第10話 暗殺者探し(エリカの場合)



 四時限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。つまり昼食の時間である。

「かなちゃん、一緒にご飯食べよ~」

 チャイムが鳴り終わって古典担当の教師が退室していったあと、三々五々に散っていくクラスメート達の中で、いつものようにひなたが弁当箱を手に持って奏翔の席へとやって来た。

「あ、悪い。今日はちょっと別の場所で食べるよ」

「別の場所? どこなの?」

 さも自分も付いていくと言わんばかりの口調で訊ねるひなたに、奏翔はお茶を濁すように「あー」と一拍間を置いたあと、

「それなんだけどな。今回は千条院さんと一緒に食べようと思っていてさ、それでできたら二人だけにしてほしいんだよ」

「エリちゃんと? なんで?」

 さも不思議そうに小首を傾げるひなた。まあ、無理もない。普段奏翔はひなたと一緒に昼食を取っているし、たまに霧絵や柊と一緒になる時もあるが、わざわざ別の場所に移動してまで食べたりはしない。エリカに至ってはいつも学食で豪華な食事──それも学食のおばちゃんが作ったものではなく、高級レストランのシェフを雇って作らせたものに舌鼓を打っているので、これまで一度も昼食を取った経験がなかった。

 そんな奏翔が、どうして今日に限ってエリカの元へ向かおうとしているのかというと、

「いや、エリカさんとちょっと話したいことがあってさ。ちょっと踏み込んだ話もするつもりでいるし、できたら二人だけにしてほしいんだ」

「でも、学食だと逆に人が多過ぎてうるさいんじゃない?」

「けど、その代わりこっちの話も聞かれづらくなるだろ? それに本当に二人きりになれるところなんて、なかなかないだろうし」

 というより、エリカのボディガードが常にいる時点で、真の意味での二人きりの状態なんて望めそうにもないが。

「だから、今日は他の人と一緒に食べてくれ」

 言いながら周りを見てみると、すでに仲の良いグループで昼食を食べているところがあった。よく見ると霧絵や柊もそれぞれ友人達と仲睦まじげに弁当箱を広げている。しかしまあ、コミュ力が高くてクラス内の人気も高いひなたなら、どこでも歓迎してくれることだろう。

「……かなちゃんがどうしてもって言うなら、そうするけど……」

 そう言いつつも、ひなたの表情はあからさまに不満げだった。昼食を一緒に取る相手なんて、別段だれでもいいと思うのだが。そんなに寂しいのだろうか?

「また明日一緒に食べてやるから。今回は見逃してくれ」

「む~。約束だよ~?」

 別にわざわざ約束する必要なんてないだろうにと思いつつ、頬を膨らませるひなたを見て「ああ、約束だ」と奏翔は苦笑しながら首肯した。



 学食のある食堂は、奏翔がいる二年生の教室からやや離れた、一階の東奥にある。食堂ということもあって、基本的にはそこで食券を買って各々自由に好きな料理を食べるところでもあるのだが、別段食券を購入しなければ入れないというわけでもなく、ちゃんと昼食さえ用意してあれば、だれでも利用できるようになっている。

