第7話 享受の神とエンマ様
――ぐにゃりと歪んだ視界の先。私は深い微睡みの中。
手足も動かせず、口も開くことが出来ない。でも、意識はある。ただ、行動の自由がないだけ。
身体がふわふわと浮かび、まるで幽体離脱したみたいに中空に私の意識は存在した。
その真下には二人の男が対峙していた。立膝で体中を拘束された黒髪の男と細身で体の周りに何匹もの大蛇を纏わせ熱弁を振るう男。その両者はどこか見たことのある存在で――。
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私は人間たちに【享受の神】と呼ばれた。
この世界そのものの誕生と共に生まれ、生き続けている神である。
ある時、世界を内包した果実を付ける樹は世界の果実を穢れた奈落に落とした。
世界を内包した果実は奈落の穢れに反応し、その内包した世界という名の果汁を撒き散らした。
果汁は光り輝き、飛び散って数多の水球となった。
そこに奈落の穢れが混ざると、恒星、惑星、衛星が出来上がった。
破れ出た皮は奈落世界全体を包む保護膜となった。
最後に余った果実の種がそれこそがこの私、享受の神である。
『これが世界の成り立ちそれで――』
神である力を少しずつ少しずつ分けていく。
それが生物の創造。植物の成長に繋がっていった。
やがて、生まれた人間に知性と感情を与えた。
人間は様々な惑星、恒星、衛星それぞれで繁栄と衰退を続けた。
『――まぁこんな風に僕は人間とは長い付き合いなのさぁ』
命を失う。それは人間と動物、植物。有機物と無機物にだけに許された機能。
魂の生まれ変わり、穢れを罪として清める輪廻。魂が摩耗しないように新たな肉体に移り変わる転生。この両者も享受の神が自然と出来上がった構造に手を加えて作り上げた。閻魔の役目も死後の世界もこの時生まれた。
『君はこれから閻魔として活躍する、さぁて、役職を与えようエンマ君』
様々な力をほぼ渡し終えた時、神は役目を終えたので死のうとした。
だが、その役目は終わることはなかった。神は不死であった。いくつもの星で命が巡り巡ることを見届けていたことに慣れていたのか神は自身が普通の存在でないということに今更に気がついた。
何があっても死ねない。自身の力でも権能でも死ぬことができない。与えることしか出来ない神は死を与えられないと死ぬことが出来ない。
そう気づいたので、知性も力も失いかけた享受の神は信仰と神の概念を人間に与え、祈りの感情、信仰心を力に変えて、人々に強大な力を与え、神殺しという名目の自殺を為そうとした。
だが、どれも叶わなかった。
数多の英雄譚が生まれたが原初の神である享受の神を殺すことは叶わなかった。
『――悲しかったよ。死ねないなんて言うのはさぁ』
願いを叶えるため、享受の神はある考えを導き出す。
考えの中心には閻魔の役職と眼の前の少年、エンマが鍵になる。
人の魂の穢れを浮き上がらせる宝玉の権能。【八尺瓊勾玉】
人の穢れを実体化させる写身の権能。【八咫鏡】
人の穢れと罪、その一切合切を切り刻む刃の権能。【草薙ノ剣】
元々エンマに備わるこの3つの権能が結びついた、【八薙神】。死後の世界の管理人になれば――。
『――とんでもない力になるからさぁ。その権能で神を、私を殺してくれないか。』
「――ぁ」
『神という肉体の無い存在を実体化させ、権能で殺す。いい考えだと思うんだよね、僕は。自分で死ねないなら誰かに殺してもらうしかないからさぁ。頼むよ』
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――神の生い立ちを知り、境遇も目的も把握した。だが、黒髪の男の感情は容認できなかった。
理由は明白にある。
目の前に妹の存在。彼女とは血もつながっていない。顔も性格もエンマとは違う。だけど地面を走る蟻にさえ踏まないように気をつける優しい人見知りの女の子で、大切な妹だ。
それが、黒髪の男――エンマの眼の前で血を吐いて倒れている。
胸からは赤く血が流れ続け、致死量であろう大量の血液の海ができていた。
妹に体重と腰を掛け、今までずっとペラペラを自分語り仕掛けてきた享受の神と名乗る眼の前の存在。
やつにどんな罵声と侮辱と殺意の言葉をかければいいのか。わからない。わからないが、エンマの目は血走り、身体には最大限の力が湧き上がり、今すぐに殴りたくて殺したくてたまらないのは確かであった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ!」
エンマの手足はびくとも動かない。
ミシミシと肉が擦れる音は手枷、足枷から抜け出そうとする音。
キンキンと手足から聞こえる金属音はエンマを繋ぐ鎖の音。
エンマの目からは赤い憎しみの血涙と口から殺意の声が漏れていた。
「こ゛ろ゛す゛」
喉からまともな声は出ない。だが、声帯を無理に動かし神に対し殺意を届ける。
まともに出せないように殺意を高まらせる為に、神によってエンマの首にはチョークがつけられていた。内側に数センチの刃の付いた神の特製品。
叫ぶたびに喉に刺さりエンマは血を吐く。その血がだんだん湿り気を帯びた柔い塊を帯びて、より痛々しいものへと変わる。
眼の前の細身の男。仮面の奥の瞳はエンマの事を物欲しそうに眺め、頬杖を突く。
享受の神の周りに纏わりつく黒い大蛇の口からレイピアのように細身の長剣を取り出し、神の右手がそれを受け取り、エンマの身体と地面を縫い付けるように投擲する。
「か゛あ゛ぁ!」
『こういう風に痛めつけないと人間は怒りをを覚えないからねぇ。怒りを憎しみに変えて僕を殺してごらん』
