あか、あお、き

月野志麻

あか、

 八月上旬。定期テストが終わり、大学が夏休みに入る。県外からの学生が大半を占める寮は、帰省組の帰省ラッシュで朝から騒がしかった。二年生の葵保もその中の一人だった。


 「着替えよし! 下着の替えよし! 新幹線のチケットよし!」


脱色され、薄い金色に染められた髪。ふわふわとしたパーマの髪がたんぽぽのようだ。


「うるせーし、ここで荷物広げんなよ」


財布落ちてるし、とそんな葵に飽きれた目を向ける同級生、遠野目瞬は床に落ちた彼の財布を拾い上げる。それから、「玄関先で迷惑だ」とその財布で葵の頭を軽く叩いた。


「いや、最終確認! 俺が忘れ物多いの知ってるでしょ? 声出し確認と、第三者による再確認、まじで大事だから」

「でも財布落としてんじゃん」


ダメじゃん、と受付を挟み、男性寮とは反対側の棟、女子寮のほうから歩いてきた女子学生が笑う。黒いキャップからはストレートの濃いブラウンの髪が肩を伝っている。ガラガラと引くスーツケースは大きい。


 「和泉尚子っ」


 天敵を見るような目で葵は和泉尚子を見る。彼女も遠野目と同様に同じ学部に在籍する同級生だ。良く言えば、竹を割ったような性格。悪く言えば、無神経。葵はそんな彼女に若干の苦手意識を持っていた。だからと言って、話もしたくないほど仲が悪いわけでもない。いや、苦手だけれど、避けようと思っていないというのが本当のところだ。


 「ごめんなさい、後ろ通るね」

「あ、紅緒も今から帰るの?」

「ええ」


 その理由は、今、尚子の後ろを通った彼女にあった。

 葵は入学して早々、寮で見かけた彼女に一目惚れをしていた。

作間紅緒と葵は同い年だが学部が違う。接点もほとんど皆無と言っていい。そんな葵と紅緒を結ぶ接点が、彼女とルームメイトである尚子なのだ。だから葵にとって尚子は苦手だけれど、ないがしろに出来ない存在だった。尚子を失ってしまえば、紅緒と話す機会はゼロになる。尚子がいるから、紅緒に認知してもらえたとさえ葵は思っていた。


「それじゃあ、また新学期に」


 紅緒は尚子にそう手を振り、葵に軽く頭を下げた。にっこりと微笑んだその口元に、葵は思わず唾を飲み込む。そして、日差しが眩しい玄関の外へ歩いて行く彼女の姿を見送って、ようやく思考が再起動した。


 「あ、待って! 作間さん、俺も駅まで一緒に、」


広げた荷物を大慌てで葵はスーツケースの中に押し込んでいく。それから遠野目の手から強引に自分の財布を奪い返した。


「お前、まだ諦めてなかったの?」


作間なんて、高嶺も高嶺の花だ、と遠野目が言う。


「この前、中本もフラれたらしいね」


彼氏いるのかなー、もしかして。と遠野目に続けて尚子も言った。そういう話、あまりしないから分からないけど、と言う尚子の口角は上がっている。面白がっていることを隠す気もないらしい。葵はそんな二人を「別に良いだろ」と睨み返した。


 「俺はまだフラれてないし、これは俺の恋なんだから、お前たちには関係ない」

「確かにそれはそうだけど。望みが低い恋なんて、自分が傷つくだけ、」

「いいじゃないですか、私は応援しますよ。今からならまだ、葵先輩なら追いつけます!」


遠野目の声を遮るように聞こえてきた、高く優しい声。黄色い小花柄のワンピースがよく似合うその女子生徒は、尚子の後ろからそっと顔を覗かせると、葵にガッツポーズをしてみせる。


「ミツカはまたそうやって葵を甘やかす」

「甘やかしてないです。先輩の恋を応援しているだけです」


いいですね、青春ですね、と笑う彼女の名前は戸田ミツカという。紅緒と同じ学部で、一つ下の学年に在籍している。遠野目とは高校が一緒だったらしく、自然と会話が増えていった。