 なので、奏翔も朝ひなたに渡された弁当箱を持参して食堂へと向かっているわけなのだが──

「よくよく考えたら、これって千条院さんに失礼かも……」

 なにせ相手は世界を代表する財閥のお嬢様。今まで一緒に食事を共にした経験がないので想像でしかないが、きっととんでもなく豪華な料理を振る舞われていることだろう。

 対してこちらは、こう言ってはひなたに悪いが、ごくありふれた一般庶民の料理。こんな庶民の料理を豪華な料理と一緒に並べては、さすがのエリカも気に障るかもしれない。

「とは言っても、豪華な料理なんて僕みたいな高校生に用意できるわけないし、そもそも今はそんな悠長なことを言っていられる状況でもないしな……」

 事態は急を要する。それこそ、一分一秒すら惜しいほどに。

「ほんと、どうしてこんなことになっちゃたんだろうな……」

 一人学食へと向かいながら、奏翔はこうなるまでに至った経緯を──宵町先生との会話を思い出していた。




「は? 僕の身近にいる女の子が犯人が……?」

 宵町先生から聞かされた驚愕の真実。

 その話を聞いて、奏翔は信じられないとばかりに顔面を蒼白させた。

「なんですかそれ。しかも【抹殺者】って……。なんの冗談ですか、それ」

「あー、まあ戸惑う気持ちはわからんでもないが、れっきとした事実だよ」

 気まずげに頭を掻きながら、冗談であることを否定する宵町先生。普段はひょうきんな教師ではあるが、今回に限っては、その言葉に嘘はなさそうだった。

「さっきも言ったけど、こっちにも守秘義務があるんでな。これ以上詳細は明かせんが、音無の友人に【抹殺者】が紛れ込んでいるのはすでに調査済みだ」

「本当……なんですか? でもいつから? なんで今になって僕を殺そうと……?」

「だから、これ以上は話せんと言っただろ」

 若干苛立たしげに眉根を寄せつつ「ただ」と宵町先生は言葉を紡ぐ。

「相手が【抹殺者】とはいえ、一般人に被害が出ないという保証はないから、割と前からそれとなく監視はしていたよ。私ら【観察者】は基本静観に徹するスタイルだけど、エリクシア関連の騒動から一般人を守るのも仕事の一つではあるからな」

「……でも、その守る対象に僕は含まれていないんですよね?」

「そりゃ当事者だからな」

 お前にしてみればとんだ災難なんだろうけど、と宵町先生は同情したように微苦笑を浮かべた。

「真城みたいに相手が【破壊者】だったら私も対応してやれたが、残念ながら【抹殺者】には手が出せないんだ。一般人を巻き込むような事件を起こしたら話は別だが、まあ自分でなんとかしてくれ」

「なんとかって……」

 プロの暗殺者を相手に、武道の経験すらない奏翔にどうしろと言うのだ。

 頼みの綱があるとすれば、今のところ《調律研究所》しかないが、なにをどう助けてくれるのかもわからないし、当てにしていいのかいまいち判断が付かない。

 なにより、身近にいる女の子に【抹殺者】がいるということは、向こうは今でも友人の振りをして奏翔を殺す機会を窺っているということに他ならないのだ。それこそ、普通に学校で挨拶を交わしていた時も。そう考えただけで肌が粟立った。

 しかも女の子の友人なんて、奏翔が知る限り四人しか知らない。

 笹野ひなた。

 千条院エリカ。

 雛月霧絵。

 御影柊。

 こうして挙げてみるも、まるで真実味がなかった。さながら悪夢でも見ているような感覚だ。

 この中に暗殺者が──【抹殺者】がいるだなんて。




 そうして、話は今に戻る。

 あのあと、宵町先生は真城を仲間に引き渡すため実験準備室に留まり、結局こちらの協力を取り付けることは叶わなかった。

 ただ、今後【破壊者】が現れたら対処してくれるという言質だけでも取れたので、まったくの無収穫でなかっただけでも御の字なのかもしれない(それに、真城の脅威から救ってくれたことには変わりないし)。

 だが今はそれよりも、奏翔の友人の中にいるという【抹殺者】を見つける方が先決だ。

 そのためにはまず、言い方は悪いが容疑者達にそれぞれ話を聞く必要がある。

 できるなら、こんなことはしたくない。怖いというのはもちろん、友人を疑うような真似なんてしたくないからだ。

 それでも、自分の命には替えられない。元の安穏な日々を取り戻すためにも、心を鬼にして犯人を探すしかないのだ。

 その最初の一人として、エリカがいる食堂へとやって来たのだが。

「……なんか、すげえ行きづらいな……」

 食堂の奥──その窓際付近にエリカの姿を見つけたのだが、なんというか、予想以上に凄い光景だった。

 エリカの後ろに黒服の男達が控えているのはいつも通りとして、長テーブルの上に並べられている料理の数々が、雑誌やテレビでしか見たことがないような豪華なものばかりだったのだ。

 おそらくフランス料理とかイタリア料理とかだとは思うが、料理名まではわからない。ただその見るからに高価そうな品々を前に、だれも近寄ろうとはしなかった。

「あんなの見ちゃったら、そりゃなあ……」

 というか、自前と思われるエリカの食器ですらいかにも値が張りそうで、もはや一般庶民が安易に近寄れる空間ではなかった。

 ただ、周りにいる生徒はすでに見慣れた光景なのか、特段騒ぎ立てる様子は見られない。エリカもエリカで超然としているというか、周囲のことなんて毛ほども気にしていないように淡々とナイフとフォークを動かしていた。

