第2話:すってんてん
ヴァネッサ・ソルスキア暫定公爵。正確に言えば『元』公爵は領地へ帰る。
大貴族として産まれ育ち、まだ弱冠十七歳の彼女が、急逝した父を暫定的に継いだのはニ年前。
一族の治めていた公爵領は非常に豊かな土地に恵まれ、農業と牧畜に向いた素晴らしい領地。
もう来月には王国の第二王子ヘクトルと結婚し、彼が公爵位を継ぐ予定だった――。
――のだが。
暫定的に家を継いだ彼女が目にしたものは、金庫に入った大量の借用書。
名義は全て父のものであり、産業や領地、倉庫に入った美術品にどうでもいいガラクタまで。
国内外を問わない借用書の群れに、殆ど何もかも全て担保に入っていた。
まず彼女はこの二年ずっと財務の整理に当たっていて、財産を全て売っても返せない借金を。
王国武闘会での賭博で返済できると一縷の望みを賭けていた。
「ふふふ、最後の財産はこの煙管だけ。残った人もエルク。貴方だけでしてよ……」
光のない瞳で、差し押さえられた屋敷の前にへたり込む。
衣服すら殆ど接収され、ほんの僅かな日用品だけを小さなトランクに詰めて。
傍らの少年。闘技場で戦っていた雇われ剣闘士のエルクは、申し訳無さそうに俯いた。
「お嬢様。僕が負けたせいで……それに僕を手放さなきゃ、少しはお金になったんじゃ……」
雇われ、になったのは王国武闘会の決勝戦の直前。
ここで負けたら破産となったヴァネッサは、奴隷であり財産だったエルクを、家の借金のカタにしないために解放していた。
そして彼の、史上最年少である十五歳での優勝に一点賭けして、今に至るというわけで。
「貴方を売ってまで借金など返したくなくてよ。さぁエルク、どこへなりと行きなさい」
エルクの声に、最後に残ったプライドのようなものを小さく返して、指を弾く。
小さな魔法の火が指先に産まれて、煙草に火を付けて。
「……へへっ。湿気ってますわね」
ぷすぷすと不機嫌に煙を立てる煙管を何度か吸うと。
「は~~~~~うめぇですわ……」
煙で小さな輪っかを作った。
「それで、お嬢様。どうやって生きて行くんです?」
その様子をしばらく眺めていた彼が尋ねると。
彼女は形の良い眉を上げて、やれやれといったふうにため息をつく。
「あぁ。国外追放ですし。隣国に行ってもわたくしだと分かれば、借金の取り立てに来るでしょうから……どうしたもんですかねぇ」
文字が読めず、彼女の父の借金の事を理解していないエルク。
彼はヘクトルと同じような誤解をして、何したんだこの女とばかりにやれやれと。
少し考えて、ふと切り出した。
「じゃあ、海の向こうの……僕の祖国エリトリアとかどうです? お金持ってますし、もう帰れるんで」
「は? 帰れるんですの?」
「だってほら、準優勝の賞金持ってますし」
少年の言葉に、少女は目を点にして。
何いってんだこいつと顔に出る。
そして、一度目を伏せて。自由にしろと手を振った。
「……ふふっ、わざわざこんな女に金を浪費する必要はなくてよ。一人で野垂れ死にますわ……」
しかし彼はちょっと不満そうな顔で。
軽く口を尖らせる。
「えー。っていうか僕を買ってくれたのお嬢様じゃないですか。恩くらい返させて下さいよ」
恩? そんなものはないのに。とヴァネッサが彼を見る。
すると彼は苦笑して、彼女への感謝を告げた。
「父さんの漁船が難破してこの国に漂着したのが十年も前、行く宛もなく身寄りもない……売りものになれただけマシな……そんな僕を買ってくれたのがお嬢様でしたから。本当に感謝してるんですよ?」
その感謝に、彼女は少し悩んで話を逸らす。
買い取った理由を話せば、彼に未練が湧くと思い目を閉じた。
「あぁ、そんなこともありましたわねぇ……とは言え、もう十分恩返しは貰いましたわ。儚い夢を見られて幸せでしたの」
