右手には封筒。左手にはライター。泥だらけの靴。灰まみれのパーカー。
読みチキさん
右手には封筒。左手にはライター。泥だらけの靴。灰まみれのパーカー。
朝の6時半のアラームが鳴った。起きる時間のアラームだ。
男は、しかし、ベッドから起き上がらなかった。
起きなければ。やばいぞ。仕事に行くんだ。そうだ早く。もう遅刻するわけにはいかない。出勤するんだ。まずは腕を動かして上半身を起こすんだ。それから立つんだ。行け。行くぞ。行くんだ。行かなくちゃ・・・
そのような考えが止めどなく巡る間にも、体は一切動かなかった。
アラームの鳴き声だけが、けたたましい。
しばらく時間が流れる。始まる前から勝負の決着はついていた。だめだ。起きられない。男は諦めた。誰でもできることが、もうできない。どうしてこんなことになったんだ。俺は。
そこで曖昧であった意識が形となった。長いロード時間がかかって、そこからようやくOPが始まる古いゲームのように記憶が戻ったのだ。
そうだ。起きる必要はなかったんだ。
もうクビになったんだ。仕事は無いんだ。ノルマもなし、締め切りもなし。
携帯のアラームが鳴り続けている。
今でも、あの会社では二十四時間ぶっ続けで照明がついているんだろう。油べとべとの髪をした人間達が2リットルのペットボトルから水分をとり、いそぎ、震える手で納期に間に合わせるため、パソコンをいじくっているに違いない。なんとも言えない鼻につく臭いが立ちこめ、カップ麺とコンビニ飯のゴミが散らばり、空になったペットボトルの塔がそびえ立っている。この世の地獄だ。長時間労働だけをとっても、刑務所よりもひどい場所だ。そうして働いて、壊れたらポイ捨て。金魚すくいのすくうアレみたいに人を使い捨てにしても誰も罰は受けない。あくまでも働いた人間の自己責任ということになっている。それでも、そこで雇ってもらえただけでも、ありがたいようにも思う。
自分は商業高卒で学がない。弱視で運転免許もとれない。股関節炎で肉体労働もできない。前に挑戦したことはあるが、歩けないほどの痛みが出て寝たきりになって退職という流れを何度も繰り返した。正社員で就職できるところと言ったら、そんなところしかないのだ。
「オハヨウシャン!」
その大声を皮切りに、妖精が騒ぎ始めた。
男は、昨日から飼い始めた妖精に目をやったが、まだ体は動かせなかった。
アラームはさらに大きな音を立てて、妖精も負けじと食事を要求していた。
一日前。
「妖精を飼ってみるのがいいですよ」医師が言った。
何度か予約をすっぽかして一ヶ月以上遅れたすえの受診だった。
「妖精って、わかりますか?」
男は何も言わず、ためいきだけをついた。言われたことを考えて、何かを答えるという行為がうまくいかない。歯車がかみ合わず、潤滑油は燃え尽き、間接はすり減っている。うまくいかないことさえ、うまく言えない。
だが精神科医は職能を発揮した。患者の思考のはしばしを嗅ぎ取ったようだった。
「分かりますよ。面倒見るなんて無理。自分の世話もままならないのに、とか、なんでそんなことをやるんだ、と?」
「そう、です」
男は、雑然とした乱立する思考のなかで、どうせ断る選択肢などないのだろうが、とおぼろげに考えた。事実、そうだった。
「心配しなくていいですよ。面倒なんて見なくてもいいんですよ。死なせてもいいんだから」医師はパソコンを触りながら言った。「これは、れっきとした治療法ですから。保険も効きますし」
「そう、なんですか」
「はい。じゃあ受付で妖精を貰って帰ってくださいね」
プリンタがガーガー鳴いて処方箋を吐き出した。医師は太った事務員を手招きして指示を出した。
「ああ大丈夫ですよ。ちっさい妖精ですからね。受付で餌と一緒に持ち帰ってくださいね」
椅子に座ったままの男に医師が、おだいじに、と声をかけた。早く帰れ、と追い立てているのだ。ぼんやりした頭でも、はっきり分かった。
二日目。
診療所から支給された妖精は、小さい黒髪の妖精だった。翼があるが飛べないということだった。
男は帽子ぐらいの大きさの円形の洗面器にいれた。
「イイテンキデシュネ!」小さな妖精がきぃきぃ声で何かを言った。
男は返事もせずに横になった。
その後も妖精は一匹でずっと喋っていた。別にうるさいとは思わなかった。
自分の人生がうまくいかなかったことに悲観しているうちに、いつの間にか日が暮れて夜になっていた。
妖精が死なないように餌をやる。一緒に支給された昆虫ゼリーだ。ひとつだけ、ふたを剥いて、洗面器のなかに置く。何かを言っていたが、やはりなんと言っているのかよく分からなかった。
自分も何か食べないとまずいのだろうなあ、と考えて、腹は減らないがカロリーメイトをむしゃむしゃと食べて、薬を飲んだ。小便をしてから横になった。薬が効いて眠りにつく。
三日目。
朝のアラームが鳴ると、妖精もぎゃあぎゃあ騒いだ。
「ウルシャイ! ウルシャイ!」
男はしばらく、アラームと妖精の声を聞いていたが、なんとか寝返りをうってアラームを停止させようとした。だが、それは勝手に停止した。電池が切れていた。そういえば充電もしていなかったな。
アラームが止まっても妖精は騒いでいた。
「ゴハンサン、チョウダイ! チョウダイ!」
昆虫ゼリーをやった。その後も騒いでいた。ただ、騒ぎたいだけなのだろう。
「ミテネ! パータパータ、スルヨ!」
翼を動かしている。飛んでいるつもりなのだろうか。