「今からあそこに行かないといけないのか、僕は……」

 きちんとしたテーブルマナーで料理に舌鼓を打つエリカを見ながら、吐息混じりに呟く奏翔。あんな別世界に踏み込まないといけないとか、正直場違い感が半端ない。

 とはいえ、ここで退くわけにもいかない。自分の命が懸かっているのだから。

「……よし」

 気合いを入れるように軽く太ももを叩いて、奏翔はエリカのいるテーブルへと歩んだ。

「千じょ……エリカさん」

「……! んまあ、奏翔さんではありませんの!」

 奏翔が目の前にいてよほど驚いたのか、口に運ぼうとしていたステーキの切り端を取りこぼしたエリカは、そのままの姿勢で目を剥いていた。

「どうしたんですの? いつもは教室で昼食を取っている奏翔さんが食堂に来られるなんて。お弁当でも忘れてきたんですの?」

「いや、弁当ならあるよ」

 言いながら、ひなたに作ってもらった弁当を掲げる奏翔。

「ちょっと、エリカさんと話したいことがあってさ」

「まあ。わたくしに? それもお一人だけで」

「うん。ダメ、かな?」

「いいえ! ダメなことなんてありませんわ! むしろ大歓迎です! ささ、早く席に着いてくださいまし」

 前の席を勧めるエリカに、奏翔は「じゃあ、お言葉に甘えて」とすぐそばの席を引いて腰を下した。ちょうどエリカと向かい合う位置だ。

「嬉しいですわ。奏翔さんとお食事できるなんて。いつもはわたくし一人だけですから」

「あー。言われてみればこうして顔を合わせてご飯を食べるのは初めてだっけ? なんかごめんね? 今さら思い出したようにエリカさんのところに来ちゃって」

「気にしないでくださいまし。こうして奏翔さんが来てくださっただけでも十分感激ですわ。本当はわたくしも奏翔さんと食事を一緒にしたかったですが、家の決まりで千条院家専属のシェフが調理した物しか口にできない上、食事をする際は黒服達をそばに置いてから、極力一人で食べるように言われておりますの。毒を盛られないようにするために」

「え。それって、僕がここにいるとまずいってことなんじゃ……」

「いえいえ。奏翔さんなら問題ありませんわ。身元も確認済みですし」

「そっか。ならよかった」

 と胸を撫で下ろす奏翔。それなりに勇気を振り絞ってここまで訪れたのだ──その勇気が無駄に終わらずに済んでなによりだ。

「ていうか、やっぱり身元とかってちゃんと調べたりするんだね……」

「千条院家に取り入ろうとする者や、逆に弱味を握ろうとする不埒な者が当たり前のように身近にいる環境ですから。この高校に入学した際も、クラスメートや教師陣は一通り調べさせていただきましたわ」

「クラスメートって、当然委員長達とかも?」

「ええ」

 さすがに全校生徒とまではいきませんけれど、と答えるエリカに、奏翔は「ふむ」と思考に没頭した。

 ということは、当然怪しい人物はすでにリストアップされているはずだが、今まで真城や【抹殺者】などが放置されている時点で、あまり当てにはできなさそうだ。

 もっとも、エリクシアに関連する組織はどれも表世界に通じているみたいだし、国家権力すら操ることができるなら、どこかで情報を改ざんしていても不思議ではないが。

「あの、奏翔さん? もしかして気分を害されまして?」

「え? どうして?」

「だって、すごく深刻そうな顔をされるものですから……」

「ああいや、ちょっと考えたいことがあっただけだから」

 と慌てて首を振る奏翔。

「それを聞いて安心しましたわ。てっきり勝手な真似されて立腹されたのかと」

「いやいや、それはないよ。立場が立場だし、身の危険もなにかと多いだろうしね。でも実際に命を狙われた経験とかあったりするの?」

「幸運にも、今まで一度もありませんわね。こうして黒服達が常にいるおかげでもあるとは思いますが」

 となると、少なくとも危険な地域に赴いたり、偏った思想を持つ団体──それこそ公安に睨まれているようなところには行っていないということか。むろん、エリカが嘘をついている可能性だってあるし、まだ完全に容疑が晴れたわけでもないが。

