野球道

 とある霧深い山村に七福神が住んでいた。庶民の信仰としてよく知られるままの格好をしていた。皆揃いも揃って福耳で、絶えずにこにこしている。世俗的な願望が反映された牧歌的な世界にいた。恵比寿えびす天と大黒だいこく天は池に小舟を浮かべてを刈っていて、布袋尊ほていそんが大きな袋を引きずってそれに身を預け日向ぼっこをすれば、肩や頭にすずめが止まるのである。


 そんな彼らの下に、たまに客人がやってくることがあった。類は友を呼ぶ、ということなのか、その日、中華の者と思われる七賢人が、どこかの竹林からバスを乗り継いでやってきた。

 恵比寿天はさっそく湯をわかし茶を淹れもてなした。また毎日刈っている藻に、山で採れた松茸も加えた鍋を用意し、皆で囲んで世間話をした。

 七賢人というのは、阮籍げんせき嵆康けいこう山濤さんとう向秀しょうしゅう劉伶りゅうれい阮咸げんかん王戎おうじゅうのことである。彼らもまた神格化された存在であり、風流な者の家のふすまに描かれていることもある。まさにその襖から気まぐれにこっそり抜けだしてきたような風情だった。

 リーダーである阮籍げんせきが話した。「七福神様方もそうでしょう。死神のお迎えがない世界では時間は実に緩徐かんじょと進みます。私たちの酒のさかなは常に〈道〉です。古今東西あらゆる〈道〉を究めることを考えております」

「ほう、中華に伝わる〈タオ〉だけではないと?」と恵比寿天が話を合わせる。

「ええ。あまりに礼法にうるさいものに関してはさすがに意に沿いませんから、思わず白眼を剥いちゃいますけどね。香道でしょ、それから歌道、北海道、架空かくう索道さくどう、シベリア鉄道、極悪非道、下水道……最近は『野球道』にもっぱら親しみ、楽しんでおりますね」

「野球とな。しかしそいつは九人でするもんじゃなかったっけ?」と毘沙門びしゃもん天がおなじみのいかつい顔を突きだして訊いた。

「私たちの世界は屈託のないものです。ショートとセンターを抜きにすれば、やれます」

「ならば、我々もやろうと思えばやれるな」勝負事となると毘沙門天は前のめりになる。早くも甲冑が火を噴きそうに赤くなった。

「ホッホッ。では今度、交流試合でもやりましょうか」

 

 恵比寿天は内心賛成しかねるという顔をした。常に琵琶をたずさえている芸術の女神である弁財天はウグイス嬢以外できそうになかったし、福禄寿ふくろくじゅ寿老人じゅろうじんは見た目そのまま老人である。巻き物をつけた杖が松葉杖に変わってしまっては具合が悪い。

「老荘思想の下に活動なさっていると思っておりましたから、せわしないスポーツを好まれるとは思いませんでした」と恵比寿天は言った。

 これには劉伶りゅうれいが答えた。「元は、手から落ちて地面に埋まった盃の上で瓢箪ひょうたんを転がす遊びから転じたものですが、日がな一日川に釣り糸を垂れるのも、無心でバットを振り続けるのも大差はないのです。白球を追いかけていった先で命果てれば、そこに私は埋められ、またその上を白球が転がっていくだけのことです」

「それはまた、深遠ですな」


 阮籍げんせきは懐から「飛鏡ひきょう」という板を取りだした。元は〈月〉の美称であったが、浄玻璃鏡じょうはりのかがみのように過去の映像を映しだせる宝器であった。

「これで私たちの思い出の試合をいくつかお目にかけましょう」


 もやもやと極彩色の煙がわいてきて、飛鏡の銀色の表面を波立たせ、変えていった。最初に浮かびあがったのは、森に住む七人の小人チームとの試合だった。七福神たちはその幻影に惹き込まれ眺める。