夜になった。携帯を充電してからアラームの設定を解除した。それだけのことだが、何かを成し遂げた気分になった。
「アラームを解除したよ」
「デカシタ!」妖精が言った。「ソレデ、アラーム、ナニ?」
五日目。
「アメガ、フル!」妖精が言った。
「タクサン、フル!」
妖精は、男が返事をしないことも気にならないらしく、平然と独り言をぶっ放し続けていた。セミが鳴くような本能的なおしゃべりなんだろう。
男と妖精の目が合った。
「オナカスイタヨ! ペコペコダヨ!」
今までは朝と夜にゼリーをあげていたが足りないのかもしれないな。
男は起き上がって昆虫ゼリーを取ると、妖精に見せた。
「食うか?」
「ヨコセ! ヨコセ!」
男がゼリーを渡すと「ミテテ、ハヤグイ、スルヨ!」と言って食べ始めた。
ゼリーの小さなカップに顔を突っ込んで貪っていた。妖精には手はない。ようやく一人で食事しだした赤ん坊のようにへたくそだ。周りにこぼしていた。
今まで、こんな食べ方をしていたのか。ちょっと笑えた。
「ミテ! ハヤイデショ!」
だが、男はすぐに横になって丸まった。体が重い。ただ起きていることもできない。よく言われるように、本当に電池が切れてしまったようだ。
もういっそ死んでしまった方がいいんじゃないのかと考える。方法を考えつくことも、準備だってできないくせに。
「ミテヨ! スゴイデショ!」
男は返事もせず、携帯電話を見た。何件か着信があった。すべて母親からだった。何もしなかった。
七日目。
その日は妖精が朝のゼリーを食べ終わるまで見届けた。ちょっとだけ調子が良かったのかもしれない。
「ミテ! スゴイヨ! ゴロゴロスルヨ!」
男は何も答えず、叫びながら転がるそれを見つめていた。
見れば、洗面器の中は妖精のフンまみれで、暗緑色のカビが生えていた。そういえばゼリーの空容器を取る以外には何もしていなかったのだ。
汚い洗面器だ。このゴミだらけの部屋と同じく。
「ミテテネ!」見ていてもらえることに喜ぶ妖精の体にもカビは生えていた。
どれだけ時間が過ぎたのか、やがて、男は妖精を洗面器から出してやった。
「迷子になるなよ」
「タンケン、シュッパツ!」
ゴミ溜めの部屋で踊るカビ妖精を、風呂に入っていない男が眺めているだけの時間が過ぎる。
「イガイト、イイ、オヘヤダネエ!」妖精が言った。
朝か、夜かもわからぬ薄明かりに目を覚まして、働いていた時のことを思い出す。
誰にでもできる仕事だった。ひたすらテストをする。設計書通りにプログラムを組む。どこかに行ってPCやタブレットを何百台もセットアップしたりもする。要は、なんでも屋なのだ。ただし、量だけは多い仕事だった。最低、一日十時間は働かないと終わらない仕事なのだ。有無を言わさない長時間労働の仕事だった。そのくせ給料は低く、それがゆえ誰もがやりたがらない仕事だった。
体が頑丈であったり、人並み以上の頭を持っていたら、こんな仕事は選ばない。若い男はいない。女は若くない女さえいない。おしゃべりが上手だったり、気が利く人もいない。要領が良かったり、自然な笑顔を作れる人もこんな釜の底まで降りてくることはない。長時間労働しか売りものがない人間達が働いている職場だった。無断欠勤どころか無断退職が日常茶飯事の職場だ。上司も部下も新人も、誰もかれもが死にそうな顔をしていた。無駄な一体感だけはすごい職場だった。
甘い見積もりで安くもぎ取ってきた仕事を、徹夜前提のスケジュールで進めていく。正真正銘のデスマーチ。笑っちまうぜ。そんな言葉で笑っていられるのは実際に働いたことがない学生か、実際にその行進の先頭で旗を掲げ続けてきた俺たちだけだろう。今となってはすべてが馬鹿馬鹿しい。だけど、今になってから気づくこともある。なんでそんなことを続けてしまったのか、だ。
当然、働かなければ生きていけないからというのはある。だが、それだけじゃない。それだけじゃなかったんだ。それ以上に、俺は、誰かに必要とされたかったんだ。誰かと一緒に何かをやっていたかったんだ。
ああ、社会のどこにも居場所がないのはつらい。誰にも必要とされず、のけ者にされることはひどいことなんだ。
だから休み返上の三十連勤でも、何事かを達成するために協同しているほうが生きていることを実感できたんだろう。たとえ利用され、搾取され、脳を含めた体のいずれかがおかしくなってしまったとしても。
「オナカ、スイタヨ!」
俺たちはなんでこんなに孤独なんだ。下水の底の糞ヘドロの中でしか呼吸ができない生き物みたいに、生まれついてより呪われているのは、なぜなんだ。
「ゼリー、チョウダイヨ」妖精がわめきながら耳元に近づいてきやがった。
「わかったよ。ちょっと静かにしろよ」男はゼリーを出してやった。
そして騒ぎながら、妖精は食った。
「だまって食えよ」
「ウメェェー!」
「散らかすなよ」
妖精は食い散らかしてから、そのゼリーの空をかぶって、どこかに行った。
ちっとも言うことを聞かない。それでも、あの狭くて汚い洗面器に戻しはしなかった。妖精だって、狭いところでひとりぼっちは嫌だろうから。
曇っているのか、明け方なのか。暗い陽光。
気がつくとやけに静かな目覚めだった。アラームを解除したせいだろうか。ぼんやり思った。
静かだ。男は寝たままで横を向いて汚い部屋を見た。妖精がうつぶせで転がっていた。動かない。
死んでいる。すぐに分かってしまった。この部屋から一切の音が消えている。
男はじっと妖精の死体を見つめていた。
