曇
アスパルテーム
第1話
「凄い雨ですね」
顔を上げると、目の前に
「どちらへ?」
私が立ち上がったのを見て、女将さんはつまらなそうに言った。
どちらへ行こうが勝手だろう、
と言えるはずもなく、私はただ、「外をぶらついて来ます」とだけ答えた。
「良いですねぇ、今朝は綺麗な
心底どうでも良い。
「そうですか、楽しみです」
早く出て行ってくれ。
だん、と。銃弾に撃たれたような音がして、窓の方を見た。どうやら、突風に吹かれて、雨粒が窓を強く叩いただけのようだった。
「風も吹いてきましたねぇ」
女将さんがくすりと笑う。
「今日は、一日中ずうっとこの調子らしいですよ」と、女将さんが私を真っ直ぐに見詰めて言った。
「これじゃあ、散歩になんて、行けたものじゃあありませんねぇ」
紅の差した口元が、三日月の形に釣り上がる。
「全く、梅雨時期でもないのに、こんなに連日降られては、困ってしまうわ」
また雨粒が強く窓を叩いた。私は窓辺に寄って、外を眺める。
ここから見える景色には、紫陽花は映っていない。見えるのは、一面灰色の空と、視界を
さて、今は、
梅雨時期でない。
まして冬でもない。
では今は、何月だ。
卓上に置かれたカレンダーを探す。いや、カレンダーは、数日前に捨ててしまったのだった。捨てた。
何故捨てた?
そしてそれは、本当に数日前か。
分からない。
全てがぐちゃぐちゃと絡んで、雨音に掻き消されていく。
「何をそんなに、焦っていらっしゃるの?」
はっとして部屋を見回す。女将さんは、部屋の隅に体育座りをして
「ねぇ先生、小説は書けた?お散歩へは行かないの?」
頭に直接響くようなその声は、雨粒と一緒に空から降って来て、弾丸の如く私の首を
小説は、書けない。あれだけ締め切りに間に合うようにと懸命に書いていたのに、今では、いつが締め切りかさえ思い出せない。そもそも今日がいつかさえ思い出せない時点で怪しい。
私は諦めて、原稿が乗ったままの机の前に座った。女将さんは相変わらず
えへへへ、えへへへへへへへ。
へへへへへへへへへへへへへ。
「えへ、へへへぇ、へへへ」
私は良い加減気味が悪くなって、机を叩いた。すると女将さんは、す、と顔から笑みを消して黙った。無表情は無表情である。そして、口をぽかんと開けて、天井を見上げた。
じっと。ただただじっと、天井の真ん中を見詰めて動かない。
「そこに、何か居ますか」
私が
「空が、空いている」
空が。
「ああ……」
女将さんは急に声色を弾ませて叫んだ。
「お天道様が見える。晴れている!ああ、ありがたや、ありがたや………」
無論、そこにはただの天井しかない。そして外は相変わらずの雨……、
いや、雨は止んでいて、それでも、今にも降り出しそうな
更に気味が悪くなって、思わず、私は女将さんを蹴り上げた。
そうでもしなければ、私は狂ってしまうと、そう思った。
女将さんは仰向けに倒れて
「しっかりしてください。空なんてありません。そして晴れてもいません」
「いいえぇ」
私の言葉に間髪入れずにそう答えると、女将さんは、ぬるりと首をこちらへ向けて笑った。
「ありますよぅ、空は。見えないのですか?どうして?こんなに綺麗な晴天なのに。あああ、あああ、可哀想に」
私は窓を開け放って、外へ身を乗り出した。土臭い雨の匂いは不思議と既に遠ざかっていて、分厚い雲の隙間から、太陽の光が漏れていました。私は走り出した。
「先生、先生!次はもぉっと面白いお話を書いてちょうだいねぇ!」
「私、待ってますから!」という声を背中で聞いて、私はひたすらに走った。足の裏に泥が
その後ろには、大きな積乱雲が迫っていて、
しかし、今や空は恐ろしい程の晴天となっていた。あんなにも空を覆っていた雲はどこにもない。ただ向こうから積乱雲が、私を逃すまいと追ってくるのみである。
この奇妙な空の下を走りに走って、体感では一時間程逃げ回った。
あ。
すると突然、視界がぐるりと回転し、同時に弾けるような音を聞いた。
転んで、後頭部を地面に叩き付けてしまったらしかった。
単純に、痛い。
おまけに、間もなく目眩までしてきた。これはあまり良くない。
立ち上がれずにいる間も、大きな雲は私を目掛けて急成長している。
さて、どうしたものか。
「鈍臭くてかないません」