「全然そんなイメージは湧かないけど……」

「? なにか言いまして?」

「う、ううん。なんでもない」

 慌てて首を振りつつ、話を誤魔化すように手前にある弁当箱の包みを解く。

 中学時代のよしみというせいもあって、つい気を許しがちだが、もしもエリカが本当に熟練の暗殺者ならば、こうしている間も心の内では奏翔を殺す算段を立てているかもしれない。決して油断せず、慎重に普段通りの演技をしながら探りを入れなければ。

「でも大変だね。進学する度に学校の調査をするんでしょ? もっとエリカさんみたいなご令嬢が通うような学校じゃダメだったの? 警備とかちゃんとしてそうだし」

「確かに一般校よりそういった伝統ある学校の方が警備も生徒達の素行なども安心できますが、元々わたくしが一般校に通うようになったのはお父様の意向ですから」

「お父さんの? へえー。初耳だ」

「だれにも話したことがありませんから。少し恥ずかしい話でもありますし」

「恥ずかしい? なんで?」

「う~。それを訊きますの?」

 躊躇うように頬を赤らめて視線を逸らすエリカに、奏翔は両手を横に振って、

「あ、ごめんっ。言いにくいことだったら無理に話さなくていいから」

 と気まずげに返した。

「……いえ。奏翔さんになら……というより奏翔さんだからこそ、きちんとお話すべきことかもしれませんわね」

 はてなと首を傾げる奏翔に、エリカはこほんと咳払いをして、

「できれば、このことはひなたさん達やクラスの方々には秘密にしておいてほしいんですの。あまり吹聴されてほしくない内容でありますから」

「それはいいけど、回りにいる人達はいいの? 席は少し離れているけどさ」

「できるだけ声を抑えて話しますし、仮に聞かれても顔もよく知らない雑草程度ならば、さして問題ありませんわ」

 雑草って。その形容こそ下手に反感を生みそうで心配になってくるのだが。

「さて、そもそもわたくしは元々一般校に通っていたわけではなく、途中から転入した側なんですの」

「そういえば、二年生だった時にすごく話題になってたっけ。とんでもない大金持ちのお嬢様がうちの中学校に来たって」

 それこそ全学年とまでは行かなくてとも、同学年に一瞬で知れ渡るほどには衝撃的な出来事だった。

 なにせ世界でも名高い千条院グループの令嬢が、わざわざ奏翔達のいる公立校に転校してきたのだ。当時はなぜうちの中学に来たのかと色々と憶測が飛び交っていたものだ。

「エリカさんと同じクラスになったのは三年生の時だったし、その頃には噂も落ち着いてたけど、転校したばかりの時はすごかったんじゃない? 周りの反応とか」

「正直、転校したばかりの頃はあまり覚えていませんの。周りに持て囃されるのは昔からあったことですし、あの頃は周囲に目を配れるだけの余裕はなかったので」

「とても緊張していたってこと? まあ転校したばかりなら無理もないんだろうけど」

「……むしろ逆ですわ。冷え切っていたと言ってもいいかもしれません」

 訝る奏翔に、エリカは後悔の念に苛まれているかのように顔をしかめて言葉を継いだ。

「あの時は自分の以外の生徒をすべてゴミのように見ていたんですの。どうしてこんなゴミ捨て場のようなところにわたくしがいないといけないのかと」

「それは……またずいぶんとひねくれていたんだね」

 今でもたまに周りの人を風景の一部としか捉えないところはあるが、昔からそういう一面があったということか。

「本当に、お恥ずかしい限りですわ……」

「いやまあ、たまにはそういう風に厭世的になる時もあるよ。僕だってゴミとまではいかないけれど、周りにいる人が煩わしく感じる時くらいあるし」

 赤面して目線を伏せるエリカに、奏翔はそうフォローを入れた。奏翔とエリカとでは悩みの質が異なるというか、立場が違い過ぎてフォローになっているかどうかも微妙だが。

「……厭世と言いますか、わたくしの場合は不釣り合いな学校に転入させられて擦れていただけと言いますか……」

「え? そんなに嫌だったの?」

 割と思い入れのある中学校なだけに、けっこうショックだった。

