第1話 いつもの日常
夢を見ていた。
いや、夢というより思い出に近いかもしれない。それも、奏翔がまだ生まれたばかりの頃の。それくらい、やけに周囲の景色がはっきりとした夢だった。
当然のことながら、奏翔にこのような記憶はない。むしろ赤子だった頃の記憶がある人間の方がよっぽど稀だろう。それなのにこの記憶がとても大切なものだと感じるのは、単なる気のせいなのだろうか。
むしろ、今すぐはっきり思い出すべきだと、もう一人の自分が急かしているような、心が妙にざわつくこの感覚は一体──
「かなちゃーん。朝ー。朝だよー」
と。
そんな間延びした、もはや聞き慣れたというよりも聞き飽きたと言った方がしっくり来るくらいのいつもと変わらない声に、
「……ん。ひなたか……」
「えへへー。かなちゃん、おはよ~」
と、ひなたと呼ばれた少女は、満面の笑みを浮かべて挨拶を口にした。
同い年でありながら、中学に入学したばかりの年齢にしか見えない童顔。くりっと大きな眼が少し猫を思わせるものがあるが、瞳の中に宿る好奇心の塊のような光彩のせいもあって、どちらかというと犬という印象の方が強い。しかも眼以外のパーツが全体的に小さいのと、身長も同世代の女子よりも低いせいもあって、完全に小型犬タイプだ。
なにより
ゆるふわロングの髪を両端で軽くオレンジのリボンで結わっているせいで、トイ・プードルの耳のように見える。実際頭を撫でたりするとなぜかぴこぴこ動く時があるので、あながち耳と言っても間違いでもないかもしれない。
しかし、その見た目を裏切るように胸だけは一丁前に大きいので、なんだか倒錯的というか、そこはかとなく犯罪臭すらしてくる。
しかも今が残暑厳しい九月初旬ということもあって、薄手のブラウスから透けて見える純白のブラと豊かな双丘がいかにも目に毒というか、そばにあるというだけですでに暴力的な効果があった。
「ていうか、ひなた。毎度毎度のことだけど、朝起こしに来る度に僕の上に乗らないでくれよ。微妙に寝苦しい……」
「だってかなちゃん、こうでもしないとなかなか起きないんだもん。それとも、ここに乗ってたらダメな理由でもあるの?」
「ダメっていうか……」
位置的にちょっと問題があるというか、男子ならだれにでも起きうる生理現象に勘付かれそうで、微妙に気まずいというか。
「それとも、これからは自分でちゃんと起きる? どうせ無理だろうけど!」
「むっ。僕だってその気になれば簡単に──」
「でも、そう言って何度も失敗してるじゃん。目覚まし時計を壊したのだって軽く二桁を超えてるよね?」
「……そう、だっけ?」
「そうだよっ。んもう。だいたいかなちゃんは低血圧過ぎるんだよ。もっと健康に気を遣わないと、その内血圧がゼロになっちゃうよ!」
それもうすでに死んでますがな。
「言っても、低血圧は元からだしなー。夜型人間なのは事実だけど、それ以外は普通だと思うし」
「本当かな~? ここ最近、朝ご飯とお昼のお弁当はわたしが作っているけど、家に一人しかいないのをいいことに、晩ご飯とか適当に済ませてない? 叔母さんにも仕事で家に帰れない間だけかなちゃんの面倒を見るように頼まれているんだから、ちゃんとしてなきゃダメなんだからね。もしも不摂生な生活を送っていたりしたら、月に代わってお尻ぺんぺんだよ!」
「幼児か僕は」
もう高校生なのに幼児扱いとか、こいつの中での奏翔は一体どうなっているのだ。
「──って、いつまでも話している場合じゃなかった! ほら、早く着替えて一階に降りてきて! せっかく作った朝ご飯が冷めちゃう~っ!」
「だーっ!? 強引に僕のパジャマを掴むな! すぐに着替えるから、さっさと僕の部屋から出て行ってくれ!」
まるで母子のような騒々しいやり取りをしながら、ひなたをなんとか部屋から追い出して、奏翔は高校の制服に着替え始めた。
「……うえ。今日の味噌汁、オクラが入ってる。これ苦手なんだよなあ……」
「好き嫌い言わないの。オクラは血液をサラサラにしてくれるお野菜なんだから」
