メロン

あべせい

メロン



 わたしは、34才のОL。丸の内の15階建てオフィイスビルにある小さな貿易会社に勤務している。

 社内には、滅多に顔を出さない社長と専務のほか、還暦の常務、男性社員は40代の営業、30代の経理担当、20代の営業が一人づつで計3名、

 女性社員はわたしを含め2名いるだけ。だから、ふだんは6名が顔をつき合わせて、50㎡ほどの小さなフロアで働いている。

 もう一人の女性社員は、27才の果乃子(かのこ)。みんなはカノちゃんと呼んでいる。因みに、わたしは、「サッちゃん」。名前が佐知子だからだろうが、サッちゃんなんて呼ばれると、知らない人は「幸子」を連想するらしい。これがとっても迷惑なのだ。わたしは、ちっとも幸せじゃないのだから。

 恋人もいない、お金もない。マンションや持ち家もない。家族は、山形に母と兄夫婦がいるだけ。

 だから、わたしの目下の生きがいは、食べることと飲むこと。なのに、今夜は常務の誘いで、寄席なンかに来てしまった。勿論、わたしだけじゃない。40代の熊谷さんと、20代の甲斐クン、それにカノちゃんの5名だ。入場料が常務もちというから来たのだけれど、このあと、みんなはどうするのだろう。

 それにしても、どうして、経理の韮崎さんは来なかったのだろうか。わたしがいまもっとも大切にしたいと思っているひとなのに……。

 高座にこの日の真打ちが出てきた。あの噺家は嫌いだ。前に老舗蕎麦店でテレビのグルメ番組のロケ現場に出くわしたことがある。そのとき、あの噺家の裏の顔を見ちゃった。

 カメラが回っているときは、いまみたいにニコニコしているけれど、カメラが止まった途端、苦虫を噛み潰したような顔をして、そばにいるスタッフに悪態をついていた。

「キミ、ここの蕎麦、食べたの? 時間がなくて食べてない? そうでしょ、だから、こんな蕎麦屋に来れるンだ。大きな声を出したら聞こえる、って? 聞こえやしないよ。店のひとはみんな厨房に入って、総がかりで次に撮る天蕎麦や変わり蕎麦をつくるのに、懸命になっている。蕎麦もまずいけど、この蕎麦つゆもひどい。老舗だって? 老舗でも、まずいものはまずいンだよ。老舗って、何代続いているンだ。エッ、5代? 冗談じゃない。5代で老舗なの。ぼくは9代目だよ。知っている? 江戸時代から続く噺家の名跡を継いでいるンだよ。キミ、寄席に行ったことがあるの? エッ、昨日、行った? ぼくの噺を聴きに……休演だった? 昨日は、急にテレビの収録が入ったンだ。噺家はたまにテレビに出ておかないと、寄席にお客が来てくれないンだ。エッ、3日前も、休演していた? キミ、よく知っているね。寄席の席亭が言っていたって……あの噺家は10日の興業のうち、半分出演したらいいほうだ、って? そんなこと言っていたの。どこの席亭だよ。新宿?上野? 言いたくなけりゃ言わなくていいけど、8代目だった親父が聞いたら、どんな顔をするか。エッ、その席亭も同じことを言っていた、って? 『先代が、ロクな芸もできないのに、金儲けにばかり走る息子を見たら、どんな顔をするか』って、カッ! ぼくの知り合いに、力のあるプロデューサーはいっぱいいるンだ。キミ、ディレクターなンか、すぐにやめられるからね」

 9代目か、なンか知らないけれど、あのディレクターが言ったように、この噺家は全然笑えない。第一、態度がよくない。高座に出てきても、聴かせてやる、という顔をしている。人気商売で謙虚さがないのは、カップ入りアイスにスプーンがついていないようなもの。とても食えた代物ではない……。

 そこへ、前から二つ折りになったB5の紙が回ってきた。前の座席には常務を真ん中に、左が甲斐クン、右が熊谷さん、わたしが常務の真後ろで、常務のハゲ頭がよく見える。

 わたしの左横にいるカノちゃんが、先に紙を開いて、小声でわたしに言った。

「サッちゃん、二次会に行く? 近くに気のきいたスナックがあるンだって」

 わたしは果乃子が差し出した紙を見た。手書きで「食べ足りない、飲み足りないひとにお勧め! 会費2千円ぽっきり。ここから徒歩3分のスナックにレッツゴー。参加者はご自分の名前を書いて○で囲んでください」とある。