〝野球の表と裏、まさに陰と陽の世界であり、この世はあざなえる縄のごとく、これをくり返していくものである〟


 立派な選手宣誓を行ったのは、一番でキャッチャーを務める嵆康けいこう。言葉どおり、その試合では表と裏が交互にやってきて九回までくり返された。この「九」という数字──十進法では、くり返していく0から9までの中では際の数字であるし、「天を参にし地を両にして数にる」という説卦伝(『易経』)においても陽の数の代表的なものとして知られている。

 それゆえか、ピンチとチャンスまでもがこれにならっているかのごとく「塞翁が馬」的展開が実現されていった。

 小人たちは、宇宙のことわりまで持ちだされては到底敵わぬと思ったのか、「やっぱり野球より仕事が好き! それに家に女の子(白雪姫のこと)を残してきているから」と言って森へ帰っていった。〝コールド(子おるど)〟試合ということになった。


 次に表れたのは七匹の仔山羊チームとの試合であった。

 相手ピッチャーが投げた一球目。嵆康けいこうが振った竹のバットは球の真芯を見事に捉え、輝く青空に突き刺さると、七つに分かれて北斗七星になった。この場外ホームランはランナー0でも七点入るというスグレモノである。

 この試合もまさに蝶とたわむれるように白球とたわむれるという、老荘思想的理想的内容であった。仔山羊チームも無惨に敗れ去り、やってきたときは狼のお腹の中から出てくるなどトロイの木馬のような奇襲を感じたが、「また狼の腹の中に帰らせてもらいますわ」と言って、すごすご引き下がっていった。「腹の石(虫)が収まらない」結果となっただろう。

 

 普段の無我の境地での練習のたまものなのか、その後も鏡が見せたどの試合でも、七賢人チームの流麗なプレーは変わらずであった。

 秋になると虎の毛が美しく生え変わるといわれるようにボテボテのゴロを弾丸ライナーに変化させたり、平凡な内野安打でも池に眠る伏竜ふくりゅうの頭を打って目覚めさせるなどのきのない攻撃。

 七賢人が七賢人とも輝く汗を浮かばせ、スポーツドリンク代わりの酒をがぶがぶ呷る姿は青春そのものであった。


「しかし、こういうこともありました」と王戎おうじゅうが声量を落とす。失敗もあるにはあったのか。

 とある試合の映像で、向秀しょうしゅうが声を張りあげていた。「ホームベース、一塁、二塁、三塁と、四方のすべてを囲んでしまっては、ここへやってきた森の獣たちがすべて捕らえられ、死に絶えてしまいます。四つのうちの一つをはずし、そこから逃げていく動物は追わない、ということにしたらどうでしょうか? 去る者は追わず──聖者は常にそのような大らかな交際をするべきです」

 この後から、向秀は両足を大きく開くことですべてのゴロをトンネルして、外野へ逃がすようになった。相手チームに大量の追加点を献上したという。無我夢中で球を追うのも道、球場に身を置いても球の姿も見えない境地に到るのも道である。


「つまりまあ、こういうことです」とすべての幻影がやんでから、阮咸げんかんがまとめた。「三塁側(東隣)の盛大な祭りよりも、一塁側(西隣)の質素な祭りの方に神の祝福がある──。要は見た目ではなく、真心の問題なのですよ。勝ち負けは作為の外にあるわけです。私たちがそれに拘泥こうでいすることはありません」


「結構なものを見せていただきました」福禄寿が代表して、ふくらんだ餅のような大きな頭を垂れ、礼を述べた。


 七賢人たちはバスに乗って帰っていった。後には彼らの残り香(酒の臭い)が漂うばかりであった。

「こうしてみると、私たちは少し地味すぎるのかもしれませんな」と大黒天。

「そうでしょうか」と弁財天。

 七人の神は我が身を置く暮らしの風景を脳裏に浮かべてみた。山村の東の空には赤富士があり、虹色に輝く彩雲もかかっている。恵比寿と大黒が藻を刈る池の奥には短い滝がしぶきをあげ、そこを来る日も来る日も躍りあがる鯉。

「我々には我々の平和があります」と恵比寿天が聞かせると、「それもそうだ」という空気になった。なにも白球を追いかけ、バットを振り回すことだけが道のすべてではない。


 その後着いたバスから降りてきたのは、ギリシャの七賢人であった。



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