「まあ、食べられないわけじゃないんだけどさ……」
などと、正面の席に座るひなたに不満を漏らしつつ、奏翔はしかめっ面で味噌汁を啜った。
起床時のやり取りから少し経って、自宅一階のダイニング。そこで奏翔とひなたは互いに制服姿のまま、同じテーブルに着いて朝食を取っていた。
今日の朝食はご飯にオクラ入りの味噌汁、そしてソーセージと目玉焼きというありふれたメニューだ。味噌汁だけは少し手が込んでいるようだが、先ほど奏翔が言った通りオクラは苦手なので、正直余計な手間としか思わなかった。
まあ作ってもらっている立場なので、そこまで礼儀知らずなことは口が裂けても言えないが。
元々は叔母が──母方の家系で響一郎の次女でもある
まあ、もとより朝は毎日ひなたに起こしてもらっていたし──自分でもわからないが、昔からひなたでないと起床できないのだ──朝食だって鳴が忙しくて家にいない時は何度もこうして作ってもらっているので今さらな話ではあるのだが、なんだか家政婦のような真似をさせているようで、若干心苦しいという気持ちもなきにしもあらずなわけで。
しかしながら、本人は至って気にした様子はないし、むしろ世話焼きなせいか、なんだかんだ言って楽しそうにもしているから、案外このままでもいいのかもしれない。下手なことを言って二度と起こしに来なくなるのも困るし。
「ところで、鳴さんはいつまで会社にいるの?」
「昨日電話で話したかぎりだと、あと一週間近くは帰れそうにないとか言ってたなあ」
「そっかー。前々から知っていたけど、ゲーム会社って本当に大変なんだね~」
「一つの作品を作るのに、かなり工程のある仕事だしなあ。しかも鳴さん、けっこう重要な立場みたいだし」
「鳴さんが関わっている作品って、どれも評判良いもんね。少し前に出たゲームも、けっこう売れてるんでしょ?」
「うん。実際僕もお布施を兼ねて購入してみたけど、めちゃくちゃ面白かった。思わず連日深夜まで没頭しちゃったくらい」
「も~。そうやって徹夜でゲームばかりしてるから、朝起きれなくなっちゃうんだよ。夜はちゃんと寝ないと、成長できないよ?」
「それをお前に言われても説得力が……ああいや、なんでもございません」
あぶない。もう少しでひなたの怒りを買うところだった。
「はあ。鳴さんはあんまり叱らない方だし、そもそも家にいないことも多いから、このままだと夜更かしばかりする一方になっちゃうよ。響一郎おじいちゃん、早く帰ってきてくれないかなあ」
「じいちゃんなら、この間エジプトから手紙が届いてたぞ。遺跡調査に熱が入っているせいで、当分は帰れそうにないってさ」
響一郎……もとい祖父は考古学者で、昔から遺跡調査で海外を飛び回っている、率直に言うところの物好きな人だ。
だが単なる物好きというわけでもない。それなりに名が売れている学者でもあり、奏翔が何不自由なく生活できているのも、祖父がしっかり稼いでくれるおかげでもあるのだ。
それに今は叔母である鳴が奏翔の保護者として一緒に生活しているが、中学生に上がる前までは祖父と二人で生活していた。両親との思い出もないまま早くに死に別れた奏翔にとって祖父は親代わりどころか、親そのものと言ってもいい存在だった。両親がいなくて寂しいと思った時期もあったが、それでも奏翔がひねくれずに真っ当に生きてこられたのは、いつでもそばで愛情を注いでくれた祖父のおかげであることは言うまでもない。
まあ、とはいえ、昔から仕事で海外に行くことは多々あったし──その時は毎回鳴に来てもらっていた──今も鳴に保護者を任せて遺跡巡りに熱を上げるくらいには、割と困った自由人でもあるのだが。
「エジプトか~。響一郎おじいちゃん、相変わらず遺跡調査ばかりしてんだね~。どう、元気そうだった?」
「おう。どっかのピラミッドとラクダと一緒に写真に写ってたぞ。ピースサインで」
「そっかあ。前に会ったのがもう一年前になるし、また会ってお話したいな~」
「ひなたって、本当にじいちゃんのことが好きだよなあ」
