雨ノ檻
玉響なつめ
はじまり
ざぁざぁ。
ざぁざぁ、ざ、ざ、ざ。
雨が降る。
それは視界を塞ぐ、酷い雨だった。
一人の男が山中で道を見失う程に、その雨はひどく、そして強く、冷たい。
それに加えて吹き付ける風が、雨の粒を痛いものに感じさせてたまらない。
男はどこかで雨宿りをしないと辛すぎる、そう思いながら闇雲に走った。
なにせほんの少し珍しい花を見つけて横にそれただけで、実際の道は一本しかなかったのだ。
だから来た方角に戻れば道に戻れるはずで、そしてその道を戻れば家に戻れるはずなのだ。
だけれども、焦りから方向を見失ったのか見えるのは木ばかりだ。
そしてざぁざぁと降り注ぐ雨のせいで、音も他に聞こえない。
「ぁ……」
その雨の中、ふと見えた灯りに男は被っていた帽子をぎゅっと押さえた。
ひときわ強い風に、体がぶるりと震える。
寒い、とにかく寒い。雨など予想していなかった軽装が仇となってずぶ濡れで、その上この風に吹きつけられているのだからそれも当然だった。
男はその灯りに吸い寄せられるように、走る。
それは、小さな家だった。
こんなところに人家があっただろうか? しかも田舎に似合わぬ洒落た洋館だ。少々古びているが、森の中に一軒建つようなものとしてはあまりにも似つかわしくない。
そんな疑問が過ったが、今はとにかくこの雨風から逃れたい。
「ごめん、ください。この雨風に、迷ってしまいました。軒先をお貸しいただけませんか」
声が震えた。寒さからだと男は思った。
本当は家の中に入れてもらって、温かな風呂を借りて着替えを借りて、望めば切りがないくらいだ。
だがとにかく今はこの雨に打たれることがとにかく辛い。それから逃れられるなら、文句は言うまい。
震えた声は小さかったのか、中からの反応はない。
もしかすれば無人かもしれない、いやだが灯りは確かに点いている。
「ごめんください」
もう一度、今度は先ほどよりも大きめの声で男は声を掛けた。
すると、ゆっくりと、扉が開く。
「おう。おう。こんなところに人が来るのが珍しい、この雨風じゃあ寒かったろう、さあ、さあ、中にお入り」
出てきたのは杖をついた、一人の老人だった。
家の中の明かりが暗いのか、顔は良く見えない。声はしゃがれていたが、聞き取りづらいということもない。親切な言葉に男はほっと息を吐き出して「ありがとうございます」とお辞儀をして老人に勧められるままに家の中に足を踏み入れた。
「どこかの書生さんかな」
「は、いえ。親戚の家に、母の代わりに来たのですが……この近くに珍しい花が咲くと聞いて、散歩に出たらこの雨で」
「そりゃあ難儀だったなあ。風呂はちぃと沸くのには時間がかかるから、良ければ着替え程度なら貸せるけれどどうだね?」
「ありがたいです!」
親切な老人の申し出に、男はぱっと顔を明るくさせた。
とにかく寒くてたまらなかったのだ、これも天の助けだろう。
着替え終わって案内されるままに、もう少し家の奥に入る。
そうするとそこは少しだけ広い、応接間のようなところになっていて、奥まったところに暖炉が見えた。
ぱち、ぱち、と薪が燃えて爆ぜる音がしてじんわりとした熱が入口にも届く。
その温かさにホウと息を吐き出したところで、男はぎょっとした。
暖炉の赤さのみが灯りの、その暗い部屋は少しばかり妙だったが急に雨が降ったのだ、明かりを点けていないのは仕方がないと思えるだろう。
だがその部屋に、ぱらぱらと、背格好も、年も違う男たちが好き勝手にそこにいた。
男たちは新たにこの部屋に足を踏み入れた彼を、じっと見ていたのだ。無言で、ただ、じっと。
「さあ、さあ、もっと中にお入りよ。寒かっただろう?」
「あ、……は、はい」
「嗚呼、彼らかい。彼らもまた、迷ってここに来たのさ。暖炉はこの部屋にしかないから、みなここにいてもらっているんだよ」
「ああ……」
なるほど、と男は緊張していた気持ちを解した。
とはいえ、親しい相手でもなければ「災難でしたねえ」なんて気安く話しかける気にもなれないのだけれども。
「賑やかなのは久しぶりだねえ」
老人が、暖炉にいっとう近い場所に置いてある揺り椅子に座った。
ぎしりと音を立てたそれと、暖炉で赤く燃える火がゆらゆら揺れた。
「お座りよ、温まる」
「ありがとう、ございます」
恐る恐る、男は暖炉に近寄った。
その熱が、冷えた体を温めていくのを感じて男はホウとまた息を吐き出した。随分と体は冷えていたようだ。
「雨は、まだ止みそうにないねえ」
老人が、窓を見ることもなくそう言った。
男はぶるりと身震いする。暖炉の火に温められているはずなのに、まだ寒い。何故だろうか。
「そうだねえ、どうだろう。退屈凌ぎにこの老人の話でも、土産話にしてくれないか」
ゆらり、ゆらり。
ぱち、ぱちり。ぱち。
ざぁざぁ、ざ、ざ。
びゅおう、びゅ、びゅー。
雨風の音が、暖炉の爆ぜる音が、揺り椅子の軋む音が、男の聴覚を支配した。
そこに混じる、老人の穏やかな声に、それらの音から何故か恐れを感じた男はいちもにもなく頷いていたのだった。
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