第8話 元の日常を取り戻すために
昨夜は全然眠れなかった。
「目覚まし時計よりも早く起きるなんて、一体何年振りだろうな……」
深夜まで降っていた雨が嘘のように、カーテン越しに差し込むきらびやかな朝日。そんな眩しい陽光に目を細めながら、奏翔は目覚まし時計のセットを鳴る前に解除して、気怠げにベッドから起き上がった。
昨日はいつもより早めに──それこそ一度もゲーム機に触れずに寝床に付いたというのに、まったく疲れが取れていない。頭は試験勉強前の一夜漬けあとのように重いし、昨日全力で走ったせいか、ふくらはぎや太ももの筋肉が張って痛かった。
「……あんな死に物狂いで走りもすれば、当然か」
などと独り呟きながら、奏翔はベッドから下りて、欝々とした心持ちでパジャマのボタンに手をかけた。
昨日は流されるままに謎の人物からの話を真に受けてしまったが、あれはどこまで本当だったのだろうか。さすがにすべて嘘だと断定するにはいくつか整合の取れた話もあったし、思い返してみれば、乳幼児期に受けた心臓手術に関しての仔細を祖父から聞いたことがない。
仮に奏翔の胸にエリクシアなる未知の物質が本当に埋め込まれていると考えた場合、未だに心臓の定期検査を受けなければならないのも、エリクシアが正常に働いているかどうかの確認だとすれば、一応の説明は付く。
というか、凡人かつ一般庶民でしかない奏翔の命をわざわざ事故に扮して殺そうとする理由なんて、それこそエリクシアみたいな現実離れした理由でもない限り、微塵も思い当たらない。しかもこれまた信じられないことに、昨日、《調律研究所》の人間が言っていた通り、あれから一度も警察が奏翔の家に来ることはなかった。無人の軽トラックが通行人を轢きそうになったというのに、だ。テレビはおろか、ネットニュースですら話題に上がらないなんて常軌を逸している。本当にドラマかマンガのような出来事みたいだ。
しかしながら、すべての情報を鵜呑みにしていいのかと言えば、それも考えものだ。真実味はあるが、事実を確認する術なんて今はないし、やはり突然エリクシアだの暗躍組織だのマンガの設定じみたことを言われたところで、あっさり信用できるはずもない。今でも心のどこかで手の込んだ悪戯ではないのかと思っているくらいだ。
そもそもの話、あの《調律研究所》のメンバーだと語った人物だって、本当にすべての真実を話してくれたのかどうかなんてわからないし、まだ信頼できる者なのかどうかも判断できない。奏翔の味方ではあるようだが、どれだけなにをしてくれるかは具体的に説明してくれなかった以上、色々と不安要素が多過ぎるのだ。
つまるところ、現時点で奏翔にできることは、謎の人物が言っていた通りに普段と変わらない日常を送りつつ、いつでも危機に対応できるよう周囲の警戒を怠らないことくらいだろう。
「かなちゃ~ん! いつまで寝てるの~! もう朝だよ~!」
と、奏翔がパジャマの上を脱ぎ終えたところで、制服姿のひなたがノックもなしに突然ドアを開け放った。
「なーんて、どうせまた起こしても無駄なんだろうけどね~。まったく、かなちゃんは小さい頃から時間ギリギリになるまで全然起きないんだから……って起きてるーっ!?」
「ノリツッコミなげぇよ」
思わず、終わるまで凝視してしまったではないか。
「どうしたのかなちゃん? わたしが起こす前に目が覚めてるなんて。しかもまだ朝ご飯の準備もしてないよ?」
「僕だって、ひなたが来る前に起きることくらいはあるよ」
「卒業式の日とか、そういうすごく大事な時だけでしょ? 普段はぐっすりじゃん。今日は晴れるって聞いたけど、これは雨が降るね。絶対スクールがいっぱい降るね!」
「それを言うならスコールだろ」
空から大量の学校が降ってくるとか、珍事を通り越して大惨事過ぎる。
「でも、本当に今日はどうしたの? もしかして眠れなかったとか?」
ひなたの核心を突く問いかけに、奏翔は内心ぎくりとしつつ、
「そ、そんなことないって。いつも通り眠れたし」
「そう? けど、なんだか顔色悪いよ? 体調が悪いわけじゃないみたいだし、なにかあったの?」
鋭い。さすがは勘のいいひなたと言うべきか。
だが、ここで本当のことを言うわけにもいかない。どうにかして誤魔化さなければ。
「ほんとになにもないって。ひなたの考え過ぎだよ」
「そう~?」
奏翔の受け答えに、訝しげに首を傾げるひなた。どうやらまだ疑っているようだ。
「ていうか、いつまでそこにいるんだ? いい加減着替えたいんだけど」
