悪人

ユキアネサ

悪人①

 首に爪足を突き刺すと、管のようなものがグニャっとしなった。メオイは力一杯にそれを掴んで、爪で切り裂いた。


 鮮血。ドクドクと温かい血が、ツンと伸ばした足の甲を伝い、床に垂れ落ち、円い血だまりをつくった。


 男が勢いよく殴り掛かって来たので、頭を後ろに反って躱した。


 拳がメオイの顎をかすめる。すぐにブリッジの体勢から、つま先を曲げて相手の顎にぶつけた。


 その効き目を確認するまでもなく、メオイは体勢を戻して一生懸命に走り、黒枠の鎧窓を突き破った。


 そして二階ほど下の下水路に飛び降り逃げた、全速力で。


 足裏に塗られた石灰の跡を残したくなかった。


 汚い埃だらけの胴衣に穴をあけ頭からかぶっているだけなので、風を受けると早速服の役目を果たさなくなった。



 下水路を四つ足で疾走する間、映れ行く視界の中で、時たま夜空が見えた。星々とその光を受けた巨大樹と共に。


 巨大樹ディングア。私はあそこには行ったことはないし、見慣れて何の感情も抱かない。


 お母さんは巨大樹を見る度に微笑して言った。

――お父さんは今あそこにいるのよ。

 お父さんの名前は結局分からないままだ。



――お母さん! お母さんっ!


 メオイは泣きながら走った。母は死んでしまった。巨大樹の話も、お父さんの話も、私達獣人族の歴史も聴けない。


 人間の男どもが殺した。その死体で楽しんで、さっきの血だまりほどの何かを流しこんだ挙句、奴らはメオイに手を伸ばしてきた。だから殺した――



――私はなの?


 たぶん悪い子だと思う。だって人族を殺したんだから。


 でも私とあいつら、どっちのほうがんだろう。


 メオイの尻尾はビクビク震えて―、耳は、必要な音以外は遮断するように、先っぽだけをチョンと上げていた。灰色の長髪は宙に揺蕩い、小さな猫の鼻は必死に目の代わりを果たした。


 全身が恐怖していた――


 逃げなきゃ! ここから逃げなきゃ! 人間が何よ! そんなにあいつらは偉いの? この世界にいたらダメになっちゃう。人族の支配する都市。そこで奴隷のように暮らしていた。あの角を曲がればいつもの住処に着く。汚い――厳しい暮らし。どうしてこんな目に遇うの? もっと普通に生きたい! 私にも幸せになる権利があるはず。もっといい世界があるはず! 私に優しい世界が。月の光、星の光、あの巨大樹がいつになく輝いて見える。あそこが私の帰る場所なんだよ。きっと救われる。たぶん、愛もある。みんなあれに祈ってた。こんなところさっさと出ていけば良かった。



 でも母は? 母は違った。このゴミ溜めで馴染む努力をしてた――頑張ってた。

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