第2話

 物心がついて以来、アリスは今日という日を待ちわびてきた。

 ようやくこのドレスを身にまとい、王子の前に出られる日が来たのだ。

「ねえ、子供っぽくないかしら?」

「いいえ。とてもお似合いですわ」

 侍女たちが言うのにもお世辞はない。そのはずだ。何年もかけて両親が選んできたのだから。

 生まれて口紅を塗ってもらうと、鏡の中に別の自分が現れるのに驚いた。

「とてもお綺麗ですわ」

 側にいたカレンは眼鏡を軽くずらして微笑んだ。

「ちょっと。あなたもパーティーには出席するんですからね。いつまでそんな恰好をしているの?」

 カレンは朝からろくに食べていないのか、ノートを読みながらビスケットをかじっている。呆れたことにまだ髪も梳いていないし、顔もあらっていなさそうだ。

「六時からならまだ間に合います」

「もう。あなたを連れてゆくわたしのほうが恥ずかしいのよ。ちゃんとすれば、あなただって貴族の一人や二人、簡単に求愛してくるわ」

「あたくしにとって、今日はそういう日ではありませんわ」

 カレンはアリスの前に屈んだ。小さな教え子は、彼女の腰くらいの背丈しかない。

「この日のために、あたくしは持てる知識をすべてアリス様に与えて来ました。この五年間、アリス様に幸せになっていただくために、僣越ながら最高の教育をしたきたつもりですわ」

「そうね。そしてわたしは最高のレディになったわ」

 カレンは満足そうに微笑んだ。アリスの遠縁の娘で、父母が亡くなり身寄りがないのを引き取られた。以来、アリスを淑女に仕立てるのに全力を注いできた。アリスの言うとおり着替えさせ、化粧をすれば王子も騙せる美少女なのだが、アクセサリーより書物を好む変わり者である。

「御歳のことは気になされないこと。アリスさま。十六と十ですもの。十年すれば釣り合いもとれます。あなたさまのその笑顔と知性こそが宝石です。アリス様を見ると、皆様は十年後を早く見たいものだと望まれます。殿下でさえ例外ではあり得ませんわ。どうか未来の妃として、立派に振る舞われますように」



 薄暗い屋根裏部屋でセイリーンは溜め息をついた。

 無理だわ。

 こんな年代物のドレスを着てパーティーに行くなんて信じたくない。

 でもこれは、こんな生活から這い出すための、唯一の手段なのだ。

 貴族とは名ばかりの貧家に生まれたのもさることながら、五歳の時に母が死んでからの生活は悲惨だった。地獄だった。父の再婚した妻は、セイリーンを憎み、下働きのようにこき使った。食べ物も粗末なものしか与えられなかった。こんな狭い部屋に押しやられ、冬には寒い思いをしてきた。

 母の形見の鏡を見る。母の嫁入りの時の道具で、たった一つセイリーンのもとに残ったものだ。隠しておいたお陰で、継母たちに取られずに済んだ。両手の中には血色の悪い貧相な娘がいた。まだ十四だと言うのに労働にやつれた老女のような顔。やせこけて、手も足も傷だらけ。着替えもろくにないほどだったから、この晴れの日にも娘らしい支度は何一つない。

「いいえ。見返してやるのよ」

 顔をあげ、セイリーンは自分に言い聞かせた。

 二十年に一度のチャンスだ。こんな時に王子と釣り合うように生まれついたのだ。利用しない手はない。

 義理の母や姉だけではない。父も自分を捨てたも同然だった。継母の連れ子がセイリーンを馬鹿にしたようにあしらうのを、笑って見ていた。セイリーンが苛められているのをわかっていながら、継母の癇癪恐さに黙っているのだ。

 毎朝早起きをし、水汲みや洗濯をする。食事の支度や掃除、買いだしに明け暮れる。いっそ貴族の娘に生まれなければどんなに気が楽だったか。使用人たちにもあざけられ、命令されるこのつらさ。

