第6話 準備
エナン公爵令嬢との一件で気づいたことがある。それは、今までの人生とは少しずつ変わってきているかもしれないということだ。そしてそれは希望でもあり、不安でもある。
ローレンスに降りかかる災いを取り除くためには今までの記憶を頼りにするほかないのに、その通りにいかないのであれば、完全に取り除ける確証はない。行き先のわからない馬車に乗っているような、不安と期待が混じったような、そんな心地がする。
悶々としているうち、部屋の戸を叩く音がして、メアリーが慌てて戸を開けようとすると、来訪者はそれを制止した。
「どうぞ、お入りください」
入室の許可をしたにも関わらずなかなか入ってこない様子に、メアリーが少し戸を開くと、やはりそこにはローレンスがいた。
「なぜお入りにならないのですか?」
「いくら婚約者といえど、レディーの寝室に入るわけには…」
背を向けて辿々しく言うローレンスに、メアリーと顔を合わせて笑う。
「ここまで運んできてくださったんでしょう?でしたらここへいらっしゃるのは初めてじゃないではありませんか」
「そ、それは緊急事態だったので…!」
ローレンスは背を向けたきり、あたふたとする。その様子がおかしくて、ヴィオラは手を弱々しく額に当て、
「…あー、また意識が遠くなってきたわ」
とか弱そうに言うと、すかさずメアリーが
「緊急事態です!誰か、お嬢様が…!」
と繋げる。さすがのローレンスも諦めたのか、ようやく部屋に入った。
ローレンスはヴィオラを見た瞬間、大きな息を漏らした。
「二度と目を覚まさないかとさえ思いました」
「大袈裟ですよ。でも、ご心配おかけして申し訳ありません」
ローレンスは視線を落としたままだったが、ふと目と目が合う。なんだか全てを綺麗な瞳に見透かされそうで、思わず目を逸らしてしまった。
「謝らないでください。むしろ、もっと心配させて欲しいくらいですから。その代わりと言ってはなんですが、一体何があったのか、事の顛末をしっかり教えてくださいませんか」
別に婚約者の彼に隠すことなどないし、むしろエナン公爵家の話は彼に知らせておくべきだろう。一通り簡潔に話し終えると、彼は眉を顰めて少し険しい顔をした。
「そういうことだったのですね、理解しました。…もともと長居するつもりはなかったので、私はこれで失礼します」
ローレンスが去った後、冴え渡って見えていた空や、鮮やかに目に映っていた色彩もどんよりとしてしまう。空を見やると、重々しい曇天であった。
◆
「エナン公爵令嬢について、詳しく調べてくれ」
邸に戻るや否や、ローレンスは従者のアンバーにそう命じた。
「あのような一件があったのに、ティレット公爵令嬢はエナン公爵令嬢を茶会にお呼びしたそうです」
「彼女が?…彼女にも何か考えがあるのだろうが、心配だ。エナン公爵夫人と言えば、皇后陛下の実妹だったな?だから娘も強気なのだろう」
もしあのまま彼女が目を覚さなかったら。考えるだけで身の毛がよだつ。
彼女の身に起こる不幸は断じて許さない。彼女の命に関わることなら尚更だ。
まずは自分の立場を固めなければ。彼女を公爵夫人として迎え入れられるような、盤石な立場と権威を身につけなければ。
「念の為、彼女の邸に一人護衛を送ろう。今回の件を防げなかった者よりも優秀な者を」
◆
邸の使用人たちが手際よく仕事をしてくれたおかげで、茶会の準備も順調に進んでいた。
「エナン公爵令嬢の行いは到底許されることではない」
父のティレット公爵は今回の件にだいぶ怒り心頭だった。父は好戦的な性格だから、家門の衝突が起こる可能性は大いにある。もともと保守派のエナン公爵家と、革新派のティレット公爵家は関係も良好ではなかった。今回の件をきっかけにこちらが事を大きくすれば、派閥争いも勢いを増すだろう。
「けれど、エナン公爵夫人は皇后陛下の実妹ですから、慎重に事を運ぶ必要があるかと」
「それはそうだが…。お前の命が危うくなったのだぞ。何も動かないわけにはいかないだろう」
かつかつとしている公爵に、宥めるように話しかける。
「ですから、来週開く茶会に、彼女をお呼びすることにしました」
「いったい何をするつもりなのだ?」
「何を、というほどではありませんし、報復するつもりもありません。今事を大きくするのは賢明とは言えないからです」
茶会では、あえて他の目があるところで彼女を、エナン公爵家を牽制するつもりだ。いずれは取り除かなければならない芽だが、取り除くのは今ではない。
公爵は少し唸るように黙って、静かに頷く。
「わかった。エナン公爵家についての対応は全てお前に任せよう」
「ありがとうございます、お父様」
外の薄暗く沈んだ空とは違い、ヴィオラには明確な案が見えていた。
あなたの隣で笑えるように 伏見 寒璧 @Fushimi_228_Yue
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