「あの頃のわたくしは、その……驕っていたと言いますか、自分の高貴な立場にうぬぼれていまして。庶民の方々を見下すのはもちろん、わたくしの家より下というだけで傲慢に接していたんですの。それこそ、顔を合わせても挨拶も交わさないまま無言で立ち去ったりとか。そういった態度を常日頃からしていたのがいけなかったのでしょう、普段は忙しくてなかなか会えないお父様の耳にもどこからか入ってしまったようで、わたくしの将来を心配したお父様が、矯正という形で庶民が通っている一般の中学に無理やり転入させられてしまいましたの」

「ああ、それで……」

 にしても、エリカの父も思い切ったことをしたものだ。当時、だいぶ性格に難があったエリカを、右も左もわからない世界に放り込むなんて。

 けどまあ、あの頃からすでにボディガードがいたし、大抵の問題はなんとかしてくれていたのかもしれないが。

「あれ? でも僕と初めて話した時って、そこまで邪険でもなかったよね?」

「それは……奏翔さんが優しく接してくれたからですわ」

「優しく……? 僕、なにかしたっけ? エリカさんと初めて話したのって、理科の実験で同じ班になった時だったと思うんだけど。もしかしてその時に?」

「……覚えておられないのですね」

 まあ無理もありませんが、と苦笑するエリカに、奏翔は首を傾げた。

「え、違うの? じゃあ実験する前の話とか?」

「ええ。少し言葉を交わした程度ですが。わたくしが困っていた時に、奏翔さんに助けてもらったんですのよ」

「ぼ、僕が?」

 どうしよう、全然記憶にない……。

「お気になさらず。わたくしが一方的に感謝しているだけですから」

「あ、ありがとう。でも、そこまで感謝されるようなことなんて、本当になにもしていないと思うんだけど……」

「とんでもありませんわ。奏翔さんにはわたくしの命の次に大切というべき物を見つけてくださったのですから」

「命の次に大切なもの……?」

「これですわ」

 言って、エリカは十字架の首飾りを手に取って掲げた。いつもエリカが身に付けているあのアクセサリーだ。

「これはお母様が、生前にわたくしの誕生日祝いでくださった物なんですの」

「生前って……」

「わたくしが十歳の時に亡くなっております。実はこれも、お母様の母──つまりおばあ様から譲り受けたようで、どうやら代々娘に受け継がれている物のようですわ」

「とても大事な物だったんだね」

 どうりで、普段から肌身離さず首に下げているわけだ。

「ですが、そんな大事な物を失くしてしまった時がありまして……」

「え? いつもそうやって身に付けているんじゃないの?」

「ええ。でも鎖が弱っていたのか、どこかでこの十字架を落としてしまったようで、気が付いた時には鎖がちぎれていて十字架が消えていたんですの。すぐに黒服達と一緒に心当たりのある場所を探したのですが、どこにも見当たらなくて……」

「それは大変だったね。話を聞くに、クラスメート達から協力を得られそうにもないし」

「はい。皆さん、わたくしを遠巻きに眺めているだけでしたわ。それ以外の方も、わたくしと関わりたくなかったのでしょう、偶然近くに来てもすぐに避けてしまいましたわ。今までの行いを考えれば当然というか、すっかり悪評が広まった結果なのでしょうけど」

「だったら、見つけるのもかなり時間がかかったんじゃない?」

「いえ、すぐとまでは言いませんが、そこまで時間はかかりませんでした。わたくしにしてみれば必死だったので、時間の感覚が早まっていたというのもあるかもしれませんが」

「あ、そうなんだ。じゃあ運良く見つかってくれたんだね」

「ええ。そうですわね。わたくしにしてみれば幸運な出来事でした」

 と、反芻するようにエリカは瞑目したあと、清廉な微笑を浮かべてこう言った。

「だってあの時、どこからともなく現れた奏翔さんが、わたくしに十字架を手渡してくださったのですから」

 突然出てきた自分の名前に、奏翔は「へ?」と間抜けな声を漏らした。

「あの時の奏翔さんはとても素敵でしたわ。だれもかれもがわたくしの横を素通りしていく中、奏翔さんだけは童話に出てくる王子様のように、困っているわたくしになにも言わず、微笑みだけを浮かべて十字架を手渡してくれたのですから」