 すでに常務と熊谷が自分の名前を書いて大きく○で囲んでいる。甲斐クンは行かないようだ。

「カノちゃんは、どうするの?」

 わたしは果乃子の返事次第で考えようかと思う。果乃子は答える変わりに、手を顔の前で左右に振った。そうだろう。イケメンの甲斐クンが行かないのだ。若い女が、年寄り2人につきあう義理はない。

 わたしも、やーめた。韮崎さんがいれば、別だけど……。

 わたしは二つ折りにしたその紙で、わたしの右前にいる熊谷の肩をポンポンと触り、彼に戻した。熊谷は紙を開いてチラッと見て、ガックリしたようす。

 こんなことは、ここに来る前に聞いておくべきだろう。

 夕食は、ここにくる途中、これも常務のおごりで、茶巾ずしとビール、果乃子は飲めないから缶ウーロン茶を、それぞれ人数分買って持ち込み、高座を見ながら、すでに食べ終えている。

 確かに、食べ足りない、飲み足りない、はわたしの本音。でも、わたしはまだ34だよ。まだか、もうか、ひとはいろいろ言うだろうけれど、還暦のジィさんと、40代のオジさんと、どうして一緒に過ごさなければいけないの。

 9代目の噺家が、円朝作の「鰍沢」をやっている。山形にいる兄が、落語が好きで、亡くなった円生の「鰍沢」を誉めていたことがあった。それで落語にうといわたしも覚えているのだけれど、逃げる旅人を夫の猟銃で射殺しようとするお熊の人物描写が最も難しいらしい。

 この9代目は、吉原の元花魁だったお熊の悪魔的な美貌と怖さをちっともわかっちゃいない。この9代目がやっているのは、ただお金が欲しいだけのつまらない悪女だ。

 そんなことを思っているうちに、高座の噺家が頭を下げ、幕が下りた。打ち出しの太鼓が鳴り始める。

「さァ、引き上げますか」

 常務が腰をあげ、熊谷、甲斐が続く。わたしは果乃子の後に続いて表に出た。

 地下鉄の駅は、左方向だ。右に行けばタクシー乗り場がある。目の前の横断歩道を渡ってまっすぐ行けば飲み屋街だ。

 果乃子は「常務、ご馳走さま」と言い、甲斐を追うようにして右に行く。2人の仲は公然の秘密だから、これでいいのだろう。

 わたしは……、韮崎さんに会いたいッ!

 少し酔っているみたい。あんな缶ビール1本くらいで。最近、体調がよくないのかしら。

「常務、熊谷さん、お休みなさい」

 会釈をしながら言って、左の地下鉄へ行く。

「じゃ、常務、少しだけひっかけて帰りますか」

 熊谷が常務の肩を押すようにして横断歩道へ。信号は赤だ。

「そうだな。しかし、女っけがないのは、さみしい……」

 常務がつぶやく。

 わたしは聞こえないふりをして先を急ぐ。あの2人に捕まったら、ロクなことがない。しかし、韮崎さんは……。


 あーァ、頭がズキズキする。また、やってしまった。こんなときは、メロンだ。サイドボードの上に……あるある。

 1週間前に買って、そろそろ食べ頃だと思うけれど……。そうだ昨夜帰ってきたとき、真っ先に香りをかいで、ヘタの部分の乾き具合を見たンだっけ。

 結果は、まだ早い……おかしいよね。なかなか熟さないメロンだなンて……。

 アレッ、わたし、服を着たまま、寝ている。化粧も落としていない。これは、タイヘンだ。きょうは……祝日、そうだ、祝日だった。

 だから、昨夜、常務たちにつきあったンだ。もうしばらく寝ていよう、か……。

 待ってッ! わたし昨夜、韮崎さんと……一緒だった! そうだ。思い出した。あのとき、熊谷が常務の指示かどうか知らないが、地下鉄の階段を降りようとしたわたしを追いかけて来て、

「サッちゃん。言い忘れたけれど……」

 わたしはハッとして振り返った。

 ふだん女房の悪口ばかり言っている、口の臭い47才の男がニヤついた顔で立っていた。

「はァ?」

「韮崎クンが、待っているンだ。キミがいないと残念がると思うよ」

「エッ、ホントですか!?」

 わたしの気持ちはグラグラ、そしてカタカタと音を立て、クタクタと崩れた。

 気がついたら、常務と熊谷と並んで、一軒のスナックに入っていた。そこに、韮崎さんがいた! 本当に。

「韮崎さん、どうされたンですか?」

 とわたし。

 すると、

「いやァ、取引先に捕まって、どうしても座を外せなくて、いまになった。ぼくも落語が聞きたかったンだけれど……」

 どうやら、昨夜の落語会は、韮崎さんの発案だったらしい。でも、仕事先で終演にも間に合わないとわかると、彼は常務にメールを送り、あのスナックで落ち合うことにした、って。

