不透明カシカは透明人間
明日朝
第1話 見えない彼女
彼女は大人気とまではいかないが、それなりに名前が知られている歌手だ。耳に心地良い、透き通ったような歌声。公表していない性別と年齢。その上、顔を一切出さないという謎多き歌手。
俺……
「今日はとても良い天気のようね、ミノル。あなたの緩みきったにやけ顔が、窓から差しこむ光ではっきり見えるわ。おまけに遅刻ぎりぎりまで眠っていたみたいね、ひどい寝癖よ。寝起きのポメラニアンみたい」
事務所に出向く否や飛んできた、辛らつかつ馬鹿にしたような声色。俺は声の主を探すよう周囲を見渡すものの、すぐに諦めた。
相手は神出鬼没……いや、たとえすぐ隣にいたとしても絶対に見つけることはできない。
「……カシカ、これでも俺は夜遅くまで残業して終電に乗り損ねて、漫画喫茶で五時間半眠って大急ぎで出社したという経緯がある。少しは労いの声くらいかけてくれたっていいと思うんだが」
「ええ、大変だったようね。でも私は、貴方の事情なんて聞いていないのだけど」
冷ややかな声だった。彼女の口調は普段からとても淡々としていて、感情というものがあまり込められていない。ミュージックビデオで聞いたあの美声とはまるで別人だ。
「……俺の負けだ、カシカ。仕事の話をしよう。今日はアルバムに収録する予定のレコーディング作業があってだな」
俺はどこにいるかも分からないカシカの姿を探した。
ここは歌手を主軸とした、こぢんまりとした芸能事務所。いかにもつい最近立ち上げたばかりというような、だだっ広いワンフロアが俺の仕事場である。
「私はここにいるわよ、ミノル」
声は、すぐ目の前から聞こえてきた。
「ここって……どこだよ」
「すぐ目の前」
俺は声を頼りにカシカを探す。しかし彼女の姿どころか影も見つけられない。それもそのはずである。
彼女は姿も影もない、透明人間だから。
「……カシカ、あまり近付かないでくれ」
「どうして? 昔は絶対はぐれないようにって、いつも手を繋いでいたじゃない」
囁くように言い、カシカが俺の腕に触れる。温かい手だ。
俺は深いため息を吐いて言い返す。
「子供の頃の話だろ。昔は良き友人だったけど、今はマネージャーと歌手」
「それはそうだけど、たまには二人きりでデートくらいしたいわ」
「事務所的に無理だ」
「どうせ、誰も見つけられやしないわよ」
カシカがふっと笑った――ような気がした。
俺はカシカの体温を感じながら、疲れたように眉間を抑える。
……と、そんな俺たちの間に割って入るように、呆れたような声が飛んできた。
「お二人さん、駄弁っているヒマがあったら、こっちを手伝ってくれないかい」
書類の整理に勤しむ同僚が、ひらひらと手を振る。
「そういうことだ、カシカ。また後でな」
「ケチ」
カシカは姿こそ見えないが、なんだか不機嫌そうだ。
俺は彼女の手を丁寧にどけて、いそいそと同僚の手伝いに向かった。
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