第16話 廸(3)ひとりのひとだけ

朝食を終えた9時半ごろに家の電話が鳴った。この頃としては珍しい。めったに固定電話には連絡が入らない。


私が電話に出た。秋谷さんの奥さんの順子さんからだった。秋谷さんのことで夫に替わってほしいと頼まれた。


夫に替わった。彼は電話の意図を察したようで、秋谷さんと昨晩は一緒飲んでいたと答えていた。


順子さんもさすがだ。その証言の裏をとるために、私にも昨夜の夫について聞いてきた。それでご主人のアリバイの確認の電話だと分かった。


夫が合図したので、夫は遅く帰宅して秋谷さんと飲んできたと言っていたと伝えた。主人も私も秋谷家に波風を立てたくはない。


今回のアリバイ工作を手伝ったことで、彼らはこういうアリバイ工作をお互いに口裏を合わせてやりかねないという認識を新たにした。


私は電話をおいて彼をじっとみた。


「ありがとう。話を合わせてくれて。秋谷家の家庭円満のためだ」


「秋谷さんは順子さんに内緒で悪いことでもしているの?」


「順子さんは何て言っていた?」


「昨晩、娘さんが急に熱を出したので早く帰ってきてほしいと電話したそうなの。でも電話がつながらなくて困ったそうよ。それで遅く帰ってきたので、問いただしたら、あなたと居酒屋で飲んでいて、周りがうるさかったので気付かなかったと謝っていたそうよ。以前にもこういうことがあったので、心配になって、今回はご主人には内緒であなたに確かめてみたそうよ」


「秋谷君にも困ったものだな。あんなよい奥さんがいるのに」


「何かしているの?」


「僕と飲んでいたことにしたのは、僕が安全パイだと思っているからだろう。何かあるのかもしれないな」


「何かって?」


「ひょっとして風俗にでも行って遊んでいたのかな?」


「どうしてそう思うの?」


「以前、連れて行ってもらったことがあるから」


「以前っていつ?」


「君と結婚する前、ずいぶん昔のことだ」


「今はどうなの?」


「誘われたことはあるが、僕は行っていない。誓って結婚してからは行っていない。本当だ」


「まあ、私と会う前の時のことだから、しょうがないわね」


私はそれ以上追及することはしなかった。彼はそういうことをする人ではないと信じているし、信じるしかない。


それに彼は秋谷家にわざわざ波風を起こすことはしない友人思いの良い人だと思った。でもひょっとするとあれは暗黙の了解で、お互いに互助制度のようなものの可能性はある。


その証拠に私もアリバイ工作の片棒を担がされた。でも彼は私が秋谷家にわざわざ波風を起こすようなことは絶対にしないと信じてくれている。その信頼に従ったまでだった。


◆ ◆ ◆

あれから1か月ほどしてほとぼりが冷めたころ、主人が秋谷さんを飲みに誘った。今度は秋谷さんに自分と飲むことを順子さんに話しておくように言っておいたそうだ。


もちろん、私にもこの飲み会のことを話してくれた。飲む場所はもちろんアリバイ工作に使ったいつものうるさい居酒屋だという。


彼が家へ帰ってきたのは9時を少し過ぎていた。私はリビングでテレビのニュースを見ていた。恵理は自分の部屋で勉強をしている。


「どうだった。話ははずんだ?」


「秋谷君にも困ったものだ。やはり浮気していた。正直に話してくれた。順子さんには絶対に話さないと約束するなら教えてあげる」


「私もあなたの片棒を担いだのだから聞かせてもらえないかしら。秋谷さんの家庭に波風を立てようとは思っていないから」


「君の意見も聞いてみたいから、話そうか」


秋谷さんから聞いたことを話してくれた。既婚者合コンでKさんと知り合ったこと、アリバイ作りのあの日は前々日にKさんから夫が出張中とのことで誘いがあったこと、それから「お互いの家庭は壊したくなくて、ただ会って慰め癒し合うだけで、そして絶対に分からないようにしたい」と約束したこと、秋谷さんが「男って一人の女性だけと一生を共にしなければいけないのか?」と言っていたことなどを聞かせてくれた。