「大丈夫。わたしは気にしないから」
「僕が気にするんだよ。ほら、さっさと行ってくれ」
しっしっと手で追い払う真似をする奏翔に、ひなたは「ちぇー」と唇を尖らせながらドアを閉めた。
やがて聞こえてきた階段を下りる音に、奏翔は「はあ~」と安堵の吐息をついた。
「こりゃ、秘密を守るのも一苦労しそうだな……」
だが、これだけは絶対ひなた──いや、ひなたを含めた他の人にも決して口にしてはならないのだ。
大切な人達を、危険なことに巻き込まないためにも。
それから少し時間は経過して。
現在奏翔とひなたは、いつもの通学路を二人並んで歩いていた。
ただ唯一違うのは、ここにエリカがいない点だ。いつもならエリカがリムジンに乗って優雅に挨拶してくる地点まで来たのに、一向にその気配はない。普段より早く登校してきたのだから当然といえば当然かもしれないが、なんだか違う世界に来てしまったような錯覚を感じてしまう。
いや、ある意味ではその表現もあながち間違いではないか。今もどこかで奏翔の命を狙っている暗殺者がいるかもしれない世界なんて、この間の平穏とした日常と比べたら、別世界のようなものなのだから。
「かなちゃん、さっきからどうしたの?」
と、家を出てからというもの、ずっと周囲を警戒して視線を尖らせていた奏翔に、ひなたが眉をひそめながらそう訊ねてきた。
「やたら周りをきょろきょろしてるけど、なにか気になるものでもあるの?」
ひなたの質問に、奏翔は「え?」と一瞬目を点にしつつ、すぐに首を横に振って「ああいや」と否定した。
「別になんでもないよ。ただぼーっと周りを眺めていただけで」
奏翔の言葉に「ふうん?」と若干訝しげに相槌を打つひなた。
まずい。つい周りを警戒し過ぎてしまったせいか、妙に怪しまれている。どうにかして誤魔化せば。
「ほら、いつもより早い時間に登校したから、なんとなく周りの様子が気になってさ」
「あー。そういえばかなり久しぶりだよね。なんにも行事のない日にこうして朝早く学校に行くのって。なにげに奇跡じゃない?」
「さすがに奇跡は言い過ぎだろ。これが奇跡だって言うなら、かなり安っぽいぞ」
「わたしにしてみれば奇跡みたいなものだよー。いつもだったら朝ご飯の時間だもん」
「あー。そういえばそうか。朝ご飯はできるまで食器の準備をしたのも、ずいぶん前な気がするし」
「よかったら、これからも早起きして食器の準備とかしてもらっていいんだよ? わたしも手間が減って助かるし」
「……その件は一度家に持ち帰って、再度検討させていただきます」
「それ、絶対やらない人のセリフじゃん! 行けたら行くと同じくらい信用できないやつじゃん!」
奏翔の返答に、ぷりぷりと頬を膨らしてツッコミを入れるひなた。そんなひなたを「まあまあ」となだめながら、奏翔はさりげなく前方を見渡した。
家を出てからそれなりに時間は経つが、今のところ不振な者は見かけない。当然向こうもただの通行人を装ってくるだろうし、そんな簡単に見分けなんて付くはずもないだろうけど、なにも無警戒でいるよりはずっとマシだろう。
「ほんとにもう~。なんで普通に協力できないかな~?」
と、未だ横で立腹するひなたに、奏翔は視線を戻して、
「……悪かったよ。けどひなたも、僕の寝起きの悪さはよく知ってるだろ? そんな簡単に早起きできるようになったら苦労はしないって」
「かなちゃんの場合、単に夜更かしが原因なだけでしょ?」
なんでそこで生活習慣を直すっていう発想が出ないかな~、とジト目で見てくるひなたに、奏翔は露骨に目線を逸らした。たとえ幼なじみからの頼みでも、人にはどうしても譲れないものがあるのだ。
「んも~。ほんとだらしないんだから~。わたしだって、これから先もずっと起こしに来れるってわけじゃないんだからね?」
ひなたのなにげない一言に、奏翔は心臓を掴まれたように固まった。
そうだ。いつまでも続くと思っていたこんな日々も、いつ終わりを迎えるとも限らない状態にあるのだ。それこそ、こうしている今だって、物陰から奏翔を狙う暗殺者が飛び出してきてもおかしくないくらいに。
「……………………そっか。そう、だよな……」
「えっ。ど、どうしたの? 急に暗い顔になって。わたし、そこまで変なこと言った?」
突然神妙な表情になってしまったせいだろう──心配そうに上目遣いで見つめてくるひなたに「……いや、なんでもない」と奏翔は首を横に振った。
「えー? 本当に? なんだか思い詰めてるような顔だったよ?」
