鯨と夕顔

越乃八峰

第1話

 人が住まなくなった家は、あっという間に劣化する。

「……ああ。防砂林が枯れたのか。おかげで見通しがすこぶる良くなった」

 年中無休な松葉色。三月ほど先を行く落葉色。相反する林の向こうで跳ねるのは冬毛の野兎。沖で群れて戯れる幾千もの白波と無口な瑠璃紺が見えた。

 台所。風呂場。居間。書斎。頼み込んで屋根裏部屋を譲り受けた青臭い思い出の残る自室。家具も調度品も悉く処分し尽くした亜空間は季節柄、目に見えぬ祖霊の息遣いでじっとり澱む。壁のシミを辿りながら、かろうじて稼働する窓を全部開けた。

「せっかくだから鯨汁といごねりくらい食べて帰るのもいいな。子供の頃は全く好きじゃなかったけど、今となっては立派な肴ですし。それに横濱じゃ、なかなか見かけない」

 鬱屈した埃塗れの空気と入れ違いにやってくる季節の彩りは、ねっとりと鮮明なハマナスの朱。空っぽの花瓶を空元気に賑やかすのは盛夏にめげないチンドン屋。白と黄色と紫が強い仏花を適当に生けて合掌する。線香の匂いに少々感傷的になるものの、我が家はいつだって変わらない。

 十五年。年がら年中吹き付ける潮風に車庫の鎧戸が殺されるには充分過ぎる時間だった。

 父は地方紙の記者。母は牛乳配達員。そんな両親の下に生まれたのが自分。

 大昔、花街の芸妓だった祖母は長唄と三味線を本の虫で内気な孫に、それはもう熱心に仕込んでくれた。おかげで幼い頃から和装と古文に馴染みがあったことが後々、稼業にも生かされてくる。ちなみに祖父は物心つく前から白黒写真の中在住だ。

 そう言えば図書館通いも夏期講習も、あっさり認めてもらえていたか。他所のお宅の御子息は自発的に勉学に勤しむ種族が絶滅していて、どこに行くにも己は単身。高校に進学する頃には外で会った級友の母に勤勉さを褒めちぎられるほど計算高くなっていた。知識を深める行為に割く時間及びそれらにかかる諸経費をなんでも心良く払ってもらえる家庭は至って平均的で普通の家族とは到底呼ばない。

「一年に一度しか帰らない不出来な息子ですいません。今年もまだどうにか寿命が残っていました。会いにこれてよかった」

 自嘲めいた独り言は、すうっと仏壇に吸い込まれる。遺影が一枚も存在しない奇妙でいて殺風景な仏間で祈る行為は些か珍妙かもしれない。だって魂はとっくに浄化されているし、朽ちた屍は暮石の下。それでもきっと彼の人達なら此の時期くらいは戻ってきてくれる、そんな予感はなんとなくある。

 父母には裏の顔、もとい本業があった。取材や配達の名目で街中を駆けながら入手した情報を逐一政府の特殊機関に献上する民間人協力者。連綿たる虹色変色竜の家系。

 生前の祖父は全く存じ上げないが『我が家に何かがあった場合、終生任せられる後ろ盾』へと続く道を唯一の跡継ぎの為に周到に用意していたのだから、たぶん今の己と同じ存在だったのだろうと推測出来た。

「海は荒海。向こうは佐渡よ……雀、で合っていたかな」

 海風に柳がそよぐ港町。僕の故郷は日本海側最大の政令指定都市だ。とは言え筋金入りの田舎であることに変わりはない。雪はそんなに積もらないが避暑に訪れられるほど冷涼ではなく、むしろ有り得ないくらいの高温多湿に迎え撃たれる。誰かに貸し出せるほど綺麗ではない我が家だけど此処が自分の原点で、きっと唯一の帰る場所。だから固定資産税を払い続けることで此の家の寿命を細々と伸ばしている。