「それで二人は関係を続けるの?」


「僕は1回限りにしておいたらと言ってみたが、続けるつもりのようだった」


「順子さんに悪いとは思わないのかしら?」


「家庭は大切にしたいと秋谷君ははっきり言っていた。絶対に分からないようにしたい、分からなければなかったのと同じとまで言っていた」


「詭弁だわ。分からなくてもあったことに変わりはないもの」


「そうだね」


「秋谷さん夫妻の間柄は私たちとは違っているような気がするわ」


「秋谷夫妻は確か合コンで知り合った恋愛結婚で同い年だ。僕たちは職場結婚に近い。年の差は4歳ある」


「秋谷さんご夫妻とはお互いに自宅に招待したことがあるけど、私たちとはどこか少し違う、そう感じた。どこがどう違うとははっきり言えないけど」


「僕から見ると秋谷夫妻は同じような考えを持った同志に見える。それに秋谷君は僕より男女の関係をもっとドライに考えているように思う」


「私は順子さんにもそんな感じがした。二人にはべたべたしたところがなくて少し醒めていてサバサバした感じがしていました。私たちはもっとべたべたしていたと思う」


「べたべた? ラブラブの方が良くない?」


「そうラブラブ」


「秋谷さんは順子さんにないものをKさんに求めているのかしら? 私は順子さんもKさんも同じタイプの人のように感じるけど、どう思う?」


「Kさんと会ったことがないから分からないけど、同じタイプだと思うのか? でも話をして慰め癒し合うことができると言っていた。どこか順子さんとは違っているのだと思う」


「私には理解できないわ。そういえば以前、私もその既婚者合コンらしい集まりの誘いを受けたことがあるの」


「ええっ、本当か? それで」


「興味がないから断った。だって、私はあなたと話していれば十分だから、ほかの人とお話する必要がある? あなたとは何でも話せるし、何でも話してくれるから、男の人はあなた一人で十分です」


「そうか、僕ひとりで十分か、安心した」


「私が浮気するとでも思ったの?」


「いや、君は絶対にしないと思う」


「絶対はないかも」


「ええっ、そうなの?」


「冗談です。お風呂に入りますか? 私もまだなので一緒に入りましょうか、背中を流してあげます」


「どうしたの?」


「ちょっとサービスしておかないと秋谷さんのように浮気でもされると困るから」


「そんなことは絶対ないけど、秋谷君のためにちょっともうかったかな」


私は勉強部屋の恵理を見にいった。彼には先に入ってバスタブに浸かっていた。私は二人でお風呂に入るからと恵理に断ってきたと言って入った。彼はしばらく私と話していたのでもう酔いはほとんど醒めていた。


私はタオルに石鹸を付けて彼の背中を洗ってあげた。久しぶりに背中を流してあげたけど気持ち良さそうにしている。この後は彼が私を洗ってくれる。


今までタオルかスポンジに石鹸をつけて洗ってもらったことはあった。でも今日は手に直接石鹸を付けてその手を身体に擦りつけて洗ってくれた。


いつもと違った洗い方なので一瞬くすぐったいと身体をすくめたが、気持ちよかったので、素直になすがままにしたがった。


まずは背中からお尻へゆっくりと洗ってくれる。お尻の溝に指を這わしてゆっくり洗うと私は思わず腰を浮かせた。


今度は立たせてこちらを向かせる。そして両手で首から胸、乳房、乳首、お腹、おへそ、大事な割れ目をゆっくり洗ってくれる。私は気持ちがよいのと恥ずかしいのとで目をつむっている。


それでもかまわずに洗ってくれたが、私はあまりの快感で我慢できなくなって、そこへしゃがみ込んでしまった。その時、おしっこも漏らしてしまった。彼は気が付いたかしら? 恥ずかしい。


