第164話 大河のほとりにて

「おいアンタ。大丈夫だか?」


 そう声をかけられてアメーリアは目を覚ます。

 目を開けると、そこはどこかの川辺だった。

 

「全身ずぶれでねえか。まさか流されて来たのけ?」


 そう言ってアメーリアを見下ろしているのは、農夫とおぼしき中年の男だった。

 アメーリアは自分が水路で流されたまま意識を失ったのだと気付き、上半身を起こして周囲を見回す。

 そこは大きな川の岸辺だった。

 おそらくあの地下水路からつながっている大河のほとりだろう。

 アメーリアは男を見上げると、か細い声でたずねた。


「ここは……どの辺りですか?」


 親切そうな農夫はアメーリアが困っているのだと知ると、ここがどの辺りなのかを丁寧ていねいに教えてくれた。

 それを聞いたアメーリアは内心で舌打ちをする。


(……だいぶ流されたわね)


 その場所は王国との国境付近だが、クルヌイとりでからは数キロ離れていた。

 今すぐに戻ったとしてもコンラッドおよびクローディアを見つけ出すことはままならないだろう。

 

「あんた。困ってるんだか? とりあえずオラの村さ来たらええ。ケガもしてるみてえだし、手当てしねえと」


 そう言う農夫が馬の手綱たづなを握っていることにアメーリアは気が付いた。

 近くではおとなしそうな馬が川の水を飲んでいる。

 それを見たアメーリアはパッと農夫の手を取る。

 彼がおどろき目を見開くのも構わずに、アメーリアは農夫に身をすり寄せた。


「な、何を……」

「親切な方。助けて下さったお礼です」

「ば、馬鹿言うでねえよ。あんたみたいな若い娘っ子が……」

「あら嬉しい。でもワタクシ。そんなに若くなくってよ」


 そう言うとアメーリアはスッと農夫の背後に回り込み、腕でその首をめ上げた。


「あがっ……」

「お礼に殺して差し上げます。ついでに馬もいただきますわね」


 そのままアメーリアはニコリと微笑むと農夫の首を力任せにねじ曲げ、頚椎けいついをへし折って彼を殺害した。


「運の悪い人。安易な親切心は死を招きますわよ」


 そう言うとアメーリアは男の衣装の中からわずかな小銭と携行食の干し肉などを抜き取り、遺体を川に投げ捨てる。

 哀れな農夫の亡骸なきがらは、大河の下流へと流されていった。


「トバイアス様にご報告しないと。でも、任務を失敗したから嫌われてしまうかもしれない……」


 アメーリアは悄然しょうぜんつぶやき、農夫が残した手綱たづなを引いて馬をなだめる。


「よしよし。おまえのご主人様は死んでしまったのよ。かわいそうね。代わりにワタクシが乗ってあげるわ」


 そう言うとアメーリアはその馬の背にまたがり、大河に沿って走らせた。

 風を浴びながらアメーリアは先刻のクローディアとの激闘を思い返す。

 投げ飛ばされて壁に叩きつけられた痛みがまだ体中に残っていた。


「……クローディアか。思ったより強かったわね。あの毒で死んでくれればいいけれど、おそらくそんな簡単にはいかないでしょうね」


 クローディアに仕掛けた毒は確かに致死性のものだが、適切な治療をほどこせば、命が助かる可能性は十分にある。

 むしろあの毒の利点は致死性であることよりも、すぐに表れる体の痛みやしびれによって体を満足に動かせなくなることだった。

 アメーリアはクローディアをその状態におとしいれてから、確実にその手で殺すつもりだったのだ。

 それが出来なかった。

 アメーリアは馬の背で揺られながら自分の心臓の辺りを拳でドンと叩く。


「まったく……どうなっているのよ。この体は」


 水路に落ちた途端とたん、昔の忌々いまいましい記憶がよみがえり、体がまったく動かせずにアメーリアはおぼれたのだ。

 あんなことは初めてだった。

 それゆえすぐに対処することが出来ずに、彼女は流れの中で意識を失ったのだ。


 溺死できしせずに済んだのは運が良かったのだろう。

 しかしどうにも腑に落ちなかった。

 今までも水の中を移動したことなどいくらでもある。

 だが一度としてあんなことはなかったのだ。


「クローディアとの戦いの影響……かしら?」


 アメーリアは首をひねる。

 クローディアは強敵だった。

 自分を殺せるほどの力を持った相手と初めて戦ったことで、アメーリアは死の予感を肌で感じていた。

 それがきっかけとなって自分の体に変化が起きたのではないかとアメーリアはいぶかしむ。

 そうでなければ水中でのあの無様ぶざまな変化は説明がつかなかった。


「これから水泳は出来なくなるってこと? あまり歓迎できないわね。それは」


 水辺での戦いでは水中に落ちる恐れがある。

 そして水に落ちれば同じように体が動かなくなるかもしれない。

 それをいちいち危惧きぐしていたのでは満足に戦えないだろう。

 アメーリアはそれが不満だった。


 そして水中でのあの感覚は二度と味わいたくない。

 それは明確な感情だった。

 恐怖。

 自分が死の恐怖を感じるということそのものが彼女にとっては腹立たしいことだった。

 そして愛するトバイアスの命令を果たせていない自分自身にも苛立いらだっていた。


「このままおめおめとトバイアス様の元へは帰れない……」


 そう考えたアメーリアはくちびるを噛み締めると進路を変更し、クルヌイとりでへと再び向かうのだった。

 黒き魔女はおのが道を貫き通すためには、どんな苦労もいとわない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る