02 特別な虫けら
「俺たちは溺れる魚さ。木に登れない猿で、飛べない鳥だ。
物憂い気分でため息をつきながら、ベッドの上、開け放った窓際に寄りかかる。と、左の壁際、もう一つのベッドで寝転がって本を読んでいた男がついと顔を上げた。
「意味のわからないセンチメンタリズムに浸るのはいいけど。……にしても、蹴躓き続けている割に自分を千里の馬とか評してるあたり、プライドが見え隠れしているね、多分に余計なプライドが」
やや低めで柔らかい、聞く人に安心感を与える男っぽい声。
ここは学生寮の一室で、彼は同じ学年の『先輩』だった。というのも、彼は編入してきたうえで二年も留年しているって話。理由は知らない。いろいろな憶測が飛び交っているようだが、一つ確かなことは大層お金持ちのお家柄だってこと。
俺はだらけきった格好のまま言い返した。
「うっせー。じゃあ言い直すよ。俺たちはぁ……虫けらだ!」
「〝たち〟を付けないでくれる? 僕を入れないように」
最初の頃は、彼に対してもっと丁寧に話していた。けれどその度に「敬語は止めましょうよ。同じ学年じゃないですか」と、向こうもバカ丁寧に話し始めるので面倒になってやめた。
実のところ、傍から見ていたら彼が俺より年上とは思わないはず。どこかミステリアスな空気を纏っている。
ところでミステリアスなんていうと俺の場合、無口で美形なんて勝手なイメージも付随してくるんだけれど、彼の場合、後者は当てはまる。完璧に。でも前者はというとこれは違う。彼はお喋り好きだ。表情もそれに合わせてくるくる変わる。
そんなだから、周りの女の子たちから「かっこいい」だの「かわいい」だの「王子」などと呼ばれ、黄色い声援が途絶えることはない。
怒った顔など見たことない。怒鳴るなんてとんでもない。甘いマスクにお話上手、優しい素敵な王子様。
……なんだコイツ、忌々しいな。
ともかく、俺は彼を無視して続けた。
「流行りに流されるみたく、時勢に乗っかるように、街灯に吸い寄せられてその下でもがき力尽きていく虫けらさ」
「聞けよ虫けら」
王子様も毒は吐く。なぜなら虫けらだから。
「そう、虫けらだ。そしてウサのんも虫けらだ」
「おい」
王子ウサのん――宇佐木総一朗の明るい茶の長髪、ゴムで留めた前髪が跳ねる。読んでいた本を投げつけてくる。手癖の悪い王子様だ。
飛んできた文庫本を、上手くレシーブして窓の外へと跳ね飛ばした。俺は目がいいんだ。
「あっ!? 何やってんのキミっ」
ここは二階である。
「オーマイゲーテ!」
どうやらあの本はゲーテの詩集かなんかだったらしい。
「はろ! 退屈だからってヒドイことするねキミっ!」
ウサのんは飛び起きると、俺のベッドに跳び乗り、裸足のまま窓枠に足をかけた。そして、寝転がったままウサのんを見上げる俺の腕をとり、なぜか高らかに歌い上げた。
「さあ、共に行こう! そこへ(Dahin)! そこへ(dahin)」
そう言って、窓の外を指差す。ここは二階である。
俺にはウサのんが何言ってるのかさっぱりわけわかめだった。推測するに本の中にそんな一節があったんだろう。ダーヒンって何だ?
「いざ、立ちて行かん!」
二階の窓から一緒に飛び降りさせようとしてくるまったく頭のおかしいウサのんに対して、俺はいやいや、と首を横に振った。
「覚えてろ」とドスの効いた声で言い置いて、ウサのんは躊躇無く飛び降りた。ここは二階である。
▼
やっと静かになった部屋で、俺は無気力に窓際に寄りかかったままぼんやりと考えた。
はろ。そう、俺の呼び名。それだって不満なんだ俺は。俺の名前はハレヲだ。ハルオって名前なら『はろ』でもいいよ。でも俺はハレヲだ。もっと違うのがあったろ。
「はぁ、あー……ヒマ」
――退屈……ヒマ…………。
退屈で、ヒマ過ぎて、人は死ぬのか? 寂しいとウサギは死ぬの? ウサのんも死ぬの?
退屈ってのは厄介なもので、友人たちと居たとしても、ふとした瞬間に口をついて出ることがある。退屈だ。なんて。ヒマじゃないけど退屈だ。なんて。
なんか面白いことはないか?
スリルとかサスペンスとか、胸がドキドキ、鳩尾がグルグル、中心がズキューンすることを人は常にどこかで求めているのか?
……まさかアイツは、退屈過ぎたから死を?
「……」
んなわきゃない。さすがに。
我が辰川北高はじまって以来のバカと言われた(俺が言った)アイツのこと、退屈だなどと思っている暇があったかどうか。
ベッドに放っていたワイヤレスヘッドホンを手に取った。
◆
あの頃、俺たちはすごいんだと信じていた。特別なんだと。だから俺とアイツは古い映画を観て、古い音楽を聴いた。俺たちと同じくらいのガキがほとんど知らない、俺たちだけのかっこいいを探した。俺たちの基準は大抵、かっこいいか、かっこ悪いか、その二つだけだった。
俺の中にある歌はほぼ、アイツと一緒に見つけた「特別」な「かっこいい」だった。
流れてきた曲に耳を傾け、目をつむる。
選曲は、サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡの『too young to die』だ。
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