「マジでなんでもないって。ただ、本当にひなたが朝起こしに来ない日が来ちゃったら、本格的に家に引きこもるしかないなって思って」
「そこは一人でも起きれる努力をしようよ! どんだけ人任せなの!?」
ひなたのツッコミに「あはは」と笑い声を上げつつ、奏翔はふと青空を見上げた。
もう昨日までのような平穏な日常は送れない。それでもせめて、周りにいる大事な人達だけでも、これまで通りの穏やか生活を送ってほしいと心から願いながら。
あれからずっとひなたと一緒に通学路を歩いていたが、これといった支障もなく、無事に校門前まで辿り着いた。本当に、何事もなくあっさりと。
てっきり、また昨日みたいな事故を装った殺害を試みるのでないかと危惧していたが、そのような気配はなく、それどころか、ここに来るまで不審者すら見当たらなかった。
「まあ、個人的にはその方が助かるんだけど……」
「ん? かなちゃん、なにか言った?」
「なんでもないよ」と言葉を返しつつ、奏翔は校門を抜けて校舎へと向かう。
さすがにここまで命を狙う奴なんていないと思いたいところだが、万が一という線もあるし、それとなく周りを窺う。
今日はいつになく早めに登校したせいか、校庭にいる人はまばらで、集団になって歩く者はほとんどいない。聞こえてくる声も、せいぜい朝練で部活に励んでいる生徒だけで、いつもとは違う静穏とした風景が視界に広がっていた。
そんな校庭をひなたと雑談を交えながら一緒に歩く。
そうして校舎の中へと入り、下駄箱でスリッパに履き替えたところで、
「あれ? あそこにいるのって、まっしー先生じゃない?」
言われて、ひなたが指差す方──右手側の廊下へと視線を送ってみると、確かに二段詰みした段ボールを両手で抱えている真城先生がこちらに向かってきていた。
「まっしー先生、おはよ~っ」
「おはようございます、真城先生」
「ああ、おはよう。笹野さん、音無君」
二人の挨拶に、真城先生は段ボール箱の横から顔を出して、笑顔で挨拶を返した。しかしながら荷物が重いのか、少し足取りが危なかっしい。
「まっしー先生、なにを運んでいるの?」
「これかい? 今日の化学の授業で使う物だよ。実験室にまで運ぶ最中だったんだ」
「そんなにいっぱい?」
重そうだね~、と言うひなたに「どれも大きめの道具ばかりだから」と真城先生は苦笑しながら応える。
「でも、実験室の隣に準備室があったはずですよね? そこにはなかったんですか?」
「普段はめったに使わない道具なんだ。場所も取るし、いつもは別の倉庫に仕舞ってあるんだよ」
「あー、それは大変ですね」
なぜかと言うと、ここから実験室までは別の棟にある上に、しかも三階まで行かないといけないからだ。正直、奏翔だったら一人で持ち運べる距離ではない。
「かなちゃん、手伝ってあげたら?」
「え? 僕が?」
「うん。だって、まっしー先生だけじゃ大変そうだし。かなちゃんも男の子なんだから、半分持つくらいなら平気でしょ?」
「まあ、それくらいなら持てなくもないけど……」
ただ、ちょっと面倒と言うか、朝から重たい物なんて持ちたくないと言いますか……。
などと渋っている間に、真城先生は心底嬉しそうに破顔して、
「え、本当かい? それはとても助かるよ!」
「ほら、真城先生もこう言ってるし、ここは手伝ってあげないと!」
「それなら、ひなたと三人で運んだ方がよくないか?」
「え? わたしに荷物を持たせるの? こんなか弱い女の子なのに?」
「ああもうわかったわかった。手伝えばいいんだろ、手伝えば」
執拗に荷物運びを迫るひなたに、奏翔は溜め息を吐いて了承した。ここで断ったらどんな文句を言われるかわかったものではないし、こちらが折れるしかなさそうだ。
「ありがとう、音無君。じゃあ、上の段ボールをお願いしていいかな?」
「わかりました」
実際に持ってみると、想定したよりもずしりと両手に重さがのしかかってきた。これくらいなら一人でもそれほど苦労せずに運べる程度の重量ではあるが、これを二つ──それも階段を上って二階まで行くとなると、さすがに成人男性でも辛かろう。むしろ、よく一人でこれを二つも運ぼうと思ったものである。
「それじゃあ、わたしは先に教室まで行ってるから。代わりにかなちゃんの鞄も一緒に持っていってあげるね」
「ああ、頼むよ」
そう言って、ひなたに鞄を任せたあと、奏翔は真城先生の先導の元、二階にある化学実験準備室へと向かった。
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