夏の終わりに髪を切る

柳路 ロモン

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 髪を切った。終わりの見えない暑さが続く八月の三十一日に。

 一昨年の春頃から伸ばし始めた髪は、私のうなじをすっぽりと覆い隠せるほどになり、背中のラインに沿って腰の真ん中あたりを目指して伸びていた。今はもう、そんなものはないけれど。

 一度も脱色や染色をしたことのない黒髪だった。「少しくらい遊んでもいいんじゃない?」と、大学の友人から何度も勧められたのだが、私は「この色が好きだから」と言って誘いを頑なに断り続けた。

 髪の手入れも怠らなかった。髪の艶を綺麗に保つには、長さに応じてそれ相応の苦労が必要だった。

 元々体を動かすことが大好きだった私は、髪は男の子みたいに短く切ってもらっていた。シャンプーやコンディショナー、トリートメントなんかに気を配ったことは一度もなかった。もちろん、髪の洗い方やドライヤーのかけ方に「なるべく髪にダメージを与えない方法」があることも知らなかった。

 髪を伸ばし始めてからはそうはいかなかった。指を立てて爪で頭皮を引っ掻くような乱暴に洗い方はしないように心がけた。自分の髪質や肌質に合うシャンプーを追い求めてドラッグストアに通い続けた日々は決して忘れはしない。

 起きてから眠るまでの間、自分の髪の毛のことを愛さなかった時間は一瞬たりとも存在しなかった。

 

 全ては、キミのためだった。


 最初の出会いは、たまたま偶然、ほんの一瞬だけ、大学の構内でキミの顔を見ただけだった。何か特別な会話をしただとか、特別な出来事があったとかそういうのじゃなくて、ただ本当に、私が一方的にキミを見ただけだった。

 冬の寒さは薄れ始めて、頬を横切る風に温もりが混じり始めた春の季節。私は、お友達と談笑しながら歩くキミとすれ違った。

 一目惚れ、だった。私の春がようやく芽吹いた。

 キミの顔のつくり、表情の変化、笑った時に出来る小さなえくぼ。低くて耳触りの良い声に、キミの仕草のひとつひとつ。あの時のキミの全てが私の網膜と記憶に焼き付いた。

 どこにいても、何をしても、私の頭の中にはキミがいた。明るい世界だと霞んでしまうキミの姿は、目を閉じるとより鮮明に私の前に現れて、暗闇の中に佇むキミは、私の方を向いて微笑んでくれる。

 あぁ、なんて可愛らしい笑顔なんだろう。キミの移ろう表情の全てを観察したい。誰も知らないキミの表情が見たい。

 あぁ、キミの声はずっと聴いていたくなるほどに心地が良い。その声で私の名前を呼んでほしい。耳元で愛を囁いてほしい。

 初めて恋をした私にとって、この出会いはあまりにも刺激的だった。キミに積極的に迫るなんて真似はできず、「おはよう」「おつかされさま」なんていう何気ない挨拶すら臆病者の私にはかけられない。私にできたのは、ただ遠くから、平和に今日を過ごすキミのことを眺めることくらいだった。

 でもやっぱり、思えば思うほど私はキミを激しく求めるようになった。肉体的にも精神的にも、キミとの密な繋がりを求める私の身体は異様に熱を帯びた。火照りのせいで眠れない夜は決まって、お腹の下あたりに堪え難い疼きを感じた。この疼きを鎮めてくれるのがキミであったならと、淑女らしからぬ妄想を膨らませ、延々と自分を慰め続けた。ようやく火照りが冷めると、毎回悶え死にそうなくらいの恥ずかしさが私を襲ったが、それでもよかった。そういうのが、むしろよかった。

 キミの声に聞き耳を立てていたある日のことだった。お友達と雑談をしているキミのことを遠目に見ていた私は、キミたちの話題に釘付けだった。

 それは、「どんな女性がタイプか」という話題だった。

 私が知りたかったキミの情報が得られるぞと、会話を途切れさせることなく話題を広げたキミの友人に初めて感謝を覚えた。

 そこでキミは、可愛らしく恥ずかしそうに頬を赤く染めて、「綺麗な黒色をした髪の長い女性が好きなんだ」と言った。

 私は、自分の髪の毛を、後頭部に生えている髪の毛の先を親指と人差し指で摘んだ。うなじをやっと隠せるくらいくらいの短さで、これでは到底「長い髪の毛」とは呼べない。

 「運動の邪魔だから」と言ってこの髪型を保ち続けた過去の自分を恨んだ。それと同時に、生まれながらの純粋な黒髪を保ち続けた自分は褒め称えた。

 これが、私が髪を伸ばし始めたキッカケだ。


 八月二十八日。

 キミに恋をした日から大体二年と丁度三ヶ月が経った辺りのことだ。もう間も無く八月の終わりを迎えようとしている。この夏の暑さは勢いを増すばかりで、毎日どこかの地域で観測史上最高気温を記録したというニュースが耳に入ってくる。私の住んでいる町でも猛暑が続き、九月に入ってもこの暑さは終わらないだろうというのはなんとなく予想がつく。

 私の髪は腰の真ん中あたりまで伸びてきた。たった二年でここまで伸びるものなのかと周りからは何度も驚かれたが、これは多分、私がキミを想うことで不思議な力が働いたんじゃないかと勝手に考えている。ただ、この時期に髪を下ろしたまま過ごすのはなかなかの苦行だ。後ろ髪をヘアゴムで結んで、後頭部の低い位置から垂らす。こうやって髪の毛を縛ることが出来るようになったのは髪を伸ばしたおかげ、じゃなくて、キミのおかげ。