「もちろん。だって小さい頃からよく一緒に遊んでくれたもん。今でも大好き!」
屈託ない笑顔で言うひなたに「その代わり、よく腰を痛めてたけどな。ひなたが腕白過ぎて」と奏翔は苦笑しつつ白米を口に運んだ。
「え~? わたし、普通に遊んでもらってただけだよ~?」
「よく言うよ。何度もじいちゃんに肩車をせがんでたくせに」
「だってかなちゃん、響一郎おじいちゃんにべったりで、わたしと全然遊んでくれなかったんだもん。わたしはかなちゃんとも一緒に遊びたかったのにっ」
ぷいっと茶碗を手に持ちながらそっぽを向いたひなたに、奏翔は少し顔を赤らめて、
「……しょうがないだろ。あの頃は女の子と遊び慣れていなかったし、それに普通に恥ずかしかったんだから……」
「それくらい、別に恥ずかしがらなくてもよかったのに。響一郎おじいちゃんもよく言ってたでしょ? 男女で無邪気に遊べるのは子供の時だけだって。大人になったら打算と欲ばかりになるって」
「今にして思えばそれって、子供に言うようなセリフじゃないよな……」
しかも当時、まだ幼稚園児だった奏翔とひなたに対して。
とはいえ、おかげでこうしてひなたとも気楽に接していられる関係にもなれたし、祖父なりに奏翔を慮っての言葉だったのかもしれない。昔から飄々としつつも、だれよりも先を見通しているような、どことなく不思議な人でもあったし。
そういえば、今朝見た夢にも祖父が出ていたが、なんだか普段の時よりも怖い顔をしていたような──それこそ奏翔ですら見たことがないような表情を浮かべていた気がする。
もう記憶があやふやではあるが、確かなにか光る物を手にしたまま、とある一点を見つめていた気もするが、果たしてあれはなにをしている光景だったのだろうか……?
「……ま、いっか。所詮は夢だし。深い意味なんてないだろ」
「? かなちゃん、なにか言った?」
「いや、なんでもない。ただの独り言」
「ふーん? あ、ところでかなちゃん」
と、そこでひなたはふとなにかを思い出したように、それまで手に持っていた茶碗をテーブルの上に置いて言葉を継いだ。
「今日は夕方に雨が降るから、傘を忘れずに持っていかなきゃダメだよ?」
「傘? 昨日の天気予報だと、今日は朝からずっと晴れだったはずだぞ?」
「それはわたしも知っているけど、でも夕方から雨が降るような気がするのっ。わたしの勘、割と当たるの知ってるでしょ?」
「まあ……」
それこそ天気予報では言わなかった急な雨を言い当てたり、どこからか飛んできた野球ボールを直感的に避けたり、他にも例を挙げたら枚挙に暇がないが、しかし必ず的中するというわけでもないし、そもそも余計な荷物が増えるのはあまり好きではないのだ。いつもその日に受けた授業を復習するために、大量の教科書を持ち帰っているのだから。
なんて不満をそのまま口にしたら、ひなたは呆れたように溜め息を吐いて、
「も~。教科書なんて宿題が出ている分だけ持ち帰ればいいのに~。わたしなんて全部置き勉してるよ? えっへん!」
「いや、そんな威張るようなことじゃないからな? むしろ恥ずべき行為だからな?」
「でもそう言って、この間もずぶ濡れになって登校したじゃない。せっかく朝は急な大雨が降ってくるよって教えてあげたのに。相合傘にしたくても、わたしの傘じゃ小さくて二人も入らなかったし」
「別に大丈夫だって。昔から風邪とか全然引かないタイプだったし」
「でも、生まれたばかりの頃は心臓が悪くて手術までしたことあるんでしょ? いつまた心臓が悪くなるかもわからないし、少しくらいは気にした方がいいんじゃないの?」
「言っても、今日までずっとなんともないしなあ。たまに行く健診でも、毎回異常なしばかりだし」
唯一気になることがあるとすれば、未だ手術痕が胸に残っていることくらいだろうか。
それにしたって普段は服で隠れていて見えないし、プールや海に行って水着姿になるほど、奏翔はアウトドア派ではない。そもそも、奏翔はかかりつけの病院──過去に心臓手術をしてもらった医者からプールなどの冷たい水に入ることを固く禁じられているので、胸の手術痕をネックに思ったことなんて全然なかった。
