



 やっと翌朝には到着すると、部屋の扉に案内が挟まれていた夜。

 クラーケンの襲撃、そして応急修理に丸ニ日取られた以外、航海は順調で。

 とは言っても、二等船室で暮らすヴァネッサとエルクは、色々と限界を迎えていた。


「あぁん……エルクぅ……もう、わたくし、身体が限界ですわ……」


「なに隣に対抗して無駄に色っぽい声出してるんですか。僕も限界なんでお風呂入りたいです」


 薄壁一枚隔てた隣にいる夫婦が、毎晩どころか昼夜問わず仲睦まじくするせいで、二人は完全に寝不足に悩まされている。

 そしてヴァネッサに至っては、硬い木のベッドに背中を痛めていた。


「あー、確かにですわ……エリトリアって温泉とかありますの?」


 背中を擦りながら、彼女が聞く。

 エルクは幼少の頃の微かな記憶を辿ってしばらく考えて、あぁ、と手を叩いた。


「……僕の故郷の漁村なら知ってますよ。昔の話ですけど、温かい海水の温泉がありました」


「いいですわね~。折角ですし、貴方のお母様に挨拶に行きましょ?」


「生きてればいいんですけどねぇ」


 能天気なヴァネッサに、彼はしみじみと返す。

 十年も会っていない母親。大黒柱だった父も亡くなっているし、きっともうこの世に居ないだろう。

 ずっとそう考えていたから、あえて話題を出さなかった彼に、彼女はけろっとした声で言った。


「生きてますわよ?」


「なんで分かるんです」


 ん? とエルクが起き上がる。

 明らかに、家族のことを知っている口ぶり。

 彼はとりあえずヴァネッサのベッドを覗き込むと、彼女は本当に不思議そうな表情で小首を傾げた。


「え? だって貴方のお給料半分送ってましたし。お手紙だってやりとりしてましたし。屋敷にも来てましたのよ」


「は? なんで言ってくれないんですか?」


「……あっ」


 やり取りの中、彼女は思い出す。

 小さな頃から公爵家に、年に一度訪れていたエリトリアの女商人。

 ずっと誰かに似てるなぁ……と思っていたヴァネッサは数年ほど前、彼女がクラーケンのせいで夫と息子を亡くしてから商売をしていると話を聞いて。

 訓練に励むエルクのことを見てもらい、親子だと確信したのだが。

 

「あっ、ってなんですか!? どういうことで……」


 息子が結婚して一人前になるまで、自分のことを聞かれたら死んだと言って欲しい。

 そう言われて、うっかり口を滑らせた今の今まで黙っていたのだった。


「いやぁ、なんでもなくてよ。とりあえずこの支配の笛ドミナートル、使い道を考えなきゃいけませんし。しばらく貴方の実家にお世話になりますわ~」


「露骨に話をそらして……! いいですよ、母さんに直接聞きますから!」


 曖昧な笑いで誤魔化そうとする彼女に、エルクは怒ったように。

 しかし実の家族が生きていた喜びで、心の底から熱いものがこみ上げる。


「……エルク。胸を貸しますから、泣いてもよくてよ」


「う……うぅ……」


「ずっと、寂しかったのですわね」


「……はい……」


 ひょいっとベッドから降りたヴァネッサは、エルクのベッドに腰掛けると。

 泣き崩れる彼を抱きしめ、優しく頭を撫でた。

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