第35話・エバと乳母

 よっぽど気が張っていたのだろう、森から逃れて来たという薬魔女は、お抱え料理人が用意した消化に良いスープなどを食べ終えると、客室のベッドの上で布団に包まりながらポロポロと涙を零していた。


 貧血も相まって芯から冷え切った身体が、温かい料理で奥からじんわりと体温を取り戻していく。暗い森の中を生まれたばかりの赤子を抱き締めながら、感覚だけを頼りに走り抜けた記憶は、瞼を閉じれば常に鮮明に蘇ってくる。立ち止まれば夫に見つかる、もし連れ戻されてしまえば、子供がどうなるか分からない。途中で遭遇した魔獣を、必死で攻撃しながら逃げ続けた。夫の狩りに付いて行った経験が、こんなところで生かされるとは思いもしなかった。


「スープのお代わりはいかがですか?」


 給仕についてくれている侍女の問いかけには、フルフルと首を横に振って答える。十分に温まったはずの身体が、気が付けばまた小刻みに震え始めていた。冷えが戻ったのか、それとも怖い思いで打ち震えているのかは、エバ自身にも分からない。


「では、ミルクを温めたものをお持ちしますね。その間にでも、こちらのお薬を」


 ベッド脇のテーブルへ小さな薬瓶を置くと、侍女はミルクを取りに部屋を出ていく。一人残されたエバは、ふぅと息を付いて心を落ち着けると、言われた通りに薬の小瓶へ手を伸ばす。

 流れるように溢れ続ける涙はまだ止まらないが、初めての出産を終えたばかりの自分には何をどうすれば良いのかの判断が付かない。


「あ、赤ちゃん……?」


 味は無いが少し臭味のある薬を一気に飲み干して、小瓶をテーブルへ戻した時、遠くから赤子の泣き声が聞こえてきた。すぐに我が子かと思ったが、生まれたばかりの娘、ユリアはまだこんなに大きな声では泣けなかった気がする。


「それより、ユリアはどこにいるの……?」


 ベッドから下り、足元に揃えられていた靴を履き直すと、重い身体を引きずるようにして廊下へ出てみる。どうやら泣き声はエバがいた客室の隣の部屋から漏れ聞こえているようだった。

 なぜか拳一つ分だけ開いたままにされている扉から覗くと、ブロンドの髪を一つに束ねた女が赤子を一人抱いたまま、二台並ぶベビーベッドの間で子守唄を歌っていた。その優しい歌声と慣れた手付きで背を撫でる仕草に、泣きぐずっていた子の声は徐々に小さくなり、しばらく後には寝息へと変わっていった。


 眠ってしまった子を大人用のベッドへ寝かしつけた乳母は、寝返りして落ちないようにと、その周りにクッションや枕で壁を拵えている。赤子が増えたことでベッドが足りなくなったので、ひとまずは自分用のベッドで対処しているようだ。


「あら、この子の母親?」


 寝かしつけた赤子の前髪を撫でてから振り向いたメリッサは、扉の向こうから覗いているエバに気付いたようだ。穏やかに声を掛け、黙って片手を振って中へと招く。


「たくさん飲んだ後だから、しばらくは起きないと思うわ。とても可愛いお嬢さんね」


 乳母に招き入れられ、ベビーベッドで眠る我が子と再会したエバ。柔らかな肌着を着せられ、暖かそうな毛布に包まっている娘の顔を見て、再び涙が零れ落ちる。森の中では満足に授乳もしてあげられなかったせいで、ずっと泣きっぱなしだった娘が穏やかな寝顔を見せてくれている。


「私、こんなに涙脆くは無かったんですが、ホッとして……」


 メリッサに促されてソファーへ座り込むと、エバは嗚咽を漏らした。隣に腰掛けたメリッサはその様子を黙って頷きながら、まだ若い母親の背をそっと撫でる。


「しばらくの間は、私がお嬢さんのお世話をさせてもらうことになってるから、安心して療養なさいな。ここに居れば大丈夫よ」


 事情は何も聞いてはいないが、マリスがあえてここに連れて来たということは何か訳があるのだろうとは察していた。しかるべき所へ連れて行かず、屋敷へ連れ帰って来た理由――それは、乳母の立場では知る由もないが。


「子育てで不安なことがあれば、何でも聞いて頂戴。こう見えて四児の母なのよ、私」


 エバに向かって微笑むと、メリッサは胸を張ってみせる。難しい市政のことは分からないけれど、子供のことなら任せて、と。


 調理場からミルクを運んで来た侍女が、客室へ向かう手前で、子供部屋から話し声がするのに気付いて、部屋の扉を叩いてから顔を覗かせた。立ち上がって代わりにミルクを受け取ったメリッサは、湯気の立つカップをエバの前に差し出す。


「子供の為にも栄養のある物をたくさん口にしないとね。私はここに来てから、随分と丸くなってしまったけれど」


 二人に乳を与えているのにどうしてと、いつも侍女達に揶揄われていると笑って話す。だから、もう一人増えて丁度良かったわ、と。

 メリッサ達の話し声で起きたのか、マローネのベッドから三毛猫が様子を伺うように顔を覗かせた。そして、音も立てずに飛び下りると、まるで挨拶するかのようにエバの足元に擦り寄って「みー」と鳴いて見せる。


「ああ、このお屋敷、いろいろ居るけど気にしない方がいいわ」


 鮮やかな三色の毛を持つ獣を、エバは目を丸くして見ていた。すでに馬車で真っ白の魔鳥と対面したが、まだ他にもいるのか、と。

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