それに水に浸かれないが、普通に体を動かして遊び回れたし、周りのクラスメート達も特別扱いしてくることもなかったので、自分の境遇を不幸に感じたことすらない。むしろ、まあまあ幸せだと言っていいくらいには、自分の人生に満足していた。
やはり人生、何事もなく平穏無事に過ごしていくのが一番だ。スリルなんてものは、自分の人生にはいらない。
「だから、別にそこまで気にする必要もないって。さすがに雨に濡れるくらいだったら、担当医の人も文句言わないだろうし。そもそも今までなんともなってないし」
「それはそうかもだけど……。でも教室とか廊下が濡れちゃうじゃん。他の人が滑っちゃうかもしれないし、すごく迷惑にならない?」
「うっ……。一理あるな……」
「でしょ? それにどうせかなちゃんが面倒がると思って、わたしがお父さんの折りたたみ傘を借りてきたから、それを使えばいいよ」
「おおっ。気が利くなひなた。折りたたみ傘なら持ち運びが楽だし、正直助かる」
「救い料、百億万ドルね。ローンは不可」
「ぶりぶりざえもんか、お前は」
しかも桁が違う上に、条件が思いの外エグかった。
朝食を食べ終え、学校へ向かう準備を済ませたあと、奏翔とひなたはいつもの通学路を隣り合って歩いていた。
始業式から数日が経った九月初旬。暦の上ではすでに秋ではあるが、まだまだ残暑厳しい日々が続いている。先月に比べれば多少マシではあるが、それでも気を抜いたら暑さで倒れてしまいそうだ。
「……あっつ~。さっきまで冷房の効いた家でのんびりしていたのが嘘みたいだ……」
「だねー。しかも今日は三十八度まで気温が上がるんだって」
「マジか……」
ハンカチで額の汗を拭いながら言ったひなたに、思わず顔をしかめる奏翔。今でも汗が止まらないほど暑いというのに、心の底から勘弁してもらいたいものだ。もう九月なのだから、そろそろ涼しくなってもらいたいところである。
「こうも暑いと、学校に行くのも億劫になるな……。まあ勉強が遅れるのは嫌だから真面目に行くけど」
「将来は公務員希望だもんね。市役所で働きたいんでしょ?」
「まあね。じいちゃんみたいに海外を飛び回るのは嫌だし、かと言ってそこまで体力がある方でもないから警察官は無理だし、消去法で市役所なんだよ。収入が安定しているのも魅力的だけど、残業もなくて比較的有休も自由に使えるっていうのがいいんだよなあ」
「市役所勤務は時間に余裕ができるのがいいよね。どうしよう、わたしも今からでもいいからかなちゃんと同じ仕事を目指そうかなあ。そしたらわたしもアニメとかマンガとかたくさん見れるし」
そう言うひなたの手提げ鞄には、少し前に放送していた日常系アニメの人気キャラを模したアクセサリーが付いていた。いわゆるオタクグッズと呼ばれる物だ。
実は奏翔がゲーマーになったのもひなたがきっかけで、たまたまひなたの家でプレイしたゲームがとても面白くて、それ以降ドはまりしてしまったのだ。
その後ひなたはあまりゲームをしなくなったが、その代わりアニメやマンガに熱中するようになり、深夜アニメはもちろん、アニメやマンガのグッズを買い漁るようになって、今では立派なオタクとして日々を謳歌している。
ただ奏翔と違って家に引きこもってばかりということもなく、友達とショッピングや映画館に行くぐらいにはアグレッシブだったりする。とは言っても、それもアニメ関連だったりもするが。
「僕と同じ仕事って……ひなたってそこまで成績良かったっけ? それなりに成績が良くないと、公務員にはなれないぞ? いや、僕らが通っている高校って割と偏差値高い方だし、受験の時みたいな奇跡が起きればいけるかもしれないけど……」
「努力の成果って言ってよ~。頑張ってかなちゃんと同じ高校に入学したんだから!」
ぷくーっとこれ見よがしに頬を膨らませて反論してきたひなたに、
「いや、別に無理して僕と一緒に行かなくてもよかったのに。なんでそこまでして僕と同じ高校を選んだのさ?」
