ヘッドホン・スパイラル
志々見 九愛(ここあ)
本文
「せんぱ~~い♡」と、甘ったる~い声。
「連絡したけど」
「うん。
「さいでござるか、姫」
その後輩は可愛く巨乳であった。ただし、頭がおかしい。
「は~い♡」
そう言って、彼女は普通に可愛い感じでこちらを見た。
僕は戸を開けて彼女を呼び込んで、とりあえず
彼女はひどくリラックスした様子で何やら呟いていたので、しばらくやることもないなとか思って、本来の目的について思い出していた。
そもそも彼女が本格的にヘッドホンリスニングを始めようというから、ここに呼んだのだ。
と、彼女が顔をしかめた。転んだのだろう。Psychedelicsはスノーボードでもしてるみたいな感じなので、がんじがらめにされた板の上で上手いこと滑れてて、キュルキュルに磨かれたみたいな雪山の冷たい空気を頬で切りながら、ちょっと笑みを浮かべ、気持ちいいなって言って、上手いこと滑れていればいいものの、切れないアイスバーンに速度が出過ぎて恐怖みたいな、他に例えば楽しいパークが実は手に負えなかったとか、そんなのでどんどん悪い方へ入ってしまうこともある。
とりあえず手を握ろうと思ったが、それもなんかキモいし、冷え性なので手が冷たかったということもあり、僕は彼女の手を掴んで引き倒した。僕の膝の上に横薙ぎに倒れ込んだみたいな図だった。彼女がひゃっと声を上げたが無視して、クッションを引っ張り寄せてさっと彼女のはみ出た頭の下に置き、手がちゃんと楽になるように戻してやってから、彼女の頭を撫でた。
彼女は泣いていた。それが感動の涙ではないことは明らかで、バッドと戦ってるんだろう。
「
彼女はトマトが好きだった。励ましには一番いいだろう。でも、ここで
彼女が突然大きい声を出したので僕は顔をしかめた。その後何をぶつぶつ言ってるのか分からなかった。
「おお、いいじゃん。そう、そっか」そうやって言っているうちに、彼女は大人しくなって、目をつむって、真顔になった。「なるほどね、良かった。元気でたね、良かったね」僕は涙を拭いてやった。それを彼女の肩先に擦り付ける。今感動してるな、珍しいことだ、なんか劇的だったな、と思う。僕はもう滅多に沈むことはないけど、こうなったことも無くはない。アレだ、何故か一皮剥けちゃうやつ。僕はその時、サルトルに励まされたみたいな感じだった。写真でしか見たことのない、彼の不自由な目の指す先は、どっちだ、時計台だ、
確実に僕はその時に変わった。感動で呆然とした。涙を流していると思い込んで、乾いた眼をしぱしぱした。ちょうどその時ハマっていた本が、僕を助けてくれたのは確かだった。まず働かねばならぬ! 適当にバイトしたカネを楽曲ソースにブチ込んでる場合じゃない。今じゃサブスクで聞き放題、すばらしいことだ。もはやお金は溜まる! あの時の僕の判断は間違ってはいなかった。
ちょっと体をよじって左の後ろポケットからポチ袋を取り出した。体重でちょっと湾曲していたが、中身に影響はない。中から切り離しておいた
目の錯覚みたいな感じになったので目をつむってバッハに耳をすませて、ずーっと知らない50代くらいのおばちゃんの大きくてハリの少ないおっぱいのことを考えていた。この刹那で一番幸福さに優れたイメージだ。かといって電車とかで見かけたいなって望めるくらいの難易度でもあり、その胸の中に抱かれたとき、タンスにゴンの匂いがふわりと漂ってきて、羊毛がすこしチクチクするけど、あったかいのでやめられないみたいな、『ふくよかだ』とか『太っちょのオバサマ』とか、そういった単語が気持ちよく、僕は無事にうまく波に乗れた。バッハのせいでゼリー状の矩形波って感じだった。
「座んなよ」
「はぁ~い♡」彼女はたぶんそう言ったはずだ。
僕はヘッドホンを外して首にかけた。チロチロと言うにはいささか大きすぎる音量のバッハが音漏れした。でも問題ない。きらきらしているから。
ソファの真ん中で、お互い横にもたれかかるみたいになって座る。僕は彼女の後ろ髪に鼻先を突っ込むことになった。くすぐったくないのか? 首にヘッドホンのアームが引っかかっているのが分かる。軽い痛みを伴ったが、大したこともない。
言葉のキャッチボールはとてもゆっくりとしたものになった。
「プニプニする、なんか」
「うん。いいなぁ♡」
「聴く?」
彼女が首を振る。
「ヘッドホン、教えて欲しいんでしょ?」
「そうだけど、そういうのはよく分かんないから♡」
曲のせいで、やんわりと
「試聴だよ。いいの?」
「あとで♡」
「分かった。買うならどんなのがいいの? なんかあるでしょ」
「コスパ♡」
「んじゃ無限に生きれば?」
「無理~♡」
「まず、ヘッドホンオーディオはピュアじゃないから、そこはいいよね。まあ現代それを追い求める人もいないでしょう……近所迷惑なので」