 4人掛けのテーブルに、わたしは韮崎さんの向かい側に座った。

 わたしはいまの会社に勤めて2年になる。最初、彼を見て、いい男だと思った。

 優しい目、力強い眉。肩幅があり、ガッシリしていてたくましい。でも、それだけ。彼には、妻もこどももいる。禁断の恋だ。わたしは、自分の恋心を胸の奥深くにしまいこんだ。

 そのはずだった。でも、3ヵ月前、お昼過ぎに、社内で彼と2人きりになったことがあった。

「サッちゃんは、独身主義なの?」

 韮崎さんがパソコンを操作しながら、突然話しかけてきた。彼のデスクは、わたしの斜め前だ。わたしは、女性に対するその質問はセクハラだと思ったが、憧れのひとからの問い掛けだ。

「どうして?」

「いや、熊谷さんがそんなことを言っていたから……」

 韮崎さんは、パソコン画面を見つめたまま話している。

「熊谷さんが、ですか?」

 熊谷は、47の男ヤモメ。女房に逃げられ、自炊ができないから、毎晩定食屋に立ち寄って帰る男だ。そんな男にまで、対象の女として見られているのか。

 わたしは、34という年齢が心底うらめしいと感じた。これが、果乃子のように27だったら、熊谷は相手にされないと思って、絶対にかまってこないだろう。

「韮崎さん。わたし、いままでそういう機会に恵まれなかっただけです」

「いやなことを聞いてすまなかった」

 と言って、彼は初めて顔をあげ、わたしを見た。

 彼を見つめていたわたしの目は、彼の涼やかな目もとに吸い寄せられた。

「実は、ぼくの妻はいま実家に帰っていて……。彼女、元々体が弱くて、病気がちだった。空気のいい田舎にいたほうがいいと思って、そうしている」

「エッ……」

 わたしは、韮崎さんがひとりでいると知って、にわかに小さな胸が騒いだ。

「お子さんはどうしておられるのですか?」

 4才の坊ちゃんがひとりいると聞いている。

「ぼくの両親が育てている。車で2時間もかかる郊外だけれど……」

 これって、誘いなのかしら。いや、そうじゃない。愚痴だ。そうに決まっている。でも……。わたしは、仕事どころではなくなった。

「韮崎さん。もし……」

 そのとき、わたしの目の前の電話が鳴った。

 「もし……」のあと、わたしは、どう言うつもりだつたのかしら。いまではもう忘れたが、言わなくてよかったという気持ちだけは覚えている。

 受話器を取ると、

「もしもし、韮崎さん、おられますか?」

 若い女性の声だった。わたしはそれまでの昂奮に水を差されたような気がして、無表情を装い、彼に電話だと告げた。彼は、自分の目の前の受話器をとりあげ、

「はい、韮崎です。……そうですか。それでしたら、しばらくお休みにしてください。はい、はい。承知しました」

 彼は受話器を戻すと、つぶやくように、

「週に一度、家政婦のオバさんに掃除と洗濯に来てもらっているンだけど、支払いが滞っていて……」

 と言った。

 こんなことは、会社で言うことではない。まして、他人の女性の前で、言うことではない。しかし、わたしは彼の弱みを知り、彼との距離がグ、グッと縮まったことを感じた。

「男ヤモメにナンとかと言うけれど、本当だね。ぼくはまだヤモメじゃないけど、気をつけないと……」

 韮崎さんは苦笑しながら言い、わたしを見る。

 わたしは、その彼の笑顔に、胸がキュッと締め付けられた。

「そうですよ。お掃除とお洗濯くらい、ご自分でなさらないと、奥さまがご心配なさいます」

 わたしは、ハッとした。どうして、こんな心にもないことを言ったのだろう。けれど……。

「サッちゃん……」

 韮崎さんが、わたしを見つめる。ジーッ、と。

 長い、長―い……わたしも負けずに、見つめ返す……。