「だって、かなちゃんのことが心配だったんだもん。中学生になった頃から響一郎おじいちゃんがよく海外に行くようになって、代わりに鳴さんが一緒に住むようになったけど、その鳴さんだって家を空けることが多いし、相変わらずかなちゃんは朝弱くて、洗濯と掃除はできても料理はろくにできないままだし。そんな状態のかなちゃんを放ったまま別の高校になんて行けないよ」
「朝起こしに来てくれるのはともかく、それ以外はたまに様子を見に来るぐらいでいいと思うんだけどなあ。ご飯だって、コンビニのお弁当とかでなんとかなるし」
「ダメだよ~。たまにならともかく、コンビニのお弁当ばかりだと栄養が偏っちゃうよ。そんな食生活、お母さんは許しません!」
「だれがお母さんか」
今までひなたを母として見たことなんて一度たりともないのだが。
「まあなんにせよ、本気で僕と同じ職に就きたいって言うなら、今からちゃんと勉強しないと色々まずいぞ。公務員試験だって、決して簡単じゃないんだからさ」
「あう~。また勉強か~。大人になってからもオタク活動はしていたいけど、高校は高校でエンジョイしたいし……。ああもう、究極のジレンマだよ~っ」
「ま、せいぜい頑張れ」
と、頭を抱えて唸る幼なじみに適当な励ましを送ったところで、
「奏翔さ~んっ♪」
という、喜色に満ちた声が背後から響いてきた。
「今の声は……」
なんとなく予想は付きつつも、ゆっくり声が聞こえてきた方を振り返ってみると、
「奏翔さ~ん♪ おはようですわ~」
黒のリムジン。その一際広い後部座席にて、窓を全開にして身を乗り出している金髪ロングの派手めな美少女が、満面の笑みで奏翔に手を振っていた。
そうして、ゆっくりと徐行しながら奏翔の真横へと並んできたリムジンは、金髪ロングの美少女の意を汲むようにその場で停止した。
「お、おはよう。
「イヤですわ奏翔さん。いつも言っておりますが、わたくしのことは親しみを込めて『エリカ』と名前で呼んでくださいまし」
と。
若干引きつった笑みで挨拶を返した奏翔に対し、金髪ロングの美少女──もとい千条院エリカは、ホホホと微笑みながら優雅な動作でリムジンから下りた。
北欧系を思わせるはっきりとした目鼻立ち。宝石のようなエメラルドグリーンの瞳。肌は絹のように透き通るように白く、腰まで伸びるブロンドの髪は毛先の方だけパーマがかかっており、さながらシャンデリアのようだ。
これだけでも彼女の西洋人然とした風貌がよく出ているが、身長も日本人の平均身長とほぼ同じである奏翔と並んで立っても変わらないくらいで、スタイルもかなり抜群だ。特に胸なんてブラウスのボタンが弾け飛びそうなほど豊満で今にもこぼれ落ちそうである。
奏翔と同じ高校の制服こそ着ているが、密かに身に付けている十字のネックレスやその他の手提げ鞄や靴もかなり高級そうで、見るからに上流階級を思わせる出で立ちだった。
「いや、毎度のことではあるけど、そこの黒服さん達に睨まれやしないかと思って、下の名前では呼びづらいんだよね……」
「これらはわたくしのボディガードに過ぎませんから、そこまで気を遣う必要はありませんわ。単なる道端の雑草とでも思ってくださいまし」
リムジンに乗る数人の黒服達をそう評するエリカ。道端の雑草みたいな扱いをしたら、それこそなにをされるかわかったものではないのだが。
「じゃあ、改めてエリカさん。今日もまたすごい車に乗ってるね……。昨日のとは形が違うみたいだけど、別の種類だったりするの?」
「あれはハマーリムジンという車ですわ。なに、お小遣いでも簡単に買える程度の代物ですし、別段珍しい車種というわけでもありませんわ」
その認識には、一般人と比べて天と地ほどの違いがあるように思えてならないのだが。
と、この会話のやり取りだけでも、彼女が途方もない金持ちだというが言外によく伝わってくると思うが、実際エリカの家は世界的にも有名な財閥の一人娘で、政界にも顔が利くほどの人物である。
そんな超お金持ちのお嬢様が、なぜ奏翔と同じ高校に通っているのかというと──