何時間かして体を起き上がらせると死骸を拾って両手に載せた。冷たく乾燥していた。両目はうすらに開き、口元はだらんとして舌がでていた。死んでいる。
下半身のほとんどが暗緑色のカビで覆われていて、頭皮はしぼんで変形し亀裂が入っていた。元気が取り柄のようだった騒がしい妖精は死んだ。
俺が殺した。どうして俺が死なず、こいつが死ななければいけなかったんだ。俺が殺した。なんで死んだ。なんで世話をさせた。だから無理だって言ったのに。静かになって良かったじゃないか。どうして。
涙もでない。悲しくもない。ただただ、とりとめもない考えが後から後から、わきあがってくるだけだった。悲しさというのがどういう感じだったのかが思い出せず、それが哀しい。
男は妖精を放り投げた。死骸は壁に当たってから、ゴミ溜めに混ざりこんだ。
もう何も考えたくない。すべてが面倒だ。
男はよろよろと立ち上がって、水道に行って水を飲んだ。それから冷蔵庫をあけたが、マーガリンがあるだけだった。何か食べるものを目で探して、妖精用の昆虫ゼリーを見つける。寝っ転がって、すすって食べた。
水っぽくてまずかった。
こんなものをありがたがってたのか、あいつ、バカだな、と考えた時には、男の目から涙が出ていた。
最後に泣いたのはいつだったか。思い出せない。分からない。
男は声をあげて泣いた。思うように息もできず、何のために泣いているのかも分からないほどの激しい嗚咽。
違う。自分を含めた、ありとあらゆる物のために俺は泣いているんだ。
男は泣いた。
やがて、泣き止んだ男はシャワーを浴びた。妖精が使っていた洗面器も一緒に洗ってピカピカにした。
部屋から出て、新しい服に着替えた。目に入るものを片っ端からゴミ袋にぶち込んた。収集日も無視して何度もゴミを出しにいく。そのままスーパーに向かって買い物をした。帰ってきて弁当を二人前食べて、寝た。
翌朝か翌夕暮れ。
「オナカ、スイタヨ!」どこからか声が聞こえた。
今日も元気だな。昆虫ゼリーがほしいのか。もう朝か。ぼうっとしながら考えた。
「サッサト、オキロ! イマスグ、オキロ!」
何らかの防衛反応を起こしたように、一瞬で起き上がった。
妖精は病院から貰ってきたときの姿で歩いていた。金玉のあたりがすくんで、腹の中が掴まれたように疼いた。
なん、だ。なにが、
男は、言葉も出せず、呆然と小さな妖精を見つめた。自分の頭がおかしくなったのか。妖精が生き返ったのか。あるいは、別の妖精なのか。そんなことが、あるのか?
「ゼリー、チョウダイヨ!」
まだ動けなかった。妖精は騒いでいた。
時が巻き戻ったのだろうか。そんなまさか。あるわけない。スマホの日付を確認する。やっぱりそうだ。部屋は多少片付いていて、昆虫ゼリーはなくなっている。スーパーで買った菓子パンが山のように積んである。失った時間は二度ともどらない。
「ハヤク、チョウダイヨ!」糞うるさい声で妖精が言った。
「わかったよ、静かにしろ。ゼリーは、もう、ないんだ」
とりあえず冷蔵庫にあったバナナを与えた。
「コレ、メッチャ、アマイ!」
すごい勢いで食べる妖精を眺めていた。
「すこしずつ、食えよ。詰まるといけないから、な」
俺は何を言っているんだ。そう考えながら横になって、硬めのバナナを自分も食べた。バナナは、こんな味がするんだな、とまじまじと考える。
「オイチイネ」と妖精が言った。
「ああ、うまいな」
昼間。
「妖精が一度死んで、なぜか、元通りになっていた、と」
パソコンを向いた医者が文字で打ちこみながら言った。
「頭がおかしくなったんでしょうか」
「うーん」
医師は、目を閉じて首をかしげる。そんなに考え込むことなのだろうか。生き返るわけがないだろうに。
「その妖精が戻ってきて、あなたはどう感じたんですか?」
「どう感じたか」
分からない。ただ驚いた。
「わかりません。ただ、バナナをあげました」男が言った。
「そこが重要です。いや、バナナじゃないですよ。死んだ妖精が帰ってきて、それで何を思ったのかが重要だということです」
医師はさも当然のことのように話を進める。だが次の言葉は予想ができなかった。
「それが分かるまで何度も殺さなくちゃいけないです」
「え」
「それが分かるまでは、何度も殺さなくてはいけないんです」
「なんで、どうやって」
「なんでもいいですよ」医師が笑って言った。「潰しても、またカビさせてもいい。食事をやらなけりゃすぐに死にますよ」
精神科医はモニターに向き合ったままでキーボードを打ち続けている。明らかに喋っている内容よりも多く打ち込んでいるような気がする。でなければ、ブラウザで無料のタイピングゲームを行っているとしか思えない。
「でも・・・」
男が言いよどむと、医師は手を止めて、男に向き直った。
メガネをかけた小さな初老の精神科医は静止画のごとく動かない。喋らない。待っている。さながら淡水性のカメが獲物を待ち構えるように、呼吸さえ止めて、男の言葉を待っている。
が、ついに男が、でも・・・、の先を喋ることはなかった。
「自分の手を汚したくない、と考えているなら、それは間違いです。人は常にそうして生きてるんですよ。その気がなくたってね」医者が言った。今まで聞いたことがない強い口調で、「動物は他の生き物を食べて生きるんです。人はそれだけじゃあない。農業と畜産で多くの生き物を利用して、大量の食料を確保した。電気を作るために核のゴミを出すか、化石燃料を燃やして生活している。燃えないゴミや燃やし尽くした灰は大地に埋め立てて捨てている。川から水を奪い、汚したものを海に捨てる。それが我々なんです。そうやって現代社会は成り立っているんです。ぜんぶ小学校で習うことですよ」