「え? 僕? あ、でも話の流れから言って、いい加減僕が出ないと話の辻褄が合わないか。いやけれど、そんな劇的な登場の仕方なんてしていないような……?」

 今になってぼんやりと記憶が蘇ってきたが、エリカが言うようなドラマチックな登場はしていない気がする。

「ああ、そうだ。少しだけ思い出してきた。たぶんそれ、エリカさんの勘違いだよ。たまたま落とし物っぽいのを拾ったから、職員室に持って行こうとして偶然探し物をしている女の子が……ていうかエリカさんを見かけたから、念のために十字架を見せただけだよ。声を出さなかったのは、単純に腰が引けていただけだと思う」

 なにせ、相手は別世界の人間と言っても過言ではない少女なのだ。いくら同学年とはいえ、気さくに声をかけるなんて、陰キャラである奏翔にできるはずもなかった。

「ですが、そのまま無視することもできたのでは? 奏翔さんも、少なからずわたくしの悪評が伝わっていたはずでしょうし」

「まあ、うん。でも実際に接したことはなかったし、目の前で明らかに困っている人をスルーなんてできないよ。落とし物だって拾っちゃってるわけだし」

「それだけで十分素敵ですわ。困っている人に手を差し伸べるなんて、当たり前のようでいて、そう簡単に実行できるものではありませんもの。特にわたくしのような、立場の違う相手ならなおさら」

 それは一理あるかもしれない。エリカに落とし物を渡した時も、かなり緊張したし。

「それでもわたくしを助けてくださったのは、ひとえに奏翔さんがお優しいからだと思いますわ。悪評ばかりのわたくしを助けてくださったのですから。そんな奏翔さんだからこそ、わたくしも好きになったのでしょう」

 熱っぽい眼差しを向けるエリカに、奏翔は反射的に目線を逸らした。こうも正面から言われるとさすがに照れるというか、反応に困る。

「ふふ。そんな風に露骨に照れた表情されると、わたくしとしても嬉しい限りですわ。わたくしのことを意識してくれているという、なによりの証なのですから」

「……やめて。余計恥ずかしい……」

「申しわけありません。奏翔さんの反応があまりにも可愛らしくて、つい」

 まだ可笑しそうに口を手で隠しつつ、エリカは「では、話題を変えましょう」と目元を緩めながら言った。

「というより、すっかり聞きそびれてしまったという方が正しくもありますが、奏翔さんはどうして今日わたくしと食事を共にしようとお考えになったんですの?」

 と、いきなり核心を突いてくるような質問をしてきたエリカに、奏翔は少しの間返事に躊躇った。

 さすがに真実を話すわけにはいかないが、友人に嘘をつくというのも、これはこれで辛いものがある。こうして犯人かどうか探っている時点で今さらな気もするが。

「な、なんとなく? 最近、友達関係とかどうなのかなあ、とか?」

「友達? そんなことが知りたかったんですの?」

「うん。まあ」

 ちなみに、まんざら嘘というわけでもない。エリカからひなた達の印象を訊いておきたかったのだ。もしもエリカが【抹殺者】ではないのなら、ひなた達の中に怪しい動きをする者はいないかどうかを。

「変なことを訊いてきますのね。まあ、別に構いませんが」

 と、不思議そうにきょとんとするエリカだったが、やがて「そうですわねえ」と話し始めた。

「まずひなたさんですが、今では普通に友人という感じですわね。昔は恋敵としか見ておりませんでしたけれど」

「え。そうなの? そんな風には見えなかったけれど」

「いくらなんでも、好きな殿方の前で争ったりはしませんわよ。しかも相手は奏翔さんの幼なじみなのですから。せいぜい、こちらからは話しかけない程度ですわ。もっとも、数週間もしたら敵視するのもバカらしくなってきましたけれど。あの方、こちらがどれだけそっけなくしても、全然めげないんですもの。それどころか、ベタベタとこちらに接してくる始末でしたし」