 このあたしが王子の妃になった暁にはあのつらさを一千倍にして返してやる。

 その時にどんなに謝ってもおだてても、あたしは彼らを家族とは認めない。妃の家族として甘い汁など吸わせてたまるものか。城にも招いてやらない。世継ぎが生まれたって関係ない。あんな者たちは他人なのだ。

 その時のことを考えてセイリーンは微笑んだ。鏡の中で意外に可愛らしく笑えた。

 継母や義姉が怒鳴ってセイリーンを捜す声が聞こえた。城へ行く準備を手伝わなければならない。あんなブス、誰が気にとめるものか。王子どころか庶民の男手さえ手を出さないに違いない。まあせいぜい飾りたててやろう。ブス風情が上品にふるまえばふるまうほど、喜劇になる。あんたはあたしの引き立て役ってところだ。

 見ていなさい。

 セイリーンは拳を握りしめた。それで王子が落ちるなら、寝室にだって連れ込んでみせるわ。



「行ってしまうの?」

 都を離れた郊外の森にひっそりとたたずむ小さな屋敷。

 少年はイサベラを見つめた。

「なんで結婚なんかしたいの? ずっとこのままでもいいじゃない」

 イサベラは手袋で少年の涙を拭った。馬車は来ている。パーティーの時間に間に合うためにはいますぐ発たねばならなかった。

 幼い息子は涙目で訴えた。まだ十五。今日城へ会いにゆく王子はこの息子より一つ年上なだけだ。そんな少年のところへ嫁ごうとしているとは。

 イサベラは三十になる貴族の娘だった。夫とは別れたから、成婚ともなれば再婚になる。もちろん世間は既婚者が王子と結婚ともなれば、いい顔はしないだろう。しかし知るものか。うまく王子を籠絡できれば、それが愛という通行手形になる。世間の波風など恐るるに足りない。

「ふんだ。ばばあなんか、王子が相手にするもんか。帰ってきたってうちに入れてやらないからなっ!!」

 生意気盛りの息子は憎まれ口を叩いた。即座に勢いのいいイサベラの平手が頬に飛んだ。うまくよけるように見えたが、甘い。代々優秀な武人を排出する環境で育ったイサベラは、息子を逃さなかった。

「自分が贅沢したいだけだろ!? 身の程を知れよ!! 恥ずかしいよ、いい歳してお妃だあ? ったくこんなんなら父さんの方に行けば良かったよ」

「行けば? 私が妃になったらあんたはコブだわよ」

 まだ少年じみた面影を残すクイントゥスは可愛らしい顔をして母親を睨みつけた。性格は一見穏やかな父親似だが、口の悪さは母親似かと思われる。

「……借金くらい、僕が返してあげるよ」

 夫と同じセリフを、同じ表情で言う。この子は将来素晴らしい男になるだろう。人のいい父親と同じく、馬鹿な女に人生を狂わせられなければいいが。

「何言ってるの。あんたが大きくなったって稼ぎなんてたかが知れてるんだし、利子は日ごとに成長するものなのよ」

 クイントゥスの気持ちはありがたかったが、実家の借金は娘の自分の代で帳消しにしたかった。夫に迷惑をかけないためにもと、離縁してもらったのだ。職もない女の細腕ではどうにもならないとわかってはいたが、夫や息子を巻き込みたくはない。

「ホント、洒落にならないから、やめてよ母さん」

 息子は涙目でイサベラの腕を掴んだ。

「こんなこと噂になったら僕、近所歩けないよ」

 クイントゥスは深刻な顔をして嘆願した。


 城を目指す馬車の中で鏡を取り出してイサベラは密かに微笑んだ。子持ちとは思えぬほど若く美しい姿がそこにある。まだまだいける。揺られながら指先が震えていることに気がついた。武者震いだ。こんなに興奮をおぼえたのは何年ぶりのことだろう。

 取り残されたクイントゥスは頬を押さえて立ち上がった。もはや呆れ、涙も枯れ果てた。大きく深呼吸し、決心した。あの馬鹿をどうにかしなければ。

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