決勝まで残ってくれたおかげで、最後の最後まで借金完済の夢を見られた。
それで十分だと遠くを見て。ため息をついて。煙管をふかす。
そんなひねくれた主人に発破をかけようと、少年は挑発するように言った。
「じゃあ、今度は僕がお嬢様を買いますよ。どうせタダみたいなもんでしょ?」
国外追放された没落貴族。生活力はないし、魔法の才能もまるでない。
財産らしきものは、大変貴重な古龍の牙で作られたという煙管だけ。
控えめに言って無価値だと、冷酷に彼は言う。
「ひっでぇですわ!? わたくし結構美人でしてよ!?」
それを聞いてヴァネッサは頬を膨らませて。
怒ったように腕を振り上げると、煙管から煙草の葉の塊がポロッと落ちた。
「あぁっ!! 煙草が……煙草が……」
這いつくばって、最後の煙草が燃えるのを見つめる。
エルクはそんな彼女があまりにも哀れで、額に手を当てて空を見た。
「……まぁ美人なのは事実ですが、それなら娼館とかで身体売る気あります?」
「嫌ですの!!」
勢いよく駄々をこねて反論する彼女に、少年はため息をつく。
そして懐から彼の全財産。ずっしりと金貨の入った袋を、そっと差し出した。
「これ、エリトリアへの船代です。欲しいですよねぇ」
「……うぅ……欲しいですわ……」
煽られて、ヴァネッサの瞳が潤む。
故郷へ帰るというエルクについて行けば、とりあえずしばらく生きていくことはできるだろう。
命を諦めたところに、露骨に餌をぶら下げられて。
そんな事を考えていると、彼はにこにこと笑顔を向けた。
「じゃあ、大人しく僕に買われてください。お嬢様がちゃんと僕を解放したように、船代返したら解放してあげますから」
「ぐぇぇ」
彼女は否定も肯定もできず、曖昧にうめき声を上げる。
それを肯定と受け取った少年は、楽しそうに。
ヴァネッサの首に、耐魔法被膜加工の施された鉄の枷を嵌めると鎖を付けた。
「うぉぉぉい!! どういうことですの!? まだ返事してませんわよ!?」
彼女が枷を外そうともがく。
ただエルクは冷静に、彼女の鎖を掴んだ。
「いや、憲兵さん来てますし。僕が買い取ったってことにしないと、ほんとに隣国の娼館行きですよ」
「んぬぬぬぬ。し、仕方ありませんわ……」
彼が親指で指した先に、王国の憲兵隊がぞろぞろと屋敷から家具を運び出すのが見えて。
思い切り歯ぎしりをして、仕方ないとため息をつく。
そんな彼女に、彼はいたずらっぽく笑いかけると。
「では……もう、お嬢様って呼ぶのもアレですし。ヴァネッサ。ほら行きますよ」
ぐいっと鎖を引いた。
「うごぉぉぉぉ!! 首が! 首が取れますわ!!」
「あ、結構楽しいですねこれ。奴隷を買いたがる貴族の気持ちが分かったかもしれません」
ぐいっと持ち上げられて、無理やり立たされたヴァネッサ。
首の冷たい感触が、確実に自力で外せないと分かって。
「エルク……お前は奴隷を買ってはいけない男ですわ!」
「まぁ仰るとおりだと思います。貴女は特に優しかったですしね。なんでこんな事になったんだか」
人差し指を突きつけて叫ぶと、彼は目を細めた。
そして申し訳無さそうに言葉を返し、ため息交じりの言葉を続ける。
「というわけで。ヴァネッサがまともになるまで、お付き合いしますよ」
あまりにも情けない家の事情に、エルクには本当のことを言いたくないなと。
自分が駄目女だと思われても、別に構わない。
そう思った彼女は、勢いよく啖呵を切って。
「さっさと借金返して、お前から逃げてやりますの!!」
「ははっ。その時を待ってますよ。行きましょうか」
鎖に引かれるがままに、生まれ故郷を旅立った。
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