「あー。基本あいつ、だれにでも馴れ馴れしいから。それと僕に親しい人ができたのが、よっぽど嬉しかったみたい」

 昔から世話焼きというか、友達の少ない奏翔が心配でよく周りにいる人達とよく交友を広げさせようとしていたのだ。もっともその計らいは、奏翔が消極的だったせいもあって大抵失敗に終わっていたが。

「ええ。ですから、今では普通に良き友人として接していますわ。どうやら本当に奏翔さんのことを大事な幼なじみとしか見ていないようですから」

 それはそれで羨ましくもありますが、と苦笑しながら付け加えるエリカ。幼少から身近に親しい友人がいなかったみたいだし、色々思うところがあるのかもしれない。

「それで、次は柊さんですが、あの方はなんだかよくわからないという印象が強いですわね。悪い方ではありませんし、どちらかと言えば礼儀正しい方ではありますが、だいたいいつも表情がありませんから、感情が読みにくいんですのよね。でもまあ、不思議と親しみやすい方ではありますけれど」

「あー、なんとなくわかるかも」

 柊とは去年同じクラスになってからの付き合いだが、見た目の印象に反して距離感が近いのだ。それでいて不思議と抵抗感が生まれないのだから、本当に謎多き人物である。

「まあ、柊さんはわたくしとも良くしていただいておりますし、普通の友人として良い関係を築かせておりますわ。よくわからないところもありますが、奏翔さんとも親しい間柄で話も合うようですし、わたくしとしても興味が尽きませんわね」

 ほぼ奏翔と同じ感想だった。もっとも、それほど柊のことを知らないせいもあるが。

「次は委員長ですわね。彼女は……そうですわね。自分にも他人にも厳しい人ではありますが、とても芯の強い方といった感じでしょうか。人によっては口うるさいと思う人もいるかもしれませんが、わたくしは不思議と嫌な気分にはなりませんでしたわね。なんと言いますか、お節介な兄や姉に構われているとでも言えばしっくり来るのでしょうか?」

 一人娘なので、あくまでもひなたさんに借りたアニメやマンガで得た知識でしかありませんが。

 そう語るエリカに、奏翔は苦笑を返して、

「僕からしてみれば、テンプレートな委員長キャラって感じだけどね。エリカさんの言うような口うるさいキャラって感じで。それでも悪い気がしないのは、たぶん委員長がお人好しだってことがよくわかるからだろうね」

 でなければ、なにかと騒ぎを起こす奏翔達に構うはずがないし、こちらの遊びにだって付き合うはずがないのだから。

「お人好しという点だけはわたくしも同感ですわ。付け加えるなら、正義感の強いお人好しと言った方が適当かもしれませんわね」

「あー。なんかしっくりくる言い方かも」

 ただ単に正義感の強い人間だったならば、もっと敬遠されていたに違いない。それが今のように周りの人から慕われているのは、ひとえに霧絵の人の良さが普段の行動から滲み出ているからなのだろう。

「とまあ、ごく身近の人間に限った話ではありますが、特に親しい間柄の方との関係を評するならば、このような感じでしょうか」

「そっか。じゃあ、至って良好というわけなんだね」

 そう笑顔で応えつつ、奏翔の思考は別の方向を向いていた。

 エリカの話を聞く限り、ひなた達に対して悪感情を抱いていることはなさそうだ。むしろ、現状では好印象といった感じだ。とどのつまり、エリカの目から見て怪しい人物は、ひなた達の中にはいないという結論になる。

 それ自体は良いことだし、エリカが充実な毎日を送れていて喜ばしい限りなのだが、現在進行形で命を狙われている奏翔にしてみれば、複雑な心境だった。

 友人としてならば祝福すべきなのに、心のどこかで犯人に繋がる情報を得られずに落胆している自分がいる。それがとても汚らしいことのようで、自己嫌悪に潰れそうだった。

「あの、奏翔さん? どうかされまして? とても悲壮な顔をされていますわよ?」

 エリカから指摘されて、初めて自分が俯いて歯を食いしばっていたことに気が付いた。

「……ううん。なんでもない」

「そう、ですの? それにしては深刻そうでしたけれど……」

「本当になんでもないよ。それよりほら、早くご飯食べようよ。いつまでもここに陣取っていたら掃除の邪魔になっちゃうしね」

 未だ心配そうに眉尻を下げるエリカに、奏翔は場を誤魔化すべく箸を進めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る