第193話 あなたに会いたくて

 アメーリアを必死にめ上げるブリジットは、地面を転がる自分の体がふいに空中にフワッと浮くのを感じた。

 争う2人の女は、取っ組み合いの果てに急斜面を滑落かつらくしていく。

 すぐに落下の衝撃がブリジットの全身を打った。


「ぐうっ!」


 どうやら自分とアメーリアががけ同然の急斜面を転げ落ちたのだと悟ったブリジットは、あちこちにぶつかる体の痛みをこらえながら、それでもアメーリアを放さなかった。

 やがて彼女たちは斜面の途中にある足場のような場所に転落する。

 しかしその場所はせまく、アメーリアは激しく暴れるため、そこを飛び出してさらに下方へと2人は転落していく。


「ぐっ!」


 その途中でブリジットは斜面から張り出している木の根に強く背中を打ちつけ、その弾みでアメーリアをめる手の力が弱まってしまった。

 この機をのがすアメーリアではなかった。

 彼女は金棒を手放して身軽になると、思い切り力を込めて背後のブリジットに後頭部で頭突きを食らわせる。


「くあっ!」


 アメーリアの後頭部をひたいに受けてのけり、ブリジットはついに振りほどかれてしまった。

 彼女はアメーリアから離れてさらに斜面の下方へと落ちて行く。

 それを見たアメーリアは斜面の途中に生える短い木のみきつかんで踏みとどまった。

 アメーリアはブリジットを追おうとしたが、そこでトバイアスの命令に思い至り、足を止める。

 

 ブリジットは生かしておくようにと、愛するトバイアスはそう言っていた。

 まだあの女をあきらめていないのかと、怒りと嫉妬しっとを覚え、戦いのどさくさで殺してしまおうとも考えていたが、アメーリアは冷静に今の状況を俯瞰ふかんするように、十数メートル下の足場まで落下したブリジットを見下ろした。


「……意地があるならい上がって来なさい。ブリジット。その間、まずはクローディアを殺しておくわ」


 そう言うとアメーリアは急斜面をその身体能力を駆使して駆け上がって行く。

 その途中で先ほど手放した金棒を拾い上げることも忘れない。

 斜面の東側は傾斜が少しゆるくなっており、張り出した木の根も多いため、それを手がかり足がかりにして登りやすくなっていた。


「ま、待て!」


 アメーリアにそう叫びながら、ブリジットは滑落かつらくを止めようと必死に両手を伸ばした。

 だが土の急斜面をいくらつかもうとしてもボロボロとくずれるばかりで、ブリジットの滑落かつらくは止まらない。

 こうなると自分の背丈と体重がうらめしかった。

 クローディアくらいの体の小ささなら、もう少し何とかなったかもしれないというのに。

 それでもブリジットはあきらめずに歯を食いしばった。

 

「くそっ!」


 伸ばした右手が細い木の根をつかんだ。

 右手一本だが、彼女の並み外れた握力によってブリジットの滑落かつらくは何とか止まった。

 だが、アメーリアはすでに斜面の東側に回り込んだようで、その姿は見えなくなっている。


「ふぅっ……」


 ブリジットは必死に木の根をつかみながら足がかりを探すが、足の爪先つまさきむなしく斜面の土を蹴るばかりだった。

 下を見下ろすと数メートルのところに、比較的安定した広めの足場があった。

 だが、そこに辿たどり着くためには左手側に数メートルは飛ばなくてはならず、そのための足がかりが心許こころもとない。

 そしてり所となっている細い木の根はブリジットの体重を支えきれず、今にも斜面から抜け落ちようとしている。


(ダメか……)


 ブリジットはふと昨日の明け方に見た夢を思い出した。

 自分がボルドを追って奈落の底へと落ちる夢だ。

 ふいにブリジットの脳裏のうりにあきらめの感情がにじみ始める。


(ああ……このまま死んでボルドの元へ行けたら……)


