最後の夏祭り
夏蜜
前半
今夜は町内で夏祭りが行われる日でありました。私は母に着付けをしてもらい、浴衣を着て妹と会場へ出かけるところでした。
浴衣は母のお古ですが、この日初めて袖を通した十六歳の躰に不思議と馴染むものでした。私は気分が高揚し、軽く身を踊らせました。
「もうお姉ちゃんったら、早く来ないと遅れるわ」
妹が玄関先で私を呼ぶ声が聞こえます。妹の桜子は器用で自ら着付けができるので、疾うに準備も終わり、私を待ち兼ねているようでした。浴衣の感触を楽しんでいた私は、駆け足で居間を出て妹に謝りました。
「ごめんなさいね、つい嬉しくなっちゃって」
「どうせ鏡の前に立っても何も見えやしないのに、お母さんもお姉ちゃんに手を掛けすぎだわ」
妹の言葉に少しばかり傷つきましたが、本当のことなので私は言い返しませんでした。下駄はここよ、と桜子が私の手を取って場所を示します。私は腰を下ろして、鼻緒に足の指を滑りこませました。
そこへ二階から母がやって来て、金銭を私たちに預けるのでした。妹は上機嫌で受け取ったようでしたが、私は気後れして貰うことを躊躇いました。
「……別にいいのに」
「いいから、持っていきなさい」
「普通の人と同じようになんて、楽しめないわ」
「そんなことないわよ、ほら」
母は私の手を掴み、半ば強引に紙幣を握らせました。私はお礼を言って、立ち上がります。母には嘘はつけません。
「まあ二人とも、とっても綺麗よ。都会の女優さんみたいね」
「大袈裟よ。だけど、お祭り会場の中じゃ、男の人の目を惹く自信があるわ」
桜子はまだ十四歳だというのに、男性からの誘いが後を絶たない少女でありました。妹も無下に断ろうとせず、その点では私よりもずっと大人びているのでした。
いってきます、と母に一声掛けて、私たちは町外れにある神社の境内へ向かいました。私は桜子の腕を支えに隣を歩きます。妹からは金木犀の香りが漂い、練り香水を耳朶の裏に塗ってあるのだと、すぐにわかりました。
突然桜子が私を振り払い、駆け出してゆきました。私は途端に場所を把握できなくなり、その場にしゃがみこみました。前方から、妹の嬉しそうな声が聞こえてきます。どうやら、さほど遠くへは行っていないようでした。
「尊さん、どうしてこんな処に? ご実家に帰省してらっしゃるの?」
桜子が高らかに口に出した名前は、私の胸をどきりとさせました。尊さんは現町長の男孫で、市内の高等学校に通う学生です。普段は寮で過ごしており、今は学校が夏期休暇ということもあって、地元に帰ってきたのでしょう。
桜子は尊さんと一言二言会話をして、また私の許に戻ってきました。ですが、妹だとばかり思っていた私の肩に触れたのは、大きくて温かみのある手だったのです。
「 大丈夫? 撫子さん、しゃがんでたら危ないよ」
尊さんはそう言って、私の躰を支えます。久しぶりに間近で聞く彼の声は重低音が心地好く、直に心に触れるものでした。下駄の音が近づいてきて、それが妹であると今度はわかりました。練り香水の匂いが鼻につきます。
「お姉ちゃんと一緒に、お祭りに行くのよ」
「ああ、そういえば今日だったね。……とっても綺麗だ」
「綺麗? ありがとう。お姉ちゃんのは地味な色合いの縞模様だけど、私は自分の名前にちなんで桜の花弁にしたのよ。どう、可愛い?」
妹がくるくるとその場で回っている姿が目に浮かびました。尊さんが「似合ってるよ」と返すと、妹は私を突き放して間に入りこみました。
「尊さん、お散歩してたなら、お時間あるでしょう? よかったら
尊さんは微かに笑い声をこぼして、「そうだね」と端にいる私の手を取ります。また胸が高鳴ってしまった私は、握られた指先が熱くなるのでした。妹は肘を使って止めるように促してきましたが、尊さんが私を放さないので諦めたようでした。
「ああ、もう……。尊さん、お姉ちゃんが邪魔でしょうけど、お願いしますね」
妹の足音が遠のいてゆきます。私はいけないような気持ちになりましたが、尊さんが「行こう」と手を引いてくれたので、私も歩調を合わせて歩きだしました。
尊さんの父と私の父は、中学校の野球部で先輩と後輩の関係でした。それなので、大人になってからもしばしば交流があり、父が不慮の事故で亡くなった後も、度々母の許を訪れるのでした。
そんな関係ですので、私や妹と尊さんは幼馴染みでありました。尊さんはよく兄の透さんの野球試合に赴き、時たま私たち姉妹を連れていってくれました。
尊さんは興奮した口調で、透さんが現在どういう状況かを事細かに話してきます。今どこに打った、走った、投げた、と私はそれを聞くのが本当に楽しみでした。尊さん自身も病気がちで運動ができない躰でしたから、透さんの活躍がひとつの喜びだったのでしょう。
ですが、桜子には退屈なようで、帰りはいつも試合とは関係のない話を尊さんに振るのでした。それでも尊さんは文句を言うこともなく、妹の一方的な話に耳を傾けていました。
二十分は歩いたでしょうか。人声が段々数を増すとともに、祭囃子が周辺に溢れるようになりました。とても賑やかな雰囲気で、私は尊さんに支えられながら、いつになくわくわくしてしまいました。思わず手に力が入ります。すると、尊さんはキュッと掌を握り返してくれるのでした。
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