「覚えていません」何を言えば良いか分からず、そう言った。
「妖精がかわいそうだと言うのならそれも間違ってる。幻の妖精はかわいそうではない。それはただの貴方の思い込みから生じたまやかしなんですから、痛覚を持たない幻をどうしようが問題はないんです。頭の中で嫌な奴を痛めつけるのと同じですよ」
「まぼろし」
「そうです。幻を、断固として殺さなければいけません」
「だけど、なぜ、どうして殺すんですか?」
「その蘇ってきた何かを、あなたが受け入れているからです。それは不自然で普通じゃないことなんです」
「そうかもしれない。でも、殺さなくたって」
「そこは留まってはならない所だと考えてください。バス亭とバス亭のあいだで、本来なら、降りてはいけないところなんです。だから危険で、魅力的にも見える。だが、そこは通り抜けなければならないんです。成すべきことを成さなければならないんです。そこに殺すことが含まれている。殺したくないと考えることも当然、含まれているでしょう」
わかるようでわからないような、全く意味が分からないことを言う。
「よく分かりません」
「殺したくないとあなたは言うが、まあいいですよ。すべては、あなたがどうにかするしかないんですから。なぜならこれは、あなたの内側の問題だからです。それは外からじゃ、誰にもどうにもできないんです。鍵がかかった、いや、ぴったり締まった貝のようなものです」
医師はパソコンに向き直った。それから、いつものような差し障りのない声で、
「ま、どうせまた殺しますよ。その気がなくったって、妖精はすぐに死ぬ。その生き死にを見つめてきてください。感じてください」
診察は終わったらしい。
「薬は28日分で出しときますから」
三密対策で歯抜けのようにまばらに椅子が並んだ待合室で待っていると、名前を呼ばれた。
「次ですが、予約時間はどうしますか?」
太った事務員が28日後のカレンダーを指した。ひどいアトピーで暗紫色のかさぶただらけになった丸い指が目についた。
今日と同じような時間を伝えた。
「バナナは小さく切ってあげたほうがいいですよ」事務員が言った。
「オカエリ!」妖精が言った。
「ただいま」
医者はああ言っていたが、とりあえず寝てから考えよう。
まったく、受診して薬局で薬をもらうだけなのに、なんでこんなに疲れるのか。
「ワタシハ、ドコデショウ?」
そう聞こえたのと同時に男はベッドに腰を下ろした。
ぶぢゅぅぅぅ。
右の尻が何かを潰した。柔らかい何かだ。
立ち上がって掛け布団をめくった。頭髪から割れて裂けた皮膚から内臓がはじけていた。道路で潰れた小さい亀や鳥の死骸を目撃したときのような嫌な気持ちになった。
どうせまた殺す、と医師は言った。早速そうなった。
男は死体を両手ですくった。まだ暖かかい、泥のようなそれは、少しだが動いていた。
これが本当に幻なのか?
死骸を捨てた。シーツの汚れをティッシュで取ろうとしたが結局は洗濯することにした。ずっと洗っていなかったし良い機会だろう。天気もいいし。
シーツもなくなったベッドで横になって、目をつむった。
妖精はまた生き返るんだろうか。死体はどうなるんだろうか。食べたバナナはどうなったんだろうか。バナナは切ってあげたほうがいい。その話を、なんで事務員は知っていたんだろう。男は眠った。
「アラーム、ウルサイヨ!」妖精が言った。
なかば寝ぼけたまま、着信画面を確かめた。母親からだった。
着信音が鳴り続けていた。
「ハヤク、トメテー!」
男は黙って、着信音を聞くに任せていた。
しかし、妖精が滑っていって画面をスワイプした。
「ウルサイヨ!」妖精が言った。
「もしもし?」母親が言った。
「はい。もしもし」
「今寝てたの?」
「いや、起きてたよ」
「ウソツクナ。ドロボウダヨ」
「会社だった? 誰か居るの?」
「ウソツキハ、ドロボウノ、ハジマリダヨ!」
「誰もいないよ。そう。会社から帰ったところだよ」
外に出て、とりとめのないことを喋った。すぐに通話は終わった。あまり内容のない電話のようだった。
妖精を潰さないように気をつけながらベッドに戻った。
「ドロボウサン!」
「泥棒でもいいんだよ。本当のことを言うよりは」
数年前に脳梗塞をやった父親に最近、肺がんが見つかった。ステージなんとか。よくは知らない。父親のことは母親と妹に任せきりだ。
「さあ、寝るからどいてくれよ」
妖精が枕のあたりに移動した。いつの間にか当たり前のように復活していたんだな。しかし、どうやってベッドに乗ったんだろう。まあ、なんだっていいや。
男はベッドで丸まった。再び眠ろうとする。
「シンジツハ、イツモ、ヒトツ!」
男は答えない。
情けない。本当はな、逃げてるだけなんだよ。自分でも分かってるよ。おまえも俺の幻なら分かってるだろうが。
ただ面倒くさいんだ。介護なんてやりたくないんだよ。今までだって仕事をダシにして知らんぷりしてきたんだ。傷つきたくないんだよ。免許もない。たいした仕事にもつけない。あげくに社会不適合者になった。それを知った家族が、周りの人達が何を思うか、どう考えるか。そうだ。恥をかきたくないんだ。ここで閉じこもって、何も考えたくないんだ。お金や将来のことも指摘されたくない。どうしたいのかなんて訊かないでくれ。なにも答えられないから。自分のことでしょ、って言われても、どうもしたくないんだ。やっぱり、ここで死んじまった方がいいんだろうな。総合的に考えて。家族のためじゃない。自分のために。