 それでも女王としての意地で決して右手を放すことはなかったが、細い木の根がいよいよ土の斜面からズルリと抜けていく。

 その時だった。

 ふいに頭上からパラパラと細かい土が断続的に降り始めたのだ。


 上を見上げると、小さな人影が急斜面を駆け降りてくるのが見えた。

 その人影は急斜面のあちこちに張り出した木の根から木の根へと飛び渡るようにして、ブリジットに向かって来る。

 月明かりの空を逆光にしているため、その顔はよく見えなかったが、その人物は斜面を転げないよう必死になっている様子がうかがえた。 


(あれは……)


 目をらそうとしたその時、ついにブリジットがつかんでいた木の根が限界を迎えて斜面から抜け落ち、ブリジットの体はり所を失って再び滑落かつらくしようとする。

 だが……。


「ブリジット!」


 その声と共に誰かがブリジットの手首を握った。

 ふと顔を上げようとすると、その誰かはブリジットの体を支えきれずに落ちてきた。

 ブリジットはそれに巻き込まれて、共に斜面を転げ落ちていく。

 しかしその誰かがブリジットをしっかりと捕まえた状態で斜面から張り出した木の根を思い切り蹴ったことで、2人の体は左手側にれ、比較的大きな足場へと落下した。


「ぐっ!」


 ブリジットは背中を打ったが、幸いにも土の上に落ち葉が積もっていたので大事はなかった。

 しかし落ちてきた土が目に入ってしまう。


(一体、何なんだ……)


 ブリジットは目をこすろうと手を顔に持っていくが、その手を握られ止められた。


「こすらないで下さい。目が傷ついてしまいます」


 そう言うとその人物は柔らかな布でブリジットのまつ毛についている土を丁寧ていねいに払った。

 ブリジットが警戒心も忘れてされるがままになったのは、その声を忘れもしなかったからだ。

 それは……二度と聞けないはずの声だった。

 ブリジットは恐る恐る目を開ける。

 そして息を飲んだ。


「そ、そんな……」


 そう言ったきりブリジットは目の前の人物を見つめたまま何も言えなくなってしまった。


「ご無事でよかった……ブリジット」


 そう言って泣きそうな顔で微笑ほほえんだのは、死んだはずの愛しき情夫だったのだ。


「ボ、ボルド……」


 それは二度と本人に呼びかけることの出来ないはずの名前だった。

 ブリジットは自分ががけから落ちて死んだのではないかと思った。

 彼女は手を震わせながらゆっくりとボルドに差し伸べる。


「こ、ここは……あの世か?」


 だがボルドは優しく微笑ほほえむと、差し出されたその手を両手でゆっくりと包み込む。


「いいえ。生きております。あなたも……私も」


 自分の手を包み込むボルドの手は、かつてよりもゴツゴツとした男らしい手に変わっていた。

 だが自分に向けてくれる彼の笑顔は以前と変わらず穏やかで優しかった。

 そして彼の目は涙にれている。

 それを見るうちにブリジットの視界も涙で揺らぎ始めた。


「本当に……本当に……ボルドなのか?」

「はい。ブリジット。あなたが愛して下さった……あなたのボルドです」


 ボルドは声を震わせ、そのほほに涙がこぼれ落ちた。 

 それを見たブリジットはたまらなくなり、もう片方の手でボルドの体を恐る恐る引き寄せる。

 そしてその体を胸に抱いた。

 強く抱きしめたい衝動を必死にこらえ、やさしく壊れないよう静かに。


 死んだはずだと思っていた。

 生きているはずがないと思っていた。

 だが、その顔もその声もそのにおいも、ブリジットがこよなく愛したボルドそのものだった。

 ブリジットは胸にこみ上げる思いを静かに吐き出す。


「ボルド……ボルド……会いたかった。ずっと会いたかったぞ」

「はい……私も……私もお会いしとうございました。ブリジット」


 2人は互いの存在を確かめ合うように抱き締め合うと、声を上げて泣いた。

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