第4話・乳母メリッサ

 翌朝、通いの使用人達が調理場で慌ただしく朝食の準備をし始める時刻。隣のルイス家の長女ミリーが屋敷の裏口の戸を叩いた。少女を勝手口まで案内してきた門番が、中から顔を出した料理人と目が合うと片手を挙げて挨拶してから本来の持ち場へと戻っていく。


「おはようございます。赤ちゃんの朝ご飯です。母と弟は昼過ぎに伺わせていただきます」


 家で何度も練習してから来たのだろう、顔を強張らせながら台詞を丁寧に言い終えると、少女はペコリと頭を下げた。余所行きの服を着せて貰ったミリーの両手で大事そうに抱えられた瓶には、今朝に搾乳されたばかりのまだ温かみの残る母乳が入っている。


「まあ、ご苦労さま。重かったでしょう?」


 受け取った料理人の女は、己の子の授乳もした上でこの量が絞れるのかと感心していた。今晩からは乳母の乳の出が良くなる献立も別に用意するつもりでいたが、余計な心配だったようだ。


 朝の内には領主家お抱えの商会より、赤子に必要な物品が次々と運び込まれて来ていた。二階の客室の一部屋が赤子と乳母達へとあてがわれ、メリッサが使う寝台の横には真新しいベビーベッドが二台並んで設置される。


「この子の名前はいかがなさいますか?」


 クローゼットを開けて、小さなハンガーに掛けられた赤子用の肌着やドレスを興味津々で眺めていたマリスへ、肘掛け椅子に腰を下ろして哺乳瓶で乳を飲ませていた侍女長が問う。ここで育てるにしても、まずは名が無いことには不便だし、国への魔術師登録でも必要となってくる。いつまでも赤子赤子と呼び続ける訳にはいかない。


 「そうねぇ」と首を傾げた辺境の魔女は、ベビーベッドの上で世話好きな黒猫に毛繕いされて、気持ちよさそうに喉を鳴らしている子猫にも視線をやった。赤子だけでなく、子猫の方にも名前が必要で、一度に一人と一匹の名付け親にならなくてはならないのだ。責任重大だわと困ったように呟くが、その細められた瞳はとても楽しそうに見える。


「昨日からずっと考えていたんだけど、その子の名前はすぐ思いついたのよ。マローネ、なんてどうかしら?」

「マローネ、ですか。可愛らしいお名前ですわね」


 空になった哺乳瓶をサイドテーブルに置くと、栗色の髪の女児を縦に抱き直して、リンダがその背を優しく撫でる。新しい肌着は柔らかい手触りで、新生児の肌にも優しそうだ。ほどなくして、ゲフという小さなゲップ音がマローネの口から漏れ出た。


「猫の方はそうね……シエル、とか?」

「あら、良いじゃないですか」


 少し自信なさげだったマリスも、リンダの反応にホッとしたようだ。この子達がこれから一生使い続ける名なのだが、たった一晩で考えたにしては上出来だろう。


 名前が決まったからには、用意しなければいけない書類が山積みだと、マリスは自室へ急ぎ足で戻っていく。魔力持ちの誕生が疎ましがられる理由の一つに、この提出書類の多さもある。専任の者や代筆する者でもいない限り、魔術教育計画書などは手間でしかない。――マローネの場合はマリス自身が教えるつもりだし、自分の時の控えを本邸から持ち帰ってきているから、全く問題ない。ただ丸写しすればいいだけだ。


 昼を少しばかり過ぎた頃、大荷物を抱えたルイス婦人が長男のギルバートを背負って屋敷の門を潜り抜けてきた。両目を真っ赤に腫らしているところを見ると、娘達との別れを惜しんでいた様子が十分に伺いしれる。


「お隣なんだから、忘れ物があればいつでも取りに帰ればいいわ」

「お気遣いをありがとうございます……」


 マローネの世話に支障が出ない程度なら、いつでも帰宅を許すというマリスの言葉にメリッサは深く頭を下げて感謝する。住み込みの奉公先から自由に自宅へ行き来できるなんて、普通ではありえないことだ。


 そして、用意された部屋を見回し、専用の浴室や手洗いまで備わっていることに驚く。さらに己の息子用にと設置されたベビーベッドには完全に恐縮していた。家では何もかもがお下がりだったギルバートにとって、真新しい布団は生まれて初めての経験だ。


「息子にまで、立派な物を用意していただきまして――」

「彼はマローネにとって、乳兄弟となるのだから当然のことよ。同じように育ててくれることを願うわ」


 分からないことはリンダに聞いてくれればいいわ、と部屋を出ようとして、マリスは大切なことを伝えてなかったと振り返った。


「子猫の世話を焼きに、エッタが出入りすることがあるから、入口扉は少し開けるようにしていてね」

「え?」


 「その子、私と同じ猫付きなの」言いながら扉を開いてみせると、黒猫のエッタが長い尻尾を伸ばしながら部屋の中に入り込んできた。トトトと軽快に歩いてくると、マローネとシエルが眠っているベッドの上にぴょんと飛び乗る。

 そっと中を覗き込んだメリッサは、黒猫から毛を舐められている小さな三色の猫の存在にこの時初めて気付いたようだった。


「まあ、何て小さいのかしら……」


 エッタのことはたまに屋敷の塀の上を歩いているのを見かけたことはあったが、生まれたばかりの猫を見たのは初めてだ。いや、猫自体もエッタ以外は見たことがない。この大陸中を探しても、そうそう猫を見れることはないだろうが、なぜかここには二匹もいた。

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