「大丈夫? もうやめようか?」


「ごめんなさい。気持ちよくて、気が遠くなっただけ、続けてください」


ゆっくり立ち上がったが、足元がおぼつかない。


「座ったままでいいから」


私は足を伸ばして洗い場に腰を下ろした。その両足を両手でゆっくりマッサージをするように洗ってくれる。足の指の間も丁寧に洗ってくれる。


「だめ、そこは」


「洗った方がいいよ」


私は思わず足を引っ込めた。彼はここまでと思ってシャワーで身体の石鹸を洗い流す。私は座ったまま動かない、いや動けなかった。


「バスタブに一緒に浸かろう」


私の腕を持って立たせてバスタブへと導いてくれた。私はゆっくり身体を沈めた。その後ろに彼が入った。お湯が溢れて大きな音がした。私が身体を預けるので両手を回してゆるく抱いてくれた。後ろから身体をゆっくり撫でてくれる。


「気持ちいい、ありがとう、うっとりしたわ、幸せってこういうことなのかしら、このまま眠ってしまいたい」


「ここで眠ったらだめだよ。それじゃもう上がって休もう」


私を促して立たせて浴室を出た。バスタオルで身体を拭いてくれる。いつもなら私も彼の身体を拭いてあげるのだが、今日はボッーとしてただ立っているだけだった。いままでこんなことはなかった。初めてだった。


彼はバスタオルをまとった私を抱きかかえながら寝室へ向かう。私を布団に座らせるとすぐにポカリのボトルを冷蔵庫から持ってきて、1本封を切って渡してくれた。私は一息で半分ほど飲んだ。


「おいしい、ありがとう。眠りたい」


そう言うと彼に寄りかかった。横にして寝かせてくれたが、その後のことは覚えていない。疲れていたのだと思う。すぐに眠ってしまった。


◆ ◆ ◆

明け方、私は目が覚めた。寝落ちしたのに気が付いて、彼に抱きついて愛してほしいとせがんだ。彼は私が抱きついてきたので目が覚めて、寝落ちした私が求めているのが分かったからか、すぐに応えてくれた。


私は半分目覚めていて半分眠ったままだったが、何度も昇り詰めていた。そのあと、私は彼の腕の中でまた静かに眠りに落ちていった。


◆ ◆ ◆

目が覚めたら、雨が降っていた。暗かったので目が覚めるのが遅かった。もう8時を過ぎていた。共働きだから土曜日は朝寝することになっている。恵理もそのことは分かっていて声をかけるまで起きて来ない。


私は後ろから抱きかかえられて横たわっていたが、もう目覚めていた。彼が目覚めたのに気づいて振り向いて唐突に聞いてみた。


「ねえ、風俗に行っているでしょう」


「いや、この前も言ったとおり、結婚してからは絶対に行っていないから」


「なんでそういうことをまたわざわざ確認するんだ?」


「最近、少し変わったから、愛し方が」


「いろいろ工夫しているんだ、廸のために」


「浮気はしていないわよね」


「君を悦ばせようと考えて工夫しているだけなのに、浮気をしているから愛し方が変わったというのか? 僕にとってあり得ないことだ。君と付き合いだしたときのこと覚えているだろう。恋愛には全く不向きだったことを」


「ごめんなさい。私を今も愛してくれていることはよく分かっています。昨晩のことや今朝のことも。とても幸せです」


彼は抱いている腕に力を入れて私のその言葉に応えた。


「あなたには浮気はできないと思っていますが、もししたとしても私には絶対に分からないようにするだろうと思います。そういう性格だとよく分かっています」


図星だった? 私の言葉が真を捉えていたのか、一瞬彼は言葉に詰まったように感じた。


「もし、幸運にも浮気できたら、そうすることにしよう」


「幸運ってなに? 浮気はする気があってするものでしょう。する気があるの? 分からなければ浮気をして良いといったわけでは決してありませんから、念のため」


「分かっている。絶対にそれはないから安心して」


もう、彼は言葉の遊びにしようと必死になっていた。

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