「ところで奏翔さん。そろそろわたくしと婚約する気にはなりまして? せっかく奏翔さんを追いかけて一般庶民がたむろする高校に入学したのですから、いい加減色良いご返事をお聞きかせ願いたいところなのですけれど?」
そうなのだ。このお嬢様、奏翔と婚約したいがために、親に勧められたセレブ御用達の格式高い名門校を蹴ってまで、エリカが言うところの庶民高校に入学したのである。
「……僕も今日まで何度も言ってきているけれども、まだだれとも婚約する気なんてないんだってば」
「んもう。相変わらず強情ですわねえ。まあ、そんなところも素敵ですけれど~」
などと、ハートマークたっぷりに言葉を返すエリカに「ははは……」と苦味走った笑みを浮かべる奏翔。強情という意味では、エリカの方がよっぽどだと思うが。
「それはそうと、ひなたさんはさっきからなにをしておりますの? わたくしが来る前からずっと独りでなにやらぶつぶつと呟いておりますが」
言われてもみれば、すっかりひなたのことを忘れていた。いつものことながら、エリカは存在そのものが派手過ぎて、どうにも他に意識が向かなくなってしまう。
「ああ、ひなたなら人生の重大な選択に頭を抱えているところだよ」
「??? ど、どういう意味ですの?」
困惑したように首を傾げるエリカ。まあ、当然の反応ではある。
というかこいつ、やたら静かだと思っていたら未だに悩み続けていたのか。そんなに遊ぶ時間を減らしてまで勉強をするのが嫌か。どのみち受験生になれば否が応でも勉強せざるをえないというのに。
「おい、ひなた。いつまで悩んでるんだよ。いい加減こっちに帰ってこい」
「はっ! わたし、今まで一体なにを……!?」
奏翔に肩を揺すられ、まるで敵の洗脳が解けたかのようにハッと我に返るひなた。
「あ、かなちゃん。それにいつの間にかエリちゃんまでいる! さっきまでいなかったエリちゃんがここにいるということは、もしや別の世界線に……?」
「よし。正気になるまで頭を叩くか」
「だ、大丈夫! わたしはしょうきにもどったよ!」
「あなた方、相変わらずの仲の良さですわねえ」
往年の夫婦漫才みたいなやり取りをする奏翔とひなたに、エリカは呆れとも羨望ともつかない口調でそう呟いた。こっちとしては、普段通りの会話をしているだけなのだが。
「これでお互い恋愛感情がないと仰るのですから信じられませんわ。幼稚園の頃から少中高とクラスまで同じで、家も近所という境遇ですのに」
「いや、ひなたとは腐れ縁みたいなものだから。お節介な妹みたいなもんだよ」
「ちょっとかなちゃん、わたしの方が早生まれだってこと忘れてない? それにわたしだって、かなちゃんは手の焼ける息子みたいなものだよ。ウェルダンだよ」
「中までしっかり火が通るほど手が焼けるのか、僕は……」
というか、だれが息子か。見た目だけで言うなら、ひなたの方がよっぽど子供っぽいくせに。
「わたくしにしてみれば、十分に羨ましい関係ですわよ。わたくしなんて、未だにお友達以上の関係から発展しないんですもの」
「あー。ということは、今日もまたかなちゃんに求婚して振られたんだね。エリちゃんもめげないね~」
「当然ですわ! 奏翔さんに婚約の承諾を頂けるまで、わたくしは絶対諦めませんわ!」
「それで今日までずっとかなちゃんに告白してるんだから、エリちゃんも鋼メンタルだよね~。きっかけはなんだったの? かなちゃんと話すようになったのって、エリちゃんが中学三年生の時に転校して来てから少し経ってからだよね?」
「それはだれにも話せませんわ。だってわたくしと奏翔さんとの大切な思い出ですもの。そうですわよね~、奏翔さん?」
「え? ああ、うん。そうだったっけ……?」
可愛らしく小首を傾げて同意を求めてくるエリカに、奏翔は曖昧に言葉を濁して誤魔化した。
別に約束した覚えはないというか、ある時にちょっとした手助けをしただけで、特にこれと言って大したことをしたつもりはないのだが。
