第44話 密やかなバレンタイン


 衝撃の事件から時は流れ、季節は厳しい寒さが続く二月に入っていた。




 学園が休日の今日。私は朝早くからレグルスに乗せてもらい、本邸の厨房にこもっている。料理長のトウマさんに洋菓子作りを習っているのだ。トウマさんはすっかり和菓子と和食の達人になっているが、元からこの国に存在する洋菓子も勿論作れる。


 対して私は元々料理関係が苦手だった。和菓子作りも検索本を使いながら、トウマさんを物凄く頼りにしていたのである。そんな私が突然お菓子作りの伝授を希望した為、彼は目玉が飛び出さんばかりの表情をしていた。しかも洋菓子。


 実は私も驚いている。しかし今は必要な時だ。これが終わったらまた、作らなくなるのは目に見えているが。


 作っているのはチョコレートケーキで、スタンダードなショートケーキタイプ。二月に入ってチョコレートとくれば、現代日本に暮らす人ならピンとくるはず。


 そう、来たるバレンタインデーの為に練習に励んでいる。


 ただ、シルフィード王国にバレンタインデーは存在しない。あっても良さそうなのに。だからこれは、私の完全な自己満足だ。それでも構わない。


 私はヘリオスくんに、心を伝えたいと思った。



「泡立てるって大変ですね…」


 スポンジ作りに欠かせない泡立て作業に苦労し、ついそんな言葉が漏れる。


「ここはとても大事な過程です。頑張りどころですよ」

「ハイ」


 やや小柄で若く見られるトウマさんの応援を受け、私は黙々と泡立てを続ける。



 前世でお菓子作りのレシピに必ずと言っていいほどミキサーが登場する理由が、これでもかとよく分かった。



 二月十四日は、運良く学園が休みの日だった。

 事前にヘリオスくんに予定を尋ねたところ、昼過ぎなら空いているとのこと。おやつにピッタリの時間だ。神様、ありがとう。


 そんな訳でバレンタインデー当日。

 ヘリオスくんがシーリオ家の別邸にやって来た。


 厨房を借り、メモを片手に一人で一生懸命作ったチョコレートケーキ。スポンジにチョコクリームを挟んだ、丸型のデコレーションケーキだ。デコレーションと言ってもフルーツは使わず、シンプルにチョコクリームだけで盛っている。


「私が作ったチョコレートケーキです」


 給仕も自ら行う。一人分に切り分けたケーキの載るお皿を、ヘリオスくんの前に置いた。本当はホールの状態で見せたかったが、味見しなければならなかったのでそこは諦めている。


(うう、緊張する…)


 味は悪くなかったと思う。自分で判断するのは非常に困難だったけど、他の人に先に食べさせるのは気が引けたので味見は誰にも頼まなかった。

 見た目もなかなかよくできている。はず。プロの作る美麗なスイーツを見慣れているヘリオスくんに、どう映るかは不明だが。


 ああ、胃が痛い。

 何せこうして、恋人にチョコを渡すことなんて初めてなのだから。


「美味しそうだね。食べていい?」

「あっはい、どうぞ。召し上がってください」

「イチノは食べないの?」

「私はさっき味見したので」

「そっか」


 ヘリオスくんは納得したようで、フォークを手に取った。綺麗な手が上品な仕草でケーキを一口、口に運んでいく。そして咀嚼する彼の瞳は少し見開かれた後、柔らかく細められる。


「美味しい。ありがとう、イチノ」


 私に目を合わせてそう言ったヘリオスくんは、とても幸せそうに微笑んだ。


 ああ、好きだ。大好き。


 彼が喜んでくれることが、こんなにも嬉しい。

 そして私の好意を嬉しいと感じてくれていることが伝わってきて、思わず目が潤みそうになる。


「ヘリオスくん。私、ヘリオスくんが好きです。ずっとそばにいてください」


 自然と口を吐いた言葉は、溢れ出た偽りない心だった。驚くヘリオスくんに照れ隠しで笑ってみせると、彼もまた笑みを返してくれる。


「勿論。俺もイチノが大好きだよ」


 そう答えてくれるヘリオスくんは、いつも通り優しい。


 私はほっとして、再びケーキを薦めた。




「これってまだ残ってる?」

「味見したのは少しだけなので、ほぼ一台分ありますよ」

「おかわりしていい? それから今食べ切れない分は持って帰りたいんだけど」

「構いませんけど、無理しないでくださいね」

「美味しいから全然平気」

「ありがとうございます(胃薬を添えておこう)」


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