どこからか声がした。
私がその姿を探そうと状態を起こすと、突如、ぐい、と右腕を引かれた。
地面の方向に。
目を瞑って構えていたが、一向に地面に叩き付けられる衝撃が訪れない。代わりに、身を削がれるような風を感じる…。
私は、恐る恐る目を開けた。
……は…。
見渡す限りの、青。
そう、そこは、空だった。
晴れ渡る空の中を、私は落ちていたのだ。
「ねぇ?晴れているでしょう?良い天気でしょう?」
女将さんの声がした。優しい声だった。
「貴方ったら、全く気付かないのだから、困ってしまうわ」
こんなに良いお天気なのに、と、女将さんは笑う。
落ちていく私は息を吐いた。
「そうだね、こんなに綺麗なのにね」
上には、一層大きな太陽が、
温かい。とても。
「温かいね、とても」
どうして、忘れていたのだろう。
胸を押し上げる愛しさと悲しみに、私は胸を押さえた。
「私たちは、死んでいるんだね」
ふわり、と、白い手が私を抱き締めた。
「そうね」
否定せず、おかしな誤魔化しもせず、女将さんは…、私の妻は、そう言った。
「でも、見て。こんなに綺麗な景色、今まで一度でも見たことがあった?」
妻は、私と一緒に落ちながら眩しいくらいの笑みを向けて来た。
「貴方と見られて、私はとても、幸せよ」
「私もだよ」
死というものを前にしても、不思議と恐ろしくはなかった。涙さえも出なかった。
例え、この空が今後どんな模様になろうとも、君となら、永遠に乗り越えていけるだろう…。
ただ二人で落ちていく中で、私はただそう考えていた。
意識が浮上する。
枕元に置いた時計を見ると、針は6時30分を指していた。そろそろ起きて、原稿を仕上げねば。
重い体を引き
快晴、
とまでは行かないが、それなりに晴れている。
昨夜は、懐かしい夢を見た気がする。かつて旅館を営んでいた頃の夢……だったような気がする。
さて、一体どんな夢だったか。
うーむ。
私は珈琲を飲みながら唸った。
それにしても、良い天気だ。
思わず窓を開けた、その瞬間。
心地よい風が、部屋へ吹き込んで、私の前髪を
その時、何故か一瞬、かつてのように女将の格好をした妻が、脳裏で微笑んだような気がした。
旅館と言えど、客は多くはなかった。空いた客室で執筆をしていると、妻が茶を持ってきて、私のことを「先生」と呼んだ。
私が執筆に困ると、妻は散歩へ連れ出そうとする。近くにある展望台で空を眺めようとか、紫陽花が綺麗だからとか、何かしら理由を見付けて、私の腕を引っ張るのだった。
その妻も、もういない。
展望台の下で、仰向けになって倒れていた。落下事故だという意見が最も有力で、仰向けに横たわった妻は、最期まで空を見詰めていたようだった。
風を追うように部屋に視線を巡らせて、部屋の隅に置いた仏壇に目を留める。飾られた小さな遺影が、ふと私に微笑みかける。あの時から止まったままの笑顔が、悲しげに笑って見えて仕方がなかったこの数年間。何故だかこの時だけは、それがとても安らかなものに見えた。
ここの展望台は、旅館から徒歩で来ることが出来る距離にあるということもあって、よく妻と二人で来ていた。ここもここで、良い風が吹いている。
私は、ポケットから、仏壇から持ち出してきた妻の小さな遺影を取り出した。写真の中の妻が頷いたような気がした。
その写真を抱いて、
私は、展望台から飛び降りた。
落下する刹那、空は青々と広く、輝いて見えた。
この光景を、私はどこかで見たことがあっただろうか。
一瞬の違和感も、程なくして掻き消える。あちらの方に、大きな積乱雲が見えたのだ。
少しすれば、この辺りも大雨に見舞われるだろう。そう思った途端、青く美しいこの空が、とても残酷なもののように思えた。積乱雲は急速に発達し、私の視界に流れ込んでくる。
美しい空は、最早ここにはない。
そしてやっと、私は、昨晩見た夢を思い出す。あの夢が、私に何を伝えたかったのかは分からない。
死んだら、今度こそ私と妻は、あの旅館に二人きりになるのだろうか。それも悪くないかもしれない。そうしたら幸せだ。
写真の中の妻が、何か言いたげに眉を
曇 アスパルテーム @asuparute_mu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます