第53話

 ガチャリと扉の開いた音に続いて、ギィと古い木製の軋んだ音が聞こえてくる。随分と年季の入った音だった。スニェークノーチ城そのものの歴史を語っていると感じて、星零の足は中へ入ることを躊躇った。先に入ったリチラトゥーラが優しく星零の手を取り、廟の中へと誘っていく。


 不意に吹いた隙間風が彼らの頬を撫でる。思わず瞑った瞼をゆっくりと開くと、目の前に広がるは竜を祀る祭壇だ。伝説にある春竜が眠るとされる霊廟にはたくさんの献花が手向けられている。

 スニェークノーチ国をいつだったか誰かが『春を忘れた国』だとわらっているのを聞いたことがあった。だが今、星零の目の前にはしっかりと温かい『春』が存在していた。


 温かい空間であるはずの、神聖な『廟』は、あまりにもかなしい場所だった。星零は気づかぬうちに涙していた。ただそこにいるだけなのにどうしてかなしいと感じたのかは分からない。泣くだなんて思ってもいなかった。ただ何か、音なき声が「さみしい」と風とともに囁いた所為かもしれない。

「星零さま……?」と、春をうたう姫の淡い声が星零の脳裏を過ぎった。リチラトゥーラはその場に崩れてしまった星零に近づき、そっと彼の肩を触れた。

 彼がこうなってしまうことを知っていたから。

 リチラトゥーラは眉間に皺を寄せ、そして瞼を伏せた。


「……ここまで心を寄せさせてしまって、ごめんなさい。星零さまはとても感受性が豊かなのですね。……ここに眠る春竜さまたちもきっと、寄り添ってくださるあなたのことが気になったのでしょう」


 だから、聞こえたのか。「さみしい」と。もう届くことがない想いに答えてしまったから、こんなにもかなしいのかと、星零はひとり涙を零す。この感情が自分のものなのか、それとも別の、ここに眠る春竜のものなのか。星零の心は定まらない。それはひとえに、彼の心の優しさが招いたことだった。


「ごめんなさい」とリチラトゥーラの謝る声がした。どうか謝らないでほしい、これは自分が勝手に引きづり込まれただけだからと、言いたくても、その音は彼自身の嗚咽によって消えていく。

 もう一度彼女が謝った。けれどそれは星零に向けてではないことを、星零は分かっていた。薄れていく意識の中で再び聴こえた「さみしい」という廟に眠る春竜たちに、星零はごめんと小さく呟いた。


 ❅ ❅ ❅


「少しは、落ち着きましたか?」

「はい。情けない姿をお見せして、申し訳ございませんでした、リチラトゥーラさま」


 困り顔で笑う星零はどこかまだ本調子ではなさそうだった。無理もない。先ほどまで多くの御霊が集う場所に身を置いていたのだ。リチラトゥーラのように彼らの心を長年に渡り受け入れ続けてきたならばまだしも、初めて彼らの洗礼を受けた星零は気分を悪くしたが、意外にも彼は意識を手放すことはしなかった。だから、リチラトゥーラは感心して、「いいえ」と首を横に振った。


「初めてあの廟に足を踏み入れた方で、気を保っていられたのはあなたでです」

「二人目……?」


 リチラトゥーラたちが今いるこの場所は、三百年前から変わらずスニェークノーチ城に存在する花の温室だった。整備された温室には国花である『プランタン』が沢山咲いている。


「……とても美しい花ですね」


 物思いに耽るリチラトゥーラの様子を感じ取った星零は自ら話題を変えた。花について訊かれると思っていなかったのだろう、リチラトゥーラは一瞬目を見開いた。


「……ええ。この国の国花ですわ。プランタンと言います」

「プランタン? それは、西国の果てにあるとされる幻の島国の名では?」


 星零のその知識の豊富さに、恐怖すら覚える。


「……星零さまは本当に博識なのね。そう、これは春竜さまがいるとされるプランタン島にしか生息しない花です。大昔、『春告げの旅』にこの地へと降り立った春竜さまから賜ったと、伝えられています」

「そんなにも歴史のある花なのですね。今までに見たことのない、温かさを持った花ですね」


 星零はプランタンに近づくと目の前の花弁に触れようとした。しかし何を感じたのか、触れる寸前で伸ばした手を止めた。


「星零さま?」


 絶対に触れると思っていたのでリチラトゥーラは小首を傾げた。リチラトゥーラの眼差しに気づいた星零が、彼女に微笑みかける。


「ああ、いえ……。この国の大切な宝物に、気安く余所者が触れてもいいものかと、思って」

「……」


 彼は本当に、聖者のような心の持ち主だ。そんなに善人であると人生に疲れてしまわないだろうかとリチラトゥーラは少しだけ彼のことが心配になった。


「触れても構いませんが……その花には毒があったはずなので、触れるのをめてよかったと思いますよ」

「えっ!」


 といっても本当に微弱な痺れがあるだけですが、とリチラトゥーラは続けた。妙に勘のいいひとだと思う。リチラトゥーラは毎日服毒している『毒みの儀』の毒がこの温室から採取されていることを知っていたため、もし本当に彼が花に触れようものなら突進してでも止めようと考えていたが、それはどうやら杞憂に終わったらしい。

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