貯金がなくなったら死のう。前向きに検討しなくちゃいけない。通帳にはあと何円残っているんだろうか。
うつろな意識。もうすく眠れそうな気がする。妖精よ、邪魔はしないでくれ。
「マタ、デンワダヨ!」
また着信があった。無視して眠ろうとした。無理だった。
会社からだった。
出る必要は無いだろう。何度か遅刻と欠勤をして一方的にクビだと言われた。それっきり。会社の人が、文句のひとつでも言いたいだけなんじゃないか。いや、なにかの手続きもあるのかな。
結局、電話には出た。うろうろ考える間に、でた方が早いように思えたのだ。最悪でも数分間の悪口を聞くだけだ。恐れることはなにもない。
「佐藤、すぐ来れないか?」上司は前置きもなく言った。
「あの後3人くらい抜けてな。このままじゃ200%無理なんだ」
「俺は、クビになったんじゃ」男が言った。
「再雇用だよ。日雇いバイトだ。なんでもいい」力強い笑い声。この糞どうしようもないハードな世界を、逆にあざ笑ってやろうじゃないか、という響きがある。
「来るか。来ないか。どっちかだ」
「行きます」そう言っていた。
「頼むぞ」電話は切れた。
男は冷凍チャーハンを一袋丸ごと皿に出してレンジで温めた。チンするたびに取り出して、何回かかき混ぜて全体をちょうどよくする。食べた。多すぎる。妖精にも分けてやった。
玄関に向かう。
「イッテラッシャイ!」妖精が言った。まるで人間みたいじゃないか。
「行ってきます」男が言った。
久しぶりに職場に向かった。さびだらけの自転車。きしむペダル。曇った空。向かい風のなか、なかなか進まない。体力が衰えている。思いっきり漕いでいると、だんだん気持ち悪くなってきた。チャーハンを食べ過ぎたか。ずっしりと重い感じで、精神病のそれとは違っていた。一度吐いたらスッキリしそうだが、そうはしない。自分の体を、自分が制御している感覚は気分がいい。その気持ちが良い気持ち悪さを噛みしめながら、自転車をこぎ続けた。
会社には前と同じ社員証で入ることができた。
「おお。こっちだ。このパソコンを使ってくれ」上司が言った。
「いつも通りですね」男は座るなり仕様書を開いた。
早速コーディングを始める。
わからないことがあったらチャットで、と言って上司はすぐに消えた。
自分は何をしているんだ。仕事でおかしくなって、うつ病だの適応障害だのと言われて、よく分からないまま、幻の妖精と暮らして、また同じ職場に戻っている。何をやっているんだ。
十二時間が経過した。
「佐藤。どうだ」上司が言った。「ちょっと見るぞ」
「はい」
前と同じように働いた。つもりだったが以前の半分しか、こなせなかった。
なんだかぼんやりして、集中できず、後から見直せば、なんでこんなことをやってるんだ、という間違いが多かった。病気はちっとも治っていない。かつてと同じようには働けないのだ。
仕事の成果を確かめた上司は、封筒を差し出した。
「日給の七千円だ」
これだけしか終わらなかったのか、とも、全然ダメだな、とも言わなかった。むしろ、そう言ってなじって貰えれば、まだ救われたのに。
「助かったよ。それじゃ」そう言うなり上司は立ち去った。
一人残される。
怒りもなく、悲しみもない。ただ、無だ。何も起こらない。長い夏休みで遊ぶ相手もおらず、やるべきこともない時と同じだ。家から出てみれば、何かがあるんじゃないかと探してみても、ただただ何も起こらなかったではないか。
受け取った封筒をバッグのポケットにねじこんで、帰り支度を始めた。
もう真夜中だというのに周りの人々はなんら変わりなく働き続けていた。
帰り道、建物の照明がやたらにまぶしい。ひたすら落ちてくるまぶたを指でほぐしながら、家に帰り着く。
すぐに眠りたい。男はひからびかけていた。そして、ひからびた妖精を発見する。
ああ、また殺した。
そう考えながら靴下を脱いで家のよどんだ空気をかいだ瞬間、すべてがどうでもよくなった。腹の下で何かがのたうつような強烈な空腹感が暴れだしたのだ。
流し台に入っていた大皿を取りあげる。汚れなど気にせず、十二時間前と同じ冷凍チャーハンを一袋まるまるぶちまける。皿を打った米粒がいくらか床を散らばった。知ったことか。レンジにぶちこんで思いっきりレバーをまわす。
ヴゥー。
機械のうなる声を聞きながら、手持ちぶさただったので、赤茶色になった干し柿のような妖精を掴んだ。
乾ききって細長くなっている。頭髪はまばらで、目玉や口は歪んでエイの干物のような顔をしていた。怖い。
「悪かったな。なんか、うまくいかなくて、焦るうちに、忘れてたんだ」
まだ動いているレンジを開けて皿を取り出し、かき混ぜてからまた戻した。
ヴォー。
所々が凍ったチャーハンというものは、完全に凍りついたものよりまずい。まだ食べることはできない。
妖精に目を戻す。
しかし、甘いにおいがするな。妖精を食べる文化もあると聞くが。
妖精を何秒か見つめたのち、足を、ちょっとだけかじった。
甘い。抜群に甘かった。羊羹、煮豆、甘納豆、そういう味だ。
もう一口だけ。うむ。足まで甘い。
あと一口だけ。日本茶にあうよな。おーいお茶を飲み干してから、さらに一口。
そうして、顔以外は男の食道を通過していった。
ふぅー。残った部分はゴミ箱にいれた。そこにはケツで潰したときの残骸もまだ残っていた。本当にコレ、まぼろしなのか?