「韮崎さん……」

 わたしの唇が自然に潤いを帯びて、デスクから身を乗り出し、彼のほうへ……。韮崎さんも立ちあがった……。

 危ない、わたしはモテる女じゃない。

 そのとき、突然、いきなりだ。

 ドアが開くと同時に、がさつな声で、

「やァ、まいった、まいったァ!」

 熊谷だ。

「アレッ、2人だけ? 韮崎は銀行に用事があったンじゃないのか?」

 韮崎さんは立ったままの姿勢で、落ち着いた声で、

「担当の行員が、急に都合がつかなくなって。ドタキャンです。でも、明後日、やり直せそうです」

 わたしは身を乗り出したままのおかしな姿勢で、仕方なく、向かいの甲斐クンのデスクから、必要もないボールペンを借りた。

 あの日以来、わたしの気持ちは韮崎さんから離れなくなった。

 で、昨夜。

 4人はスナックで、しばらくビールを飲み、スパゲティやハム、ソーセージでお腹を満たした。飲み始めて30分ほどした頃、わたしはトイレに立った。

 トイレはお店のいちばん奥。トイレから戻ろうとすると、韮崎さんが入れ替わるようにやってきた。

 わたしは意識した。

「2人きりになりたいッ」

 心のなかでそう叫んでいた。すると。カレ、まさにすれ違いざま、

「あとで……」

 と、ささやき、わたしの手に何かを押しつけた。

 走り書きした紙ナプキンだ。

「30分後、先に出て。寄席の前で待っていて欲しい」

 わたしに、NOはない。

「わたし、電車がなくなるのでこれで失礼します」

 と言って、きっかり30分後、スナックを出た。

 わたしは酔っていたのだろう。ビールの中ジョッキー3杯に、泡盛のライム割り。でも、バス停にいる間、足下はしっかりしていた、はずだ。

 5分もしないうちに、韮崎さんがやってきた。

「常務と熊谷さんは、まだ飲んでいる。明日、朝が早いといって出て来たよ」

 韮崎さんはそう言うと、タクシーを捕まえ、わたしを先に乗せた。

 手際がいい、手慣れている。そう感じた。

 タクシーは10分ほど走り、ビルの1階にあるシャレたつくりの小料理屋の前に着いた。店の看板には、「ときこ」とある。

 中に入ると、わたしとあまり年が変わらない美形の女将がいて、愛想よく迎えてくれた。時間が遅いせいか、ほかに客はいなかった。

「韮崎さん、最近、ご無沙汰ね」

 女将はそう言って、カウンターの前に腰掛けたわたしたちの前に、頼みもしないのに大瓶のビールを置いた。

 それから1時間もいただろうか。何を話したのか。よく覚えていないのは、酔っていたからか。それとも、興味のない話だったからか。

 覚えているのは、あの女将と韮崎さんが、ただならぬ関係にあるということ。

 それから、韮崎さんが、手元不如意なので、少し融通してくれないかとわたしに頼んだこと。文字にすると、こんなぶしつけな話になるが、彼はもっともっと、うまく、やさしく言った。

「2人で旅行したいね。でも、ぼくいま金欠だから。ダメか……」「サッちゃんが入社してきたときから、ぼくはとっても気になっていた。ぼくが結婚していなけりゃ……、できもしないことを言うつもりはないけれど、キミにいいひとがいないことがよくわからない」。

 女将が席を外したときは、「あの女将、あれで男なしでは生きられない女なンだ。ぼくはまだ、その毒牙にかかっていないけれど、あとは時間の問題かも知れない……」

 女将は、韮崎さんがトイレに行ったとき、こんなことを言った。

「あなた、佐知子さんね。彼がここに来るとよく噂しているわ。いい女なのに、恋人を作らない。昔、ひどい目にあったンだろうが、勿体ない、って。あなた、本当に男嫌いなの?」

