ねこうみ

金澤流都

ねこうみ 第一夜

 飼っている猫が死んだ。20歳の大往生だった。大往生と分かっていても、可哀想で仕方がなかった。

 この猫の子猫時代を私は知らない。歳の離れた兄が飼いたいと言って飼い始めた猫だ。わたしはこの猫より後に生まれた。だから生まれてからずっと、我が家にはこの猫がいた。

 兄はとっくの昔に東京に行っており、猫が死んだ知らせを聞いて、「そうか」としか言わなかった。兄なりの悲しみはあったのだろう、しかしわたしはそれを特に感じなかった。

 猫が死んだ年、わたしは高校生になった。ティーン雑誌を読むと高校というところはセックス&バイオレンスな場所らしい。なんだかすごくドキドキしながら、入学式を迎えた。

 入学してすぐ、どうやらセックス&バイオレンスな高校というのはよその話らしいと知り、大変拍子抜けしてしまった。なんと表紙が水着のお姉さんなだけのただの漫画雑誌すら没収されるのだ。だからだれも猥談をしないし、恋愛の噂すら聞かなかった。噂らしい噂は、一部の素行不良の生徒の変な話をたまに聞くだけだ。

 わたしは美術部に入った。中学校には文化部が吹奏楽部と放送部しかなかったので、嫌々陸上部に入り、幽霊部員をやっていた。中学のころは、猫はもうすっかりヨボヨボになっていて、その面倒を見ていたので幽霊部員だったのだ。

 美術部で、わたしは絵の題材に猫を選んだ。スマホに残っている猫の写真をコンビニでプリントして、猫の肖像画を描き始めた。


 ある日のことだ。わたしはお腹が奇妙に張っていることに気づいた。

 たとえて言うならそう、妊婦みたいな張り方だ。触ってみると硬い。しかしまったく心当たりがない。

 なんだか怖くなった。母親にも言えなかった。きっと想像妊娠とかそういうやつだ。高校はセックス&バイオレンスな場所だと思っていたせい。そう思って納得した。


 しかしお腹の張りはいつまで経っても解消されなかった。

 そのうちに、なにかが動くのを感じるようになった。果たして想像妊娠で胎動を感じたりするのだろうか。ドキドキして怖くなった。保健室の先生――若くて優しくて、こういう事態に対応してくれそうな先生――に相談すると、こっそり婦人科に連れて行ってくれた。

 そこでエコーを撮ったけれど、なにもなかった。なにもないのに胎動があるというのもおかしいが、完全に想像妊娠だ、と診断された。病院代は保健室の先生がこっそり払ってくれた。


 それから少しして、夏にシャワーを浴びているとお腹がひどく痛んだ。息苦しい。こんな痛み初めてだ。なんだろう、背中まで痛い。

 なにか熱いものが、お腹を降ってくる。

 ぬるり、となにかが出ていった。それを、恐る恐る確認する。

 ――子猫だ。

 いそいで臍の緒を切り、鼻から羊水を吸い出した。子猫は「ぴい」と産声を上げた。

 なんで、なんでわたしは「臍の緒を切る」だとか、「羊水を吸い出す」だとか、そういうことができたんだろう。

 まるで母猫になったようだ。乳首を子猫に含ませる。乳が出た。うそでしょ。


 わたしは、シャワーを浴びてから、子猫を隠して部屋に戻った。特に後産が出るとか、出血するとかいうことはなくて、ただただ子猫が可愛かった。

 わたしは家族に、捨てられた子猫を拾ったのだ、と子猫を紹介した。家族も前の猫が死んでしまったのが悲しかったらしく、子猫を喜んでくれた。そこからは箱にいれて、湯たんぽで温めて猫用ミルクを飲ませた。乳を与え、尻を拭いてやり、せっせと世話をした。可愛くて仕方がなかった。

 夏休み、東京で働いている兄が、お嫁さんを連れて帰ってきた。そして、箱の中でぴいぴい鳴いている子猫を見て、

「ずいぶんチビ太にそっくりな猫だなあ」と言った。


 部活で描いている猫の絵を、夏休みの活動日にあらためて見た。

 ああ、チビ太――死んだ猫――がわたしに、あの子猫を産ませてくれたんだ。そう思ったら涙が止まらなかった。そして、猫を産んだという異常な体験を、異常な体験だと思わなかった自分が、何となく恐ろしかった。


 子猫はみるみる大きくなった。

 子猫が生後2ヶ月くらいのころ、ふいに「おかあさん」と小さい子供の声がした。おかあさん? そんなことを喋るような小さい子供は我が家にはいない。

 でも振り返れば、猫用ベッドに寝転がったちいちゃん――わたしの産んだ子猫――が、わたしを見つめていた。キラキラ光る目でこちらを見て、ちいちゃんははっきり「おかあさん」と、また言った。

 ヒッ、と悲鳴が出た。

「おかあさん、ちいちゃんね、おさかなすき」

 小さい子供が言うような口調で、ちいちゃんはそう言った。怖くて、それでも大事な子猫なので、駆け寄り抱きしめて、

「ちいちゃんは猫だからね。おしゃべりしちゃ駄目だよ」と言い聞かせた。

 その日から、ちいちゃんはわたしにしか聞こえないお喋りを始めた。家族が寝たあと、わたしはちいちゃんに「ちいちゃんは猫だからね。おしゃべりしちゃ駄目だよ」とずっと言い続けた。ちいちゃんはだんだん喋らなくなって、8ヶ月くらいのころに去勢したら、ただの猫になった。

 それでも思い出すのだ、ちいちゃんはただの猫でなく、わたしの子だと。

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