「――ッ!」
――もはや今のエンマの姿は生きているのも不思議な状態であった。
エンマの黒い髪は黒く淀んだように乾いた血がこびりつき、着ていたTシャツもジーンズも細身の刃でズタボロになり、血まみれの立膝の格好で地面と縫い付けられる。さらにその上、妹を目の前で殺しその上で腰掛け、胡座をかく存在にエンマの怒りはこれ以上ないほどに沸騰し、全身のあらゆる血管から血が吹き出しそうな勢いであった。
ここでエンマは冷静に考えを整理する。高まりすぎた怒りは逆に頭をスッキリと明瞭にしていた。いや、これも流れ出た血の影響でアドレナリンが分泌された結果か。
こいつを殺すにはどうするか。
――この状態では何もできない。【八薙神】の権能も使えない。
こいつを黙らすのはどうするか。
――今の死後の世界ではこいつを黙らせられない。こいつが作り上げたこの世界はこいつの都合のいいように動く。なら、死後の世界を変えてしまえばいい。
数秒か、数十秒か。この答えにたどり着くには時間がかからなかった。この状況を打破する方法、それは……。
「う゛っ」
『ほら。火事場の馬鹿力ってやつでその鎖をぶち破って僕を殺してよ。なぁエンマ。さぁさぁさぁ早く!』
「……か゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛‼」
声を上げる。腕に、足に、全身に渾身の力が入る。この腕が自由になれば権能も使える。流れすぎた血のお陰でさらに頭も冴えてきた。
まずは大声を上げて、さらに身体の余分な血や感情をすべて吐き出す。
手足に付いている枷も、首の刃付きチョーカーも今はどうでもいい。
眼の前の妹を殺されてその仕返しが、反撃の狼煙を挙げれたらそれでいい。
――神の望みが殺されることなら。エンマの選択は一つ。
絶対に殺さない。殺さずに殺す。この選択肢をエンマは選んだ。
『――いいよ、いいよ! さぁ、拘束を打ち破って! その拳で! その権能で! 殺しておくれよ! 神殺しの大英雄!』
エンマが火事場の馬鹿力を発揮し、手足の枷と鎖をブチブチと引きちぎって立ち上がり、その血まみれの右手を地に触れた。左手を空に向けた。
『……は? 何をするのかな、僕を殺すんだろ? なぁそうだろ? って――おいおい、人間ってそんな選択もするのかい』
このとき、エンマの上下の世界が鳴動した。天国と呼ばれる天空は轟音が鳴り響き、地獄と呼ばれる地底は割れ、溶岩の流れる世界が顔を出す。
エンマは【八薙神】の権能で左手に天国から伸びる透明な鎖を顕現させそれを掴み、自身の胸元に引き寄せる。
右手にも地獄からから伸びる鎖を顕現させ掴み両手の鎖を結び合わせる。
世界が、変わる。
天を繋ぐ鎖は地底とつながる。
これは享受の神が作り上げた天国と地獄。それらが神の思い通りに作られているならそれらをぶっ壊して新たな世界を生み出す創生をするまで。これがエンマの選んだ選択。神の干渉できない世界を作り上げる。
死後の世界の変革が。安楽の世界である天国は安寧を崩し、刑罰と苦痛の地獄はその全てが開放される。
天と地が混ざり合い、全ての死者が混ざり合う。
地獄の罪人も、天国の浮世人もその全てがエンマを中心とする虚空の世界に飲み込まれる。
――罪は今一度清算され新たな生命の流れが生まれる。
新たな輪廻転生のシステムが構築される。
死者が虚空の渦に飲み込まれ、光に包まれたこの死後の世界の管理者は神ではなくエンマとなった。
さらにエンマの権能【草薙の剣】で、享受の神の管理を即座に断ち切った。
『――なるほど。神を追い出す? 妹を見殺してさぁ! みっともないねぇ!』
享受の神は他の死者と共にその体を大蛇とともに虚空の渦に飲み込まれてゆく。
神を見つめるエンマの瞳の奥には神に対する憎悪と怨嗟だけが燃えていた。
天国と地獄を引き合わせ、死後の世界の体系をすべて生まれ変わらせた。
エンマの全権能を総動員し、エンマはこの世界を作り出す新たな創造神となった。
その結果、享受の神はここでの存在理由である、自身が作り上げた世界である前提を崩し、この新たな世界に滞在することが出来なくなっため虚空の渦に飲み込まれた。
その刹那に享受の神は、
『はぁ、煽っても意味ないか。……残念だよ。折角、死ねるチャンスだと思ったのにさ。』
残念そうな言葉でこちらの同情心を煽るがエンマの心には刺さりはしない。
『まぁ、いいさ。次は殺せよ、エンマ様』
その一言でエンマの覚悟が決まった。絶対に殺さずにぶっ飛ばしてやると。あの仮面を引っ剥がしてむせび泣くまで延々と。
世界は空間ごと揺れ、大地が粘土のように自由自在に変形し姿を変えてゆく
エンマも空間に飲まれ身体と記憶と魂が分別され、世界に融合される。
死に体で空を眺める。そこにはエンマが救えなかった妹がいた。
変わり果てた姿。綺麗な銀髪も、髪飾りも全て血で汚れ見るに堪えないほど身体は損傷していた。それでも。
救えなくても。
今手を伸ばすことができる。
届く。
届いて。
必ずこの手は離さないようにしなければ。
そう誓いを立ててエンマの意識は深い沼に沈んでいった。
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――微睡みは長くは続かない。エンマの涙と憎しみの瞳だけが記憶にこびりつく。
だが、私の意識はまだ起きる事ができないまま、新たな記憶の波に流されていった。
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