第9話・マリスとエッタ

 屋敷の一階ホールに置かれた六人掛けソファーは、黒猫のお気に入りの昼寝場所だ。暑い季節にはひんやりとした革の冷たさが心地よく、寒い時期に上に掛けられる布カバーはふんわりと温かい。

 屋敷内を思うがままに巡回し終えて戻ると、エッタはソファーの上で念入りに毛繕いを始める。マリスが出掛ける時には一緒に付いて出ることもあるが、今日のように屋敷で大人しく待つことも珍しくはない。出掛けるか出掛けないかはいつも黒猫の気分次第だ。


 後ろ足を器用に上げて腹毛の手入れを行っていたが、エッタはピタリとその動きを止めた。玄関扉の方にじっと視線を送ると、耳をピクピクと動かす。

 すぐに屋敷の門が開いて、馬の蹄と車輪の音が玄関扉の向こうで停まった気配がした。慌てて迎えに駆け出て行くリンダの姿を横目で見送ると、まるで初めから興味がなかったかのように毛繕いを再開する。


「ただいま、エッタ」

「みゃーん」


 猫の隣に腰掛けると、マリスはその黒色の猫毛を毛流れに沿って撫でる。手入れされた黒毛は艶やかでよく滑り、そして優しい温かみを帯びている。撫でる掌にはエッタが喉をゴロゴロ鳴らしている振動が伝わってきた。


 もっと撫でろと小さな丸い頭をマリスの手に擦り寄せながら、エッタは甘えるようにその膝の上に登った。その拍子にぴんと伸ばされた長い尻尾が頬をくすぐり、マリスはふふっと鼻で笑う。


「慰めてくれてるの? もう大丈夫よ」


 マリスに元気が無いことくらい、黒猫にはお見通しだ。生まれた瞬間からずっと傍にいたのだ、互いの心の内くらい聞かなくても分かる。膝の上にちょこんと両手を揃えて座って、黒猫はマリスの顔を心配そうに見上げていた。


「お顔にお疲れが出てらっしゃいますわ」

「そうかしら……?」


 リンダが淹れたてのお茶をソファーテーブルに置きながら声を掛ける。マリスは左手で自分の頬を確かめるように触れてみたが、あまり自覚はないようだ。


「少しばかり、魔力を使い過ぎたかもしれないわね。魔石もかなり古くなっていたし」


 人によっては二度に分けて行うような量の魔力補充を一度で終わらせてきたのだ、疲れていて当然。定期的に補充している割に随分と消費量が増えていたように感じたのは、石が劣化しかけているせいだろうか。見た目は変わらずとも、やはりそろそろ交換の時期に来ているのか。


 湯気の立つティーカップを手に取ると、指先からその温かさをじんわりと感じる。カップを両手で包み込むように持つと、ふぅっと息を吹きかけてから口を付ける。ほんのりと甘い香りのフルーツティは、最近に新しく街に出来た茶葉専門店の物らしい。


「とっても美味しいわ……」

「評判を聞いて買いに行かせたんですが、マリス様がお気に召されると思いましたの」


 食材や物品の買い付けは領主家御用達の商会を通して行うのが常だ。ここ別邸でも同じなのだが、古き良き品揃えの老舗商会ではマリスを含めた若い世代には物足りないことも多い。だからマリスは街へ出ることがあれば、使用人達への土産を理由に直接に店を覗いて好きな物を買ってきたりすることがあった。また、使用人達も気になる物があれば、自由度の低いマリスの為にと流行りの品を仕入れて来てくれる。


 カップ半分を一気に飲み干すと、マリスは耳を澄ませた。二階から聞こえる赤子の鳴き声は、乳母の息子の方だろうか。日増しに声が大きくなっている気がするのは、成長の証だろう。


「マローネ様も随分と大きくなられましたね」

「そうね、覗きに行く度に顔が変わっているように思えるくらいだわ」


 メリッサに任せきりで、同じ屋敷に住んでいるはずなのにたまに泣き声を耳にする程度。勿論、常にマローネの魔力は感じているし、また暴発するようなことがあればすぐに気付く。今のところは落ち着いているようで、大泣きすることはあっても癇癪まではいかない。元々、おっとりした性格の子なのかもしれない。


「マローネ様もですが、子猫の成長の早さに皆、驚いておりますわ」

「シエルの?」

「ええ。つい先日まで這いずるようだったのに、今はしっかり歩くようになっておりますから」


 みーみーという鳴き声も力強くなってと、リンダは皺の深くなった目尻を下げる。確かに猫は人の子よりも成長は早い。まだ寝返りもしないマローネに比べると、よく動き回るようになった三毛猫は見ていて飽きないのだろう。


 リンダの話を聞いていると、無性に赤子達の様子を見に行きたくなる。マリスは飲みかけていたカップをテーブルに戻すと、膝の上で丸くなっていた黒猫を隣へと移動させてから立ち上がる。

 眠っていたはずのエッタは、不思議そうに魔女の顔を覗き込み、彼女が何をしようとしているのかを感じ取ったらしく、静かにソファーから飛び降りた。


「あら。エッタも行く?」

「みゃーん」


 するりとマリスの足元に擦ってから、付いておいでとばかりに前を歩いていく。軽快な足取りで螺旋状の階段を上がると、拳一つ分開いたままの扉の隙から中へと入り込んだ。

 後に続いて、形ばかりに扉を二度叩いてから入室したマリスに、乳母が頭を下げて出迎える。赤子を抱いて身体を揺らしているところを見ると、寝かしつけの最中だったのだろうか。


「どう、不便はない?」


 小声でメリッサに問いかけると、柔らかな笑顔で首を横に振り返される。腕に抱いているのは栗色の髪のマローネだ。うつらうつらと目を閉じ掛けている。ギルバートの方は先に眠って、ベビーベッドの中で小さな寝息を立てていた。

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