チーン。
レンジを開いて、皿の熱さに気をつけながら皿を取り出す。かき混ぜて、食べる。
妖精が幻であるなら、まだいい。問題はそうではなかった場合だ。これは一体どういう現象なんだ。しかし、甘かったな。
「バナナ、クワセロ!」
男は起き上がって、妖精とバナナを分け合った。床に置いてある妖精用の水を替えて、かびないように体を拭いてやった。
預金残高は120万円ちょっとあった。まあ、あと一年くらいはもつだろう。その目算は、三十秒後にかかってきた電話にて崩壊する。
「お母さんが倒れちゃった」妹だった。
介護うつだよ、ストレスで、自分もおむつをするようになっちゃって、と言った。妹と同じ声の別人のようだった。
「そうか」男が言った。
そうだよ、健康な人には分からないかもしれないけど気持ちじゃどうにもならないこともあるんだから。
「そうか」
もう大変で、いろいろ考え直したんだ、お父さんは施設に入れることにした。
「そうか」
ちょうど空きがあって今なら入れる、問題はお金、毎月いくらか払って欲しいんだけど、どう、と早口で言った。
「何円くらいなんだ。月々、そのお金は」
月に10万円くらいだね、と言った。
息をのんだ。
次に、何に対してかもよく分からぬ怒りがこみ上げてきた。
手取り16万だったんだぞ。自分の命を切り売りして、だ。それが老人一人の世話に対して月10万円かかるという。おまけに、そこに入ろうにも望む時に望むようにはいかないという言い草だった。これじゃあ一体、俺たちは何のために働いて、何のために生きているんだ。わからなくなる。これが超高齢化社会だという日本の現実なのか? これが普通なのか。ああ、そうなんだろうな。俺が無知で、相場も知らない世間知らずの愚か者で、これは貧乏人の憤りなんだろうな。
「結構、するんだな」
あと何年も生きることはないと思うから、心配しないで、と妹は言った。
「120万円はすぐに払う」
何も考えずにそう言っていた。
「心配しなくていい」
ありがとう、口座番号はあとで送ります、と言うなり電話は切れた。
そのまま、携帯を握ったまま立っていた。
何が心配しなくていい、だ。なにを、言ってしまったんだ。深く考えずに、決めてしまったんだ。俺は。
「ヤルジャン!」妖精が言った。
「そんなんじゃない。まだ、わからないんだ。ただ」
何もしないではいられなかったんだ。いや、長生きしないから心配しないでと言った妹の気持ちを、これまでのことも考えたら、なんだって捧げるべきなんだよ。俺はようやくそう思い切れたんだよ。
そうだ。これで良かったんだ。一番良い使い道なんだ。貯金がなくなったら死のうと思っていただろう。それが早くなるだけのこと。自分には必要がないお金だ。だったら妹と母親、父親の人生を良くするために使った方がいいに決まってる。
そのまま立ちつくしていた。
「ドウシタノ」
「いや、別に」
「ドッカ、イタイノ?」
「どこも、痛くない」
考えがぐるぐるまわって、ただただ、やりきれないと感じているだけなんだ。
二十代から介護中心で過ごしてきた妹の人生。
あれほど頑健で明晰な人であった父親の末路。
自分よりも重症らしき母親のこれまでの生活。
何も残らなかった自分という人間のこれから。
すぐに妹からメールが来た。早めに振り込んで欲しいようだったので、すぐにそうした。自分としても、すぐに振り込んでしまいたかった。これ以上、ぶれて、自分という人間を嫌いになりたくもない。
振り込みついでに、残ったお金をすべて引き出してきた。
全財産はのこり一万五千円ほどになった。分かっていた筈なのに、これから起こることを考えると気が滅入った。
電気とガスと水道はすぐに止まるだろう。家賃の催促も来るだろうが、その前に食べものも買えなくなってしまう。ちょっと想像もつかない。嫌だなあと心底考える。貯金がなくなったら死ぬ、と短絡的に考えていたことが、いざ現実になると、なんとかならないかな、と考えてしまう。市役所に相談に行くか。生活保護があるじゃないか。いや、家族が居るから無理か。家族の負担になるからダメだ。
しかし、その延長で、このアパートで孤独死したところで、後処理にもお金はかかるんじゃないか。それじゃあ意味がない。この際、正直に家族に打ち明けてしまったほうがいいんじゃないか。嘘を、見栄をかなぐり捨てんだ。何もかも認めてしまえばいい。死ななくてすむ。生きていられるんだ。
男は丸くなって考える。暑くないのに汗が出て、足のほうの感覚が失せていった。
そうだよ。死にたくないんだ。だけど、こうなるってのは覚悟していただろうが!