「葵先輩、ファイトですよ! それではお先に失礼しますね」

「あ、戸田。俺も一緒に行くわ」


じゃあな、と遠野目は少々慌て気味で、他の人よりも小さい、黒のエナメルバッグを肩にかけると、葵たちに手を振った。


「あいつ、荷物少なくない?」

「実家に荷物送ったみたいだよ」

「賢いな」

「それより、紅緒追いかけなくていいの?」


早く行きなよ、と尚子は追い払うように手を振ってみせる。葵はそれにハッとして、荷物を抱きかかえるように持つと、「また新学期に!」と大きな声で尚子に言って、夏の日差しの中へ走り、飛び込んでいった。



 葵が紅緒に追いついたのは、寮と駅のちょうど半分といった地点だった。呼び止めた葵を振り返った彼女は、汗だくの彼を見て、心配そうに自分の日傘の中に招き入れた。


 紅緒のほうが頭一つ分背が低く、差し出された日傘の中で葵は身を屈めるしかない。歩きにくいことこの上なかったが、この中から出るという選択肢もなければ、代わりに自分が持つよという勇気もまた出なかった。


 葵の腕に彼女の肩が触れる。ノンスリーブの真っ白なワンピースが似合う女性を、彼女以外に知らないとさえ葵は思った。

いざ隣を歩いてみると、葵は全く話題が思いつかなく焦っていた。寮の部屋にいるとき、授業中でさえ、今日はこんな話題を出してみようとあれこれ考えていたのに、今は全くそれも思い出せないでいた。


 田舎のあぜ道。自分の心臓の音と、ジワジワと鳴く蝉の声がうるさい。彼女の長くなめらかな黒髪から香る、甘ったるいシャンプーの香りが、ひどく葵の思考を鈍らせているようだった。


 くすり、と紅緒が笑う。葵は肩を弾ませて紅緒を見た。

 夏だというのに涼し気なほど白く、陶器のような肌。日傘の柄を握る華奢な指は、爪の先にゼリーのように瑞々しい、薄ピンクのネイルが施されている。頭の先から爪の先まで完璧な美しさを纏っている。


「今日の葵くん、何だか大人しいのね」

「そ、そうかな、」


  紅緒の瞳が、微笑み、細められる。それが、葵の心の中まで見透かしているように思えて、葵は喉を引きつかせた。その容姿の美しさも相まって、葵の目にはその微笑みが妖艶に映った。


「暑さにやられたのかも」

「それは大変」


 冷たい飲み物ならあるわ、と紅緒が足を止めて、ショルダーバッグを開ける。でも、手元がもたついて上手くいかず、「これ、持っていて」と日傘を葵に差し出した。


 受け取った日傘は、普通の傘に比べるととても軽かった。そして、可愛らしいレースの刺繍が施されたその日傘が、あまりに自分に似合っていない気がして、葵はおかしさを感じた。


 日差しが紅緒の肩を照らしているのに気付いて、葵はそっと紅緒全体を影で包むように日傘を傾ける。


 鞄を漁る紅緒のつむじさえ可愛いと思ってしまって、葵は「変態っぽい」と心の中で嘆いて、目をそっと逸らした。


 何分どころか、何秒も経っていなかっただろう。葵の意識は、紅緒の「あ、」と言う声によって呼び戻された。


「ごめんなさい、私、買い忘れていたものがあったのに気付いたの」

「あ、うん」

「これ、飲み物。私は口をつけていないから、持って行って」


 日傘とミネラルウォーターのラベルが巻かれたペットボトルを交換する。凍らせられていたペットボトルは、中身が少しずつ溶けて結露し、葵の手を濡らした。


 紅緒の視線が、ぽつんと立つコンビニへと向けられている。俺も一緒に、と言いかけて、結局勇気が出ないまま葵はそれを飲み込んだ。


 「それじゃあ、また新学期に」


 寮を出るときと同じ台詞だった。会釈ではなく、今度は手を振って、紅緒は葵の傍を離れていく。日傘の影がなくなり、じりじりとした陽の光が、葵の半袖から伸びた腕を焼き付けた。


 葵は紅緒の姿を見送ると、そのまま顔を空へと向ける。そっと閉じた瞼の裏は、ひどく赤くて、熱かった。


 「水くれるとか、作間さん、めっちゃ優しい」


 家宝にしよ、と言った冗談を笑ってくれる誰かもなく、葵は自嘲気味に笑うしかなかった。

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