 先刻まで家中の窓硝子を橙色に染めていた陽射しが、いつの間にか薄紅に変わっていた。腕時計の文字盤が示す午後六時二十分。花瓶に入りきらなかった盆花を少々、年代物の新聞紙に包む。蝋燭の灯が消えるのを待って黄昏迫る坂道へ繰り出した。十分も歩けば海へ出る。緩やかに運動をして、ちょうどいい塩梅で汗をかけば今夜の地酒は格別美味く感じるだろう。却説、アテは何を選ぼうか。栄螺の壷焼き。真鯵の刺身。塩鯨と夕顔を合わせた、やたらめったらしょっぱい味噌汁。海藻をクツクツ煮て冷やしながら流し固めた郷土食なんて、もはや絶滅危惧種だ。太陽が水平線へ隠れるまで見送ってから馴染みの小料理屋に顔を出せばいいと軽率に思った。

 幼い日に母と手を繋いで、のそのそ辿った散歩道。我は海の子。砂山。浜辺の歌。一つ一つ習いながら一緒に歌ったカルメラ味の暮れなずむ唱歌。記憶の縁から拾い上げて、見知った風景と共に行く。

「少し、風化しちゃいましたね。でもよかった。この場所だけはそのままだ」

 松林の奥に佇む立派な石碑。子供の頃からなんとなく安息地に設定していた道標は一寸も変わっていなかった。時を二十年遡って遠慮なくどっかり腰かけながらポケットを探る。指先が見つけた小箱は静かに、仄かに薫る。一つ抜きとって蛍のような送り火を静かに灯す。

 凪。煙は真っ直ぐ天へ昇る。

 随分と遠くに来たけれど結局心は引き戻される。想うことなんてそんなに無いのに完全には捨てきれない。

 家族と言う呪縛は視えない鎖。繋留されて、引っ張られて、手酷く記憶を改竄する。

 分からない。僕はうちの一族を、ちゃんと好いていたのだろうか。

『偉いな。だってどんなに忙しくても、一年に一度は逢いに帰るんだから』

「それでしか親孝行が出来ないからですよ。どんなに痛くても……苦くても忘れないこと。それが僕なりの供養です」

『……煙草。ありがとな』

「咖喱飯でなくてすいません」

『いいさ。此の一本で充分だよ。また来年、なーー安吾。あんまり急いでこっちに来るなよ』

 なんて人だ。未だに脳裏から離れない、大海原より広い背中。胸が詰まって声にならない。

 気遣ってなんか欲しくなかった。

 名前だけは呼ばないで欲しかった。

 だってあなたは僕のせいで命を落とした。

「織田作さんっ……!あなたって人はっ!どこまで……お人好しなんですか……!」



 だから僕には夢の中にだって出てきてもらう資格は無い。



 温い潮風が戻ってきた。汗と涙を吸って湿った前髪を、出勤前の身支度のように掻き上げる。腕時計が示す絶妙な違和感。廃墟寸前の我が家を出発してから一時間以上が経っていた。

 ようやく辿り着いた砂浜に人気は無い。まあ正直なところ、人目が無いほうが都合もいい。

 そのまま最後の仕事に取り掛かった。持参した切り花を埋めて砂遊び程度の土饅頭を作る。線香には火の気を与えて盛り土に供える。暮れゆく濃紺に向かって深く合掌。

 大昔は盆棚飾りも菰に包んで、こうして浜に埋めていたが環境問題を煩く問い質されるようになってからは、すっかり廃れてしまった。もうこの後片付けを継いだ子供達はほとんどいないだろう。

 朝になれば満ち潮が全部沖へと持っていってくれる。古くからの漁村らしい風習だと最近とりわけ思うようになった。

 誰よりも平穏を好んだ酒呑み仲間の魂は、こうやって流れて巡って海に還る。

「ーーそれではまた。来年、お会いしましょう」

 宵の明星はキラキラと。灰は彼岸へ。心は此岸。

 吸い口だけが残った左手は、いつの間にか藪蚊の餌食になっていた。

『虫刺されにはウオッカを原液で吹き付け……いや。違うな。どちらかと言えば蝮の焼酎漬けか』

「そんなの持ち合わせてませんよ。非科学的ですね」

 ああこれだから田舎は嫌だ。ちゃっかり食われていた耳の裏。とても懐かしい声色が、ふうわり触れて黙って去った。



 終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

鯨と夕顔 越乃八峰 @hanabie2424

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