 冗談じゃない。男は好きだ。ただ、好みがうるさいだけ。韮崎さんのような、ナゾめいたひとが好き。勿論、昔はいろいろあった。騙されたことも。

 でも、女将には、

「占いをみてもらったら、あと1年は静かにしていなさい、って言われたンです」

「そォ、残念ね。それはそうと、韮崎さんから投資の話は聞いた?」

 いいえ、と答えると、

「あのひと、すごい儲け口を知っているンだけれど、とても大切なひとにしか言わないらしい。だから、わたしにもまだ、教えてくれないの」

 ということは、韮崎さんと女将は、まだ、ってこと。わたしの読み違いだったのか。

 トイレから戻ってきた韮崎さんは、いきなり、

「サッちゃんに大事な話があったンだけれど、この次にする。明日はお休みだけれど、キミは疲れているよね」

 ヘタな落語を聴かされたが、疲れてはいない。飲みすぎただけだ。

「だったら、もう帰ったほうがいい。ぼくはもう少しここにいて、女将の手料理を食べていく」

 そんなことを言われて気分のいい者はいない。でも、わたしはものわかりがいい女だった。

「じゃ、お邪魔にならないうちに引き上げます」

 と言って、ドアを開けて外に出た。

 すると、韮崎さんが外まで追いかけてきて、

「タクシーを捕まえるよ。ぼくは、それだけは得意なンだ」

 と言い、そのことば通り、タクシーはすぐに捕まった。

 わたしがタクシーに乗ろうとすると、韮崎さん、背後からわたしの太股の後ろあたりに両手を副え、中に押し込むようにタクシーに乗せた。

 そして、

「サッちゃん、あとでメールする。今夜はありがとう」

 と言って、見えなくなるまで見送ってくれた。

 そうだ。メール、メールッ、スマホスマホスマホだ。

 わたしのスマホはどこよ! あった。メールを開く。

「サッちゃん、おはよう。いきなりだけど、昨夜は投資の話が出来なかった。ぼくはあまり関心がないのだけれど、あの後、女将がサッちゃんにも是非勧めてくれっていうもンだから。明日、詳しく話すよ。2百万円の口が一口空いているンだ。きょうは1日ゆっくり休んで。じゃ、明日また……」

 メールの発信時刻は、昨夜の午後11時58分。

 

 わたしはきょうは遅番だ。遅番の社員は、定刻より30分遅く出社する代わり、退社は社内の片付けと翌日の準備等をして定時より30分遅くなる。

 9時3分前。エレベータに乗る前から、なんだか雰囲気がおかしかった。

 会社は9階にあり、同じフロアには他に3社が事務所を構えている。

 うちの会社は、一番左端のドア。そのドアが開け放たれている。いつもは閉まっているのに。社長が口うるさく言うからだが。異変が起きたに違いない。

「おはようございます」

 そう言って、ドアを抜けると、果乃子が駆け寄ってきた。

「サッちゃん。タイヘン! 韮崎さんが……」

「韮崎さん?」

 韮崎さんが会社のお金を使い込んでいたというのだ。わかっているだけでも、3千万円! 

 経理担当だから、会社の銀行口座から、少しづつ自分の口座に移し替えていた。

 信じられない。昨日の祝日に、社長がネットで銀行口座を調べて発覚したらしい。経理の専門学校出の彼に任せきりにしていたのが、裏目に出たようだ。

 韮崎さんは勿論、電話に出ない。

 いま、常務が韮崎さんの自宅に走っている。でも、そんなことをしたのなら、もう自宅にはいないだろう。

「サッちゃん! キミ、一昨日、彼に会ったンじゃないのか?」

 熊谷だ。

「エッ!?」

 どこまで、知られているのか。迂闊なことは言えない。

「スナックを出たあとだ。あいつ、おれたちに投資を勧めたあと、うまくいかないとわかると、キミにも勧めると言っていた」

「知りません。なんのことか……」

「常務はその前に、彼に30万ほど貸していたと言っていた。あいつ口がうまかったから。甲斐も10万、カノちゃんも10万、いかれている。おれは……、それはいいか」

 熊谷は、わたしに似て、お金にはシビアなンだろう。滅多に貸し借りはしない。

「どうして韮崎さんは、そんなにお金が必要だったンですか?」

「ギャンブルだよ。あいつ、競輪に目がなかった。全国を飛び回っていた」

 そういえば、有休をよくとっていた。

「あいつの行き先、知らないか。もっとも、捕まえたって、金は戻らないだろうがな……」

 ギャンブラーが横領した金を大切に持っているとは思えない。

 わたしは男を見る目がなかったのか。あと少しで、わたしもカレの術中にはまっていたかも。

 そのとき、わたしは、小料理屋の「ときこ」の女将を思い出した。彼女なら、何か知っているに違いない。でも、そのことを言ったら、わたしがスナックのあと、カレと会っていたことを白状するはめになる。