まあエリカにとっては大切な思い出らしいので、ことさら訂正するつもりもないけど。
「それよりも、これを機にはっきりさせたいことがあるのですけれど、ひなたさんはわたくしの恋を応援してはくれませんの? 奏翔さんに恋愛感情はありませんのよね?」
「恋愛感情は本当にないよ? でもお互い同意の上じゃないとわたしも応援できないよ。かなちゃんはもちろんだけど、友達としてエリちゃんにも幸せになってほしいし」
「そ、そうも素直に言われると恥ずかしいものがありますわね……。まあ、わたくしもひなたさんのことは大事な友達とは思っておりますけれど……」
「あ~、エリちゃんってば珍しく照れてる~。可愛い~」
「か、揶揄ないでくださいまし!」
とにかく! と紅潮した顔を隠すようにエリカは顔をあさっての方向に逸らしつつ、話を続ける。
「ひなたさんがそう仰るのなら無理強いはしません。わたくしとしても心苦しいですし。ひとまず、ひなたさんの考えを聞けただけでも良しとしておきますわ」
「うん。わたしも二人が本当に望んで恋人同士になったら、その時は心から祝福するね。道のりは遠そうだけど」
「どれだけ遠かろうとも、必ずこの手で掴んでみますわ! あ、別に奏翔さんの方からいつでもわたくしを捕まえに来てもよろしいんですのよ?」
「その日は永遠に来ないと思うけどなあ」
「かなちゃんもガードが固いねえ。ATフィールド全開って感じ」
「僕もこれでけっこうメンタル削られていたりするんだけどな……」
毎回振る度に、エリカに深い心の傷を付けていやしないかどうかとか。
まあ今のエリカを見る分にその心配はいらないようだが、実はこっそり涙でハンカチを濡らしているのではないだろうかとか考え出したら胃が痛くなってきて仕方がないのだ。これ以上奏翔の胃に負担がかからないためにも、エリカには早々に諦めてもらいたいところである。
「でも、エリちゃんみたいな美少女に好かれるのは、正直悪い気はしないでしょ?」
「そりゃあ、まあ……」
「本当ですの奏翔さん!? ということは、この美貌を武器に攻めれば、わたくしにもチャンスが……?」
「けど、前になにかの雑誌で見た情報だと、かなちゃんみたいな奥手なタイプは、強引にエッチなことをされると逆に引いちゃうみたいだよ? やるのなら自然にやらないと」
「なるほど! この間ひなたさんからお借りしたラブコメマンガのように、さりげなくToLOVEればよろしいんですのね!? うっかりわたくしの胸で奏翔さんの顔を挟むくらいの珍事を!」
「おいひなた! エリカさんにどんなマンガ読ませてんだよ!?」
仮にも超お金持ちのお嬢様になんて物を読ませているのだ。この幼なじみは。
「お嬢様」
と、それまでリムジンのそばでずっと待機していた黒服の一人が、不意にそっとエリカの横に立ってこう告げた。
「差し出がましいようですが、そろそろ学校に向かわれた方がよろしいかと」
「あ、そうですわね。つい長々と話してしまいましわ。奏翔さん、ひなたさん、早く一緒に行きましょう」
「うん。今さらだけど、今日も当然のごとく僕らに付いて来るんだね……」
「もちろんですわ。むしろお慕いする殿方を置いて先を急ぐなんて、未来の伴侶としてあるまじき行為ですわ」
えっへんと言った感じに豊満な胸を張るエリカ。ていうか未来の伴侶って。エリカの中ですでに伴侶になることが確定しているみたいで、軽く恐怖なのだが。
「まあわたくしとしては、リムジンに乗って頂けた方が助かるのですが。冷房はもちろんながら、他にも色々快適ですわよ?」
「いや、遠慮しておくよ。魅力的な提案ではあるけど……」
一度それに乗ってしまったら、二度と抜け出せない沼にはまりそうで怖いし。
「かなちゃんにエリちゃん。本当にもう行かないと、さすがに遅刻しちゃうよ?」
「ああ、悪い。今行く」
スマホで時間を確認しながら進言してきたひなたに奏翔はそう応えて、エリカを伴って学び舎へと向かった。
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