第173話 夢の中で

 早朝。

 まだ日も昇り切らないうちにブリジットは目を覚ました。

 夢を見ていた。

 彼女が見る夢は決まっている。

 深く愛した男の夢だ。

 

「ボルド……」


 ボルドがいなくなってからすでに半年以上が経過している。

 だが一日たりとも彼の夢を見ない夜はなかった。

 一日たりともだ。

 しかしこの日は少々、おもむきが違っていた。


 今夜の夢は妙に生々しく感じられた。

 ボルドがどこかの草原に腰を下ろしてこちらを見ているのだ。

 その草原のすぐ向こう側はがけとなっていた。

 かつて彼が落ちた天命のいただきのようだ。


 あわててブリジットはボルドの名を呼びながら彼の元へ駆け寄ろうとするのだが、ふいに黒いきりが辺りに立ち込めて彼の姿を隠そうとした。

 ブリジットはその黒いきりをかき分けるようにして彼へ駆け寄って行く。

 だがボルドはそんな彼女を見て首を横に振った。


『ブリジット。こちらに来てはいけません』


 彼の声はハッキリと明瞭めいりょうに聞こえた。

 だがブリジットは首を横に振ってボルドに向かっていく。

 嫌だ。

 今、彼を追いかけなければあの日と同じように永遠にボルドを失ってしまう。


「ボルドォォォォォ!」 


 ブリジットは懸命に手を伸ばし、黒いきりの中に消えようとしていくボルドの手をつかんだ。

 その手の感触が妙に現実的だった。

 握り慣れたボルドの手だ。

 ようやく捕まえた。

 そう思ったブリジットの耳にボルドのささやきが静かに響く。


『ブリジット。どうか……この手を放さないで下さい。何があっても……絶対に』


 そう思ったその瞬間、自分の足元の地面が消え、ブリジットは奈落の底へと落下していく。

 その勢いにブリジットはボルドの手を放してしまった。

 そこで……目が覚めたのだった。


「……夢か」


 早朝のヒンヤリとした空気が天幕の隙間すきまから彼女の寝室に入り込んでくる。 

 ブリジットの視界が涙でうるみ、彼女はベッドの上でさめざめと泣いた。

 会いたい。

 ボルドに会いたい。

 その声を聞き、その黒髪に触れ、その体を抱きしめたい。

 だがそれは永遠に叶わないことだった。 


「ボルド……こんなにおまえに会いたいのに……どうしておまえはいないんだ」


 ボルドが死んだあの日からもう何百回と口にしたその言葉を、ブリジットは今朝も口にした。

 言っても仕方のないことだが言わずにはいられない。

 もし今どこかでボルドのたましいが自分を見てくれているのなら、自分の悲しい気持ちを見せつけて分からせたかった。

 自分がどんなに彼を愛し、どんなに彼を恋しいと思っているのか、を。

 ブリジットが寝着のそでで涙をいていると、寝室の入口の戸布の向こう側から小姓こしょうの声が聞こえてきた。


「おはようございます。ブリジット。よろしいでしょうか」

「……ああ。何だ?」


 戸布を上げて入って来た小姓こしょうは入口でひざを付き、深々と一礼して言う。


「朝食後、一時間で出発となります。ご準備を」

「分かった」


 今日は大事な一日だった。

 クローディアひきいる分家との会談が行われるのだ。

 先代ブリジットとベアトリスの事件以降、途絶えていた分家との交流を復活させる第一歩となる。

 会談はブリジットとクローディア、そして本家の評議会である十刃会の10人、同じく分家の十血会の10人が参加して、11人対11人で行われることになる。


 今日の昼過ぎから行われる会談後、夜にはうたげが開かれることになっていた。

 うたげには本家・分家ともに戦士50人と小姓こしょう50人の合計100人ずつを参加させ、盛大に行われる。

 その際には竹製の摸造刀もぞうとうによるブリジットとクローディアの試合も行われることになっていた。

 それはクローディアからの申し出だったが、これにはブリジットも賛成だった。


 勇猛かつ喧嘩けんか好きのダニアの女たちは大いに盛り上がるだろう。

 そしてこういうもよおしが、本家と分家の女たちを打ち解けさせるきっかけになるかもしれない。

 ダニアの女の気質を誰よりも良く知るブリジットは、クローディアの提案は実に面白いと思った。

 

 何よりブリジット自身がクローディアと戦ってみたいという気持ちを持っていた。

 強い者と戦ってこれに勝ちたい。

 それは戦士のさがだ。


(何にせよ、この会談を意味のあるものにしなくてはならない)


 正直なところ、感情的には今でも分家と手を取り合う気にはなれなかった。

 父バイロンの死、ベアトリスの裏切り、悲しみながらった母である先代ブリジットのこと、そして……最愛の情夫であるボルドの死。

 分家との間には因縁いんねんが多過ぎる。

 

 それでも王国と公国の間の緊張が高まるこの大陸で、いつまでも分家と争っていることが本家のためにならないことはブリジットも理解していた。

 何も彼らと手を取り合って仲良しになることはないが、互いにつぶし合うようなことは絶対に避けなければならない。

 そのためにこの会談はどうしても必要なことだった。


 そして夜、皆が寝静まった頃に、ブリジットはクローディアと2人だけで秘密裏ひみつりに会うことになっている。

 そのことは他の誰も知らない。

 クローディアが自分だけに知らせたい秘密の計画があるという。

 そのことについて2人だけで話をしたいというのがクローディアの要望だった。


 普通に考えれば女王同士が2人だけで会うのは危険がともなう。

 ブリジットをおとしいれて殺害するためのクローディアのわなかもしれないからだ。

 その可能性は否定できないが、それにおくして彼女の誘いを断れば大局を見失うような気がしていた。

 戦乱の気配が近付くこの大陸において、自分がひきいる一族を守るためには、情報が何よりも大事だった。

 その情報を得られる機会を逃すことはしたくないというのがブリジットの本音だ。

 そんなことを考えるブリジットを前に、小姓こしょうの報告は続く。


「会談場所であるスリーク平原に向かわせた斥候せっこうからの鳩便はとびんが届いておりますが、周囲には公国軍の巡回もなく、分家が隠密おんみつに兵を潜ませている様子もないようです」

「分かった。下がっていいぞ」


 そう言って小姓こしょうを下がらせると、ブリジットは寝着を脱いで白肌をさらす。

 そして用意されている着替えを手にした。 

 そこで彼女はふと動きを止める。

 小姓こしょうが口にした会談場所の土地の名が彼女の脳裏のうりによぎった。


「ああ……だからあんな夢を見たのか」


 スリーク平原。

 そこはブリジットがボルドを拾った土地の名だ。

 2人にとって始まりの場所だったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る