「奥さんはどうしておられるンですか?」

「あいつの女房は、あいつの金遣いの荒さに愛想を尽かして、半年も前から、実家に戻っているそうだ。だから、今回の横領については何も知らない」

 奥さんと別居していることは本当だった。

 でも、理由は違った。彼はわたしにウソをついた。わたしは、なんだか、哀しい気分に陥った。その程度の男に有頂天になった自分が哀れだった。

 そのとき、わたしのバッグの中のスマホが着信を告げた。

 熊谷がチラッとわたしを見た。

 わたしは、スマホの画面を見てから、

「母です」

 と言って、事務所から廊下に出た。

「もしもし……」

 画面には、発信人が「韮崎」と表示されている。

「ぼくだよ。どうなっている、会社?」

「みんな大騒ぎしています。使い込み、って本当ですか?」

「ウソだ。ちょっと借りているだけだ。社長のやつ、ぼくが紹介した女に騙されたものだから、ぼくにヤツあたりしているだけだ。ぼくは、社長に、これまで何人も世話しているンだよ。ぼくが黙ってお金を借りても、文句は言えないはずだよ」

「いま、どちらにおられるンですか?」

「それを言うと、キミが困るから、聞かないほうがいい。ぼくがキミに電話をしたのは……」

「はい……」


 3日後。

 いつもの目覚めだ。ボードのメロンはまだ香りを発しない。どうしてだ。熟さないメロン、ってあるのかしら。

 買ってから、もう2週間。なのに……。

 韮崎さんは、あの日、横領容疑で逮捕された。

 彼は電話でわたしに、お金を彼の口座に振り込んで欲しいと言った。逃走資金だ。

 わたしはそれを無視して、匿名で警察に通報した。社長が警察に告訴したのを知っていたからだ。

 わたしが通報した通り、彼は逮捕されたとき、「ときこ」があるマンションの3階にいた。女将の部屋だ。

 2人は、やはりただならぬ関係だった。いや、あの夜、そうなったのかも知れないが、そんなことは、もうどうでもいい。

 わたしはこれから、彼に会いに行く。

 1時間40分もかけて、拘置所の接見室に着いた。

 それから30分近く待たされて、彼が現れた。

 こちらが肩すかしを食ったように、元気そうだ。ちっとも堪えていないのかしら。

 薄い透明のアクリル板を挟んでの会話になった。

 彼は職場では決して見せなかった笑顔で、

「やァ、来てくれると思っていたよ」

「頼まれて来ただけよ」

「常務か。そうじゃないな。社長だろう。裁判で、コレ……」

 と、小指を突き出し、

「……のことを言われたら困るからな」

 そういう見方もあるのだ。近いうちに社長に頼まれて常務も来るのだろう。

「これに署名が欲しい、って……」

 わたしはバッグから四つ折りになった用紙を彼の前に広げた。

「離婚、ってかッ」

 彼の顔色が変わった。

 笑みが消え、不動明王の形相になった。

「あいつがコレを寄越したのか。あいつが、あいつが……」

 と、急に、花が力をなくして萎れるように、彼の表情は暗く沈んだ。

「奥さまから、会社にいるわたし宛てにお電話をいただいて。会社の前まで来ておられたので、外でお会いしました」

「そうか。あいつ、とうとう決心したのか」

「お子さまは、おひとりで育てられるそうです。それから……」

 わたしは足下から、紙袋を持ち上げ、透明版の前の棚に置いた。ここまで来るのに、重かった。

「なんだ?」

 紙袋から、化粧箱を取り出す。

「メロンか?」

 北海道の有名なメロンだ。LLサイズで、1個4500円もした。だから、一つしか買えなかった。

 自分一人で食べるつもりだったけれど。なかなか熟さなくて……。幸い、化粧箱は捨てずにあったから、元のように箱に収めて持って来た。

「そんな高級メロンを、どうして?……」

 彼はわたしを見て、考えている。理由がわからないらしい。

「おまえ、まさか……」

 わたしに向かって「おまえ」って、初めて言った。

 そんな関係じゃないのに。

 最初につきあったカレが、別れるときわたしに、

「熟さないメロンにだけは、なるなよ」

 と言った。

 その頃、その意味がわからなかった。でも、いまはなんとなくわかる。

「差し入れしておくから、あとで食べて。刑務官の人たちにもお裾分けしたら、きっと喜んでもらえるわよ」

 そして、待遇をよくしてもらって。会社には告訴を取り下げてもらって、示談にする。そして、晴れて出所したら、出所したら……。

 わたしは、ゆっくり熟しながら、じっと待っている。

                 (了)

               

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メロン あべせい @abesei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る