「うじきんとき♡」
彼女はひらめきを会話にねじ込んできた。それはいい感じにアイスバーンを切ったからこそって感じで、スノーボードを乗りこなしているみたいだ。
ポジティブだね。僕もそうなりたい。
「ケーブルから、発電所から変えるんだろとか、よく言われるけどさ、発電所はジョークだとしても電源とかケーブルは絶対にこだわった方がいいんだよね。ま、後回しっていうか、別にそんな変わらんからね。コスパとは全く反対方向にあるやつだから、音質に困り果てた時に血迷って試したりとかはするかな。相談乗るからさ、そこは」
「うふふ♡ ブルートゥースがいいな♡」
喋るのって気持ちいいよ。
「はぁ?」ハネる。「それはやめた方がいいよ。さすがに。スピーカーユニットの近くにアンプとコンバータ置いてるとかあり得ないし、そこに詰め込むとか愚の骨頂、中途半端に節電するために無線じゃなくてブルートゥースってとこも完全にナメてて腹立つし。最初は有線から始めようか。コスパって言ったら、あ、でも10万円が予算だっけ? それなら正直、アンプやら
「うん♡ すごい♡」
「賢いね。僕はやっぱり、デジタルからアナログじゃなくって、アナログからデジタルに変換するそのあたりを重視してたんだけど、でももう
「大丈夫♡ がんばれ♡」
「最近の曲ってもう全部サブスクでしか聞く手段用意してないから、もうずっとPCオーディオなんだよ…… ねえ、どうしたらいいと思う?」
「分かんない♡ でも好き♡」
「うん。好きだ。そういえばさ、
「そっか♡ 十分貰ったよ♡ 大好き♡」
なんだろう、ずうんと来た。失敗を自覚する。始まる。
落としてくれるならそれに従うと思うが、自分から落ちようとは思わなかった。立ち上がるのも面倒だし、油断してて
僕は自分をコントロールできていない。ヘッドホンをころころ変えるようなところがまさにそれだ。捨てなくてはならないのだろうか。今なら老後の難聴は回避できるかも、なんて甘い話は無いだろうけれど。
「涙拭いてあげる♡」
僕は病気だ。人をコントロールしたくないくせ、自分の思い通りにいかないと、むくれたりする。それを受け入れてくれる人なんていないのはよく知っている。っていうか、両親という概念がクソ。死んでほしい。
いや、死ねと命令すらしない僕はなんなのか。
「大丈夫♡」
僕は孤独なのだ。いつまでも一人でいるだろう。友達が欲しい。コロナにかかったら、行政に変わって食料を持ってきてくれるような人、もしくは僕がそのようにしてあげられる人。連絡先のリストに友達はいる。でも彼らはそんなことするだろうか? 常日頃僕を思いやり、僕の罹患を察して連絡をくれるだろうか? 僕は彼らを頼るために連絡したりなんかしないはずだ。そういう甲斐甲斐しく世話を焼くのは、家族か、恋人だろう。家族なんてクソだし、つまるところ、僕には恋人が必要なのか。あり得ない。今まで人と付き合って長続きしたこともない。友達を作るよりも、きっとハードルが高い。
「一緒に、がんばろ♡」
そもそも、恋などしたことがないのだ。女の子はもちろん好きだが、一番いいのは顔がちょっと悪くて、スタイルのいい子で、ちょっとヘマしても心が痛まないし、この子ならこんなことしても別にいっか、みたいな。そんなだから好きなのだ。自分でもわかっている。これは恋じゃない。
恋の感情は、どんなに素晴らしいだろう? おそらく僕にはその脳内物質が全く欠乏しているから、その味を知る権利など、生まれた時からすでに無かったのだろう。そもそも、僕は生まれてくるべきではなかった。何も残さず、趣味に没頭し、人をけなし、孤独である。それでいて、日常は闇の中にいるというわけでもなく、馬鹿みたいに、何も考えず生きてきた。暗闇が沁みないのではなく、暗闇を感じないのかもしれない。
僕はサイコパスだ。
人の気持ちが、一つもわからない。
「あいしてる♡」
いんや、まさか。僕はカスだから、そんな価値なんてありませんよ。
彼女の言葉が僕の中でこだまし、なんだかよくわからない言葉に変貌しながらも、滲みだした暖かな橙色の印象が、だんだん大きくなっていた。その温もりに浸り、足先の冷えが消えていくのに任せ、小さく聞こえる平均律クラヴィーア曲集の前奏曲に乗って、僕は浮かび上がっていく。
ゆらめく南の海を漂っているみたい。
さっきまでの悩みは何? アホくさ。
僕は、あのデジタルな対位法の譜面の中、ピアニストが込めようとした気持ちについて完全に理解できたと思った。
「あいしてる♡」
彼女のために、真剣に考えたい。最初がヘッドホン選びでよかった。
「ぼくも♡ あいしてる♡」
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