覚悟を決めろ。
時は真夜中、妖精は寝息を立てていた。
そうとも。ここで生き延びてどうなる。また、同じような生活に戻るだけだ。
一緒に働いていた連中は、多重請負構造がいけないのだと誰もが言った。
委託。再委託という丸投げ。そして中抜き。さらに中抜き。さらにさらに中抜き。そうして味がしなくなった、ぐずぐずの噛み切れない肉のスジみたいなゴミだけが俺たちの仕事なのだ。
IT業界は悪魔の石臼のようなシステムで成り立っている。俺たち、底辺で糞あさりをする人間を粉々にすり潰しながら、金を絞り出していく。そのうちに心身を壊した俺のような落伍者、老廃物がでても心配無用だ。どこにも行き場のない人間はいくらでもいる。その代用品を新しく取り込んで石臼は回り続けるのだ。
だが、もしそれが底辺IT土方だけの話じゃないとしたら?
車のライトが窓のカーテン越しに映った。誰かが働き終えたのか。あるいは、これから働きに行くのだろう。遊びに出歩くには今は遅すぎる。
この社会全体が、そもそもの大昔からそうやって誰かを犠牲にすることで成り立っているとしたら? この世界は誰かがを傷つくことで回り続けている。私たち人間は、他の生き物を食べて生きている、この世界を汚して暮らしている、と精神科医は言った。それだけでもないですよ、と今なら言える。人間は、人間を汚して、すり潰しながら生きているんですよ。そんな俺たちに救いはあるんですか、そうまでして生き続けなくちゃいけないんですか?
いやだ。俺はもう、戻らない。そんな風に生きる位なら死んでやる。
そうだ。あらがってやるんだ。
これが俺の戦いなんだ。華々しくはない。戦いどころか、抵抗とも言えない。ちっぽけで、線香花火のようにすぐに終わる。ただの自殺だ。誰にも知られず、称賛も受けず、共有もされない。誰かに呼びかけることもなければ、団結も促さない。何も起こらない。何にもならない。それでも、やるんだ。この意志を貫くんだ。そうして示すことだけはできるんだ。この社会に対してあらがって見せたぞ、と誰でもない自分自身に胸を張るためだけに死んでみせるんだ。やるぞ。
涙があふれてきた。
さあ、もうこれ以上は、悪いことは考えないようにするんだ。決意を揺るがす何もかもを頭からふるい落とせ。
昔を思い出すんだ。思い出を、自分が守りたいと願うもの、古き良き時代だけを思い返すんだ。子供の時の出来事を。なにかっていうと家族で車に乗って出かけたことを。父親とも二人だけでどこかに行ったりした。釣りとか、昔はたくさんあった本屋なんかにも行ったな。学校はそれなりに面白かったよな。当たり前にこれからも続くと思っていた時間のすべてが、なつかしい。あれは奇蹟の時間だったんだ。
翌朝、泣いて鼻は詰まり、まぶたも裏返ってしまったように腫れ上がっていた。
アパートの管理会社へと連絡して、家賃が払えないので契約を解除したい、と伝えた。向こう側も慣れたものらしく、公的補助や借金、家族に頼ることを勧めてきた。だが、できません、できません、と断った。
続いて電気、ガス、水道も解約した。家族宛に手紙を、本当のことを書いた。
それから冷蔵庫の中に残っていた食パンとバナナをバッグに詰め込んだ。ちょっと迷ってから最後にもらった処方薬もひっつかんで家をでた。
鍵を閉めて、郵便受けにいれた。これでもう、戻れない。
「ドコニ、イクノ?」
「誰も見つけていない所だ」
男は自転車のかごに荷物を入れて、その上に妖精を置いた。
止めた自転車に鍵もかけずにJRの駅の入り口に向かった。
平日の午前10時頃だ。切符売り場も空いていた。
山にでも向かおう。そう考えながら切符の運賃表を見上げた。最初の頓挫だった。
どこへ行けばいいか分からない。
地名に詳しい訳もなく、乗り換えも知らない。何も調べずにここまで来た。
「オナカ、スイタヨ」
駅の通路で、妖精と食パンを分け合った。ぱさぱさしてやがる。
即座に売店でビールを買って胃に流し込んだ。悪くない。
柱に背を預けて、行き交う人々を見る。皆忙しそうにしている。自分だけが時間の流れからはじき出されているようだ。
「お酒臭いよ」と誰かが言った。
見れば、女子高生の格好をした中年の女性だった。
「こんなところで飲まないでよ」すこし、外国語の訛りがあった。
「すいません」
そう言って、男はビールを一気飲みした。飲み干してから、こう言った。
「ここから、山に行くには、どこに行けばいいんでしょうか?」
ゲェェェプ。という大きなげっぷがでたが、意にも介さない顔で中年女性が答える。
「駅員に聞いてよ」
去って行った。
そりゃそうだ。
「アタリマエダヨ」妖精も言った。
深い森だった。
どうやってここまで来たのか、あまり覚えていない。酒を飲み過ぎた。頭が痛い。
手元に残ったお金は小銭だけだった。ぎりぎり足りたようだ。
あたりは薄ぼんやりとして蒸し暑かった。陽が出ているということ以外に、今が何時なのかまったくもって分からない。スマホも家に置いてきた。
緑色の天井はどこまでも続いていて、不明瞭な景色が広がっていた。右と左を交互に見たところで、その違いがよく分からない。
