第31話

 ローウェンから逃げるようにして温室を出たヒリューニャは息を整えた。

 彼女は今まで男性との経験なく、そもそも男性を男性として意識したことがなかった。さらに、彼女はあと二年もすれば強制的に他国へと嫁ぐことが決まっていたので、先ほどの出来事はヒリューニャにとって未知の経験だった。


「お……落ち着きなさいヒリューニャ……! あれは、あれはよ! そう、事故!」


 火照る頬を冷まそうと、ナーシャのいる部屋へ向かう途中に溶け残っていた雪を見つけ、それを手に掴むと頬に思い切り当てた。じんじんと冷えた痛みが、今だけは彼女の心を凪いでいく。

 しばらくして気持ちが落ち着いたヒリューニャは身なりを整えてから、ナーシャのいる『母屋』へと足を進めた。


 ❅ ❅ ❅


 スニェークノーチ城敷地内には、普段ヒリューニャたちが暮らす城内と、少し離れた先に母屋が併設されている。

 この母屋は元々ヒリューニャたちが幼い頃に使用していた秘密基地のようなものだったが、現在は主に城内で療養が必要とされる者たちに与えられた診療所として利用されている。

 現在使用しているのは、ナーシャの婚約者、ただひとりだ。


 ヒリューニャは静かに母屋の扉を開ける。靴に付着した雪を払い落としてから室内へと足を踏み入れる。入ってすぐに台所があり、先ほど摘んできたプランタンの花たちを丁寧に洗う。水洗いをしてしまうと土と一緒に花香が抜けて効力が落ちてしまうと思ってはいるものの、不純物を取り除き清潔にしなければ、薬湯を煎じることができない。

 戸棚から銅製ケトルを取り出し、中に水を張る。そして熱していき中の水が沸騰するまで待つ。こぽこぽと沸騰したところでプランタンの花弁をケトルの中へと入れ煮沸していく。くるくると自然にまかせて花弁が揺蕩う様子は、まるで踊りを舞っているようだった。

 しばらく煮立たせると、花弁から滲み出た成分で薬湯に仄かに色がつく。淡い桃の色がついたことを確認すると、ヒリューニャはケトルの取っ手を掴み煮立たせた花弁と薬湯をし器を使って丁寧に分けていく。

 ほんのりと香るプランタンの花の香りに、先ほどの記憶が再び呼び起こされる。


「~~~~ッ!」


 ぶわっ、と熱くなる顔をどうしたって隠せない。ヒリューニャは、大好きだったプランタンの花が嫌いになりそうだった。


 ❅ ❅ ❅


「……どうしたのヒリューニャ、そんな微妙な顔をして」

「ふぇっ⁉ ど、どんな顔!」

「どんなって……赤い顔よ」

「ッッ!」

「ヒリューニャ⁉」


 何を思ったのか、ヒリューニャは自分の頬をガツンと自らの手で殴った。突然の妹の狂行に、ナーシャは思わず目を見張る。それでも器用なもので、ヒリューニャは先ほど煎じたプランタンの薬湯を盆に乗せたまま自身の頬を殴ったのだ。薬湯は器の中で大きく揺れたものの、一滴も零れることはなかった。


「……何があったかのかは知らないけれど、自らを戒めるのはほどほどにね、ヒリューニャ」

「……ごめんなさい。私としたことが、取り乱しました……」

「……ふたりきりのときくらい、敬語を外したらどうなの?」

「……完全にふたりきりじゃないし……。うーん……」


 かたくなになる妹を見て、ふふ、とナーシャは微笑む。


「ふふっ。でもヒリューニャには、そのままでいてほしいわ」

「そう……?」


 ええ、とナーシャが頷く。その視線の先には、彼女の婚約者が静かに眠っていた。


「……ずっと、元気でいてほしいもの……」


 呟いたナーシャの声はか細い。彼女の心情を知っているからこそ、ヒリューニャはいたたまれない気持ちに沈みそうになった。

 ふと、ヒリューニャは眠る姉の婚約者に視線を向けた。


「……今日も、目覚めませんか」

「……ええ。それでも、彼は必死に戦って生きているわ」


 瘦せこけた顔からは、ほとんど生気を感じられない。けれど少しの吐息を感じる膨らむ胸に、彼は確かにここにいるのだと実感することができる。


 献身的な看病も、薬湯も、無駄なことは無い。無駄じゃない。

 いつだって、そうして自分の信念を貫いてきた。


「今年も春竜様が我が国へ春をお届けに来訪してくださったのよ、ノーク」


 今年も春を一緒に見られますね、と彼に微笑むナーシャ。その健気に尽くす姉の姿は、見ていられなかった。


「……薬湯、ここに置いておきます」


 そう伝えて、ノークの眠るベッドの横に立つ三脚机の上に盆を置き、ヒリューニャは二人の世界から離れようとした。ここに長居する必要はない。


 ナーシャに背を向け部屋を出るためドアノブに手を掛けようとした瞬間、ぐいっと力強く体を引っ張られた。その方へ振り向けば、真剣な眼差しをヒリューニャに向けるナーシャがそこにいた。


「……なんですか?」

「ねぇ、あのは本当だと思う?」


 と心臓が嫌な音を発した。


「……本当なのでは? 現に、ローウェンさまたちが存在しているし」

「そうよね……」


 そう。ローウェンたちの存在そのものが、この国では伝説とされてきたのだ。その『伝説』が今、覆ろうとしている。ナーシャはヒリューニャを掴み引っ張っていた手を放すと、俯き考え込んだ。


 彼女の言う『伝説』とは恐らく『花鱗』のことだ。春竜が持つとされる花弁のように美しい鱗は、どんな大病をも一瞬にして治してしまうと云われている。


 プランタンの花の比ではない、本物の力。


 その起源は定かではないが、スニェークノーチ国の不治の病であるクルドゥ病を患った者やその家族は皆、この伝説に心を囚われている。


「鱗を欲しいと望んだら分けてくださるかしら。ねぇ、貴女からも頼んでみて頂戴?」


 その言葉を聞いたとき、ヒリューニャは気づいてしまった。

 ……ああ、そうか。ナーシャはもう、ローウェンたちをと思っていない。

 ナーシャにとって、彼らはもはや『道具』となり下がったのだと。


「…………分かりました」


 ヒリューニャはを伝えると、今度こそ部屋から出ることに成功したのだった。


 このときはまだ、ヒリューニャは理解していなかった。知る由もなかったのだ。

 ナーシャの心は、既に闇に沈みつつあることなど。

 であるナーシャの心など、理解できるはずもなかった。

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