 髪の色は変わらず黒色を保っているが、その色艶は一昨年のそれとはまるで違う。今日に至るまでの手入れの賜物だ。今の私はきっと、キミの好きな、綺麗な黒色をした髪の長い女性になれただろう。

 私がキミのためにやったことは髪の手入れだけじゃない。他にもたくさんある。

 料理の勉強も始めた。キミに「美味しい」と言ってもらえる料理作るために。初めのうちは危なっかしい包丁さばきもプロ並みに上達。レシピの手順通りに作ることに精一杯だったのに、いつからか「キミ好み」を探して理想の味付けを追い求めた。特に、何度も練習し試行錯誤を重ねたオムライスなんかは、一度友人に振る舞ってみたところ「こんな美味しいオムライス、お店でしか食べたことない」と勿体なさすぎる評価をもらった。

 私は変わった。

 それでも、臆病な私がキミに出来ることは何一つ変わっていない。遠くの方からキミのことを見つめ、”いつか”の妄想で頭をいっぱいにする。友人に声をかけられても気づかないくらい妄想に夢中になっていた私の頬は、、だらしなく緩んでいた。

 私の視線の先にいるキミは、夏の季節にぴったりな爽やかな装いをしていた。

 白色の半袖シャツに、生地が薄くて涼しげな紺色のズボン。どちらもダボっとしたゆとりのあるもので、キミによく似合ってる。シャツの袖口から伸びる腕はインドア派のキミらしく色白。でも、そこにうっすらと付いた筋肉が男らしくてキュンとくる。

 去年の秋頃からキミは髪を整髪料で整えることを覚えたみたいだった。この夏の暑さを吹き飛ばすような、清潔感にあふれる爽やかな髪型。私のためなんかじゃないとわかっていても、いつもは前髪で隠れているキミのおでこがよく見えるからすごく嬉しい。教室の空気がひんやりとしているのは冷房のおかげだと頭ではわかっていても、私が感じているこの涼しげな風はキミの方から流れてきているような感じがする。

 それから、キミの首にぶら下がり、照明の光を一瞬だけ眩しく反射した銀色のネックレス。私とは別の誰かさんが贈った物だろう。友人にそのネックレスのことを揶揄われて、照れ隠しに少しだけ荒っぽい言葉遣いになるキミのことを、私は愛おしげに見守っていた。

 私がひとりでキミを追いかけている間に、キミは私の知らない誰かと一緒に歩き始めた。

 キミは変わった。本当に。もうあの時にキミとは全然違う。

 でも、そこにいるのは間違いなく私が恋に落ちたキミで、キミを想う私の心は何一つ変わらない。

 

 八月二十九日。

 あの日と同じように、キミと大学構内で偶然すれ違った。キミの隣にいるのは、いつものお友達、じゃなかった。私の知らない女の人。私なんかよりずっと綺麗で、お洒落で、スタイルが良くて、黒色の髪が長くて綺麗な女性。髪の長さや美しさだけで競うのなら私の勝ち。でも総合的には私の負け。

 女性の首元で光る、キミとお揃いのネックレス。

 女性と話すキミの表情は、お友達と一緒にいるときのとはまた別の、私の知らない、優しそうな笑顔。その女性と一緒の時間を共有できていることを心から嬉しそうにしているキミの話し声が聞こえてきて、なぜだか私は耳を塞ぎたくなった。

 私なんかに目もくれず、そのまま歩き去っていくキミと女性の背中を、私は立ち止まったままずっと眺めていた。


 八月三十日。

 入浴後、洗面所で髪にドライヤーから吹き付ける温かな風を当てていた。もうとっくに髪の毛は乾いている。

 私の背中に垂れる髪の毛先を前の方に持ってきて、髪束を手のひらの上の乗せる。手のひらを傾けると水とか砂みたいにさらさらと私の手のひらから滑り落ちていく。手櫛をしても絡まらない。私の指の動きに合わせてそっと道を開けてくれる私の髪の毛たち。

 私は、この子たちにどれだけの愛情を注いできたのだろう。キミとの”いつか”に思いを巡らせ愛を注いできた。でも、その愛に見合う見返りが私のところにやってきたとは到底思えない。

 二年と少しに渡る努力の末、私の手元に残ったのはこれっきり。


 八月三十一日。九月の到来を目の前にしても、この夏の蒸すような暑さが衰えることない。輝く太陽は雲に遮られることなく私たちの肌を焼く。

 髪を切った。私のうなじを隠し、背中に沿って伸びていたあの黒髪はもうない。切ってもらった髪の毛はヘアドネーション、つまり然るべき場所で使ってもらえるように寄付した。

 今日まで私がやってきたことの全ては、キミのためだった。

 その健気で一途な思いは、キミに届くことはなく、熱されたアスファルトの上にまかれた水のように霧散。あれだけごうごうと燃えていた私の心の内の炎はいつの間にか消え、残ったのは冷えかけの熱を持った片思いの灰だけ。

 キミはもう私の手の届く場所にはいない。わざわざそこまで出向き、私を見てほしいとも思わない。思えなくなってしまった。

 それでも、結局キミの世界に私が現れなかったままこの物語が終わることを私は寂しい。せめてキミのあの瞳の中に、私を一度でも映せたのなら────。

 風が私の頬を撫で、私の耳にかかる髪の毛先をはらりと揺らし、首筋を通り抜けていった。髪の毛のカーテンが風の行手を阻むことはない。

 美容室の向かいにある建物のガラス窓に映る私の姿は、かつての私によく似ていた。

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