木の幹に枝と葉、地上へと張り出した根っこ、苔や草、巻き付くツルなどの境界さえ、溶け合って見えるほどの深緑の世界だった。
こういう場所から肉体的には無事に帰ったが、精神的には戻って来られなかった人間が『迷宮』という言葉を作ったに違いない。
そう。迷宮だ。木立は常に直進を妨げ、枝葉と草花が上下左右から手を伸ばして、道を阻む。
足元には柔らかな枯れ葉溜まりと苔だらけの岩が隠れていて、不用心に踏み込む者を地面に口づけさせるのだろう。そうでなくても、垂れ下がったツルが渦を巻いたカーテン、恐竜の太ももさながらに太い倒木、人間の背丈をはるかに超えた緊密な群生、トゲだらけの茂み、行き止まりを唐突に告げる山の断層などがたびたび姿を現して、迂回を強要する。
ここがどこで、どうやって戻るのか、分からない。
もういいんじゃないか。汗みずくになった男は、腰掛けるのにちょうどいい倒木をみつけて、なんなら横になった。
疲れた。よし、ここで死のう。
「オナカ、スイタヨ・・・」
妖精と一緒にバナナを食べた。最後の食料だ。
「これで終わりだ」
「オワリ」
「そうだ。もう、なにも食べれない」
「シンジャウ」
「うん。そうなる」
「ソウ」
「・・・」
「シニタクナイ」
「俺もだよ」男が笑った。「でも、こうするしかないんだ。これで良かったんだ」
最後のバナナは今までで一番甘く、香りが強く感じた。男は小便をしてから、持参してきた睡眠薬を数日分取り出して、唾液で飲んだ。
できるだけ苦しまず死にたい。睡眠薬でだましだまし、寝ながら死ねないかな、と願いながら男は眠った。
寒い。暗い。震えながら男は目を覚ました。真っ暗だった。睡眠薬が残っている体が重い。体全体におもりがついているみたいだ。が、それ以上に寒さが身にしみる。寒すぎる。立とうと思ったが立てずに、倒木から転がるように落ちて、無意識でそこらへんの枯れ葉をかき抱いた。多少はよくなった感じと全くそうではない冷気、眠気が押し寄せてきて、苦しみながら、のたうっているうちに時間が流れる。自分の息づかいだけが聞こえる。ここが森だと思い出す。
「なにやってんの?」妖精が言った。
男が居た場所に座っている。人間と変わらぬ大きさで、足を組み、微笑みながら。
「死ぬんでしょ」
「そうだが、寒すぎる」
「バッグ。ライター」
「そんなもの、あるわけ」
男はそう言いながら必死にバッグを漁っていた。あるわけがなくてもいい、希望があるなら、それは、そこにあった。
新品だ。駅で購入したのか。いつ? したっけ?
まあいい。男は震える腕で落ち葉を集めて、火をつけた。
嘘みたいに火がついた。一気に暖かい。だが、燃え屑となった枯れ葉は散り散りに舞い上がり、暗闇にはためいて、すぐに燃え尽きてしまった。
「うわあああ」
男は叫んでいた。
震える男は再び枯れ葉を集めて、もう一度同じ事をやった。同じようになった。
「うわああああ」
立ち上がって、舞い上がった火花を虚空でかき集める。が、無意味だった。散らばったものは元には戻らない。真っ暗になる。
「小さい枝から燃やさなきゃ」妖精が言った。
「ホントかよ」言われたとおりにやった。
いろいろ試行錯誤したあとで、案外うまくいった。やがて火は安定してきた。
「煙がすげえな」
「火事にならないように気をつけて」
「火ってすげえな」
暖かい。暖かいだけで幸せだ。揺れる炎の下で枝が真っ白に燃えていく様を眺めている。それだけで気分がいい。
「たき火っていいな。なんなんだろうな、これ」
「死にたくなくなった?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」男は言いよどんでから、
「実はそうかもしれない。けど、まあ、もう遅いけどな。ここからは帰れない。だから、おまえもそんな風になっているんじゃないのか」
「さあ」妖精は言った。「それは、あなたが決めることでしょ」
二人は何も喋らない。木が燃える音だけが聞こえる。男がそこらへんにあった枝を突っ込んだり、燃料を探したり、整地しているうちに夜が明けてきた。
やがて、完全に明るくなるとバッグの中身を探った。
「のどが渇いたな」
しかし、飲み物はなかった。見つかったのは、バッグのサイドポケットにはいった7千円入りの封筒だけ。忘れていた。しかし7千円あれば浴びるほどビールが飲めるってもんだ。おい、だれか、おつりはやるからビール買ってきてくれ。500mlを6缶だけでいい。つまみもいらねェ。しかし、ここには誰もいない。俺一人だ。
男はため息をついた。
明るくなると、焚き火に燃え尽きたように見えた。ひび割れだらけの白い燃えがらだけが残っている。しかし、それはまだ、まだ燃えている。確かに燃えているんだ。
男が封筒を右手に握りしめて立ち上がった。
「行くの?」
「ああ」
「戻れるわけがないんじゃない。来た道も覚えてないんでしょ」
「まあ、無理だよな」
「もう社会の歯車になるのは、嫌なんでしょ?」
「俺は、実家に帰る」男が言った。のどの奥のいがいがを飲み下したあとで、そこからは一気に言葉があふれ出すように、「何もかも話すよ。それで、どんなことをしてでも何をしてでも、生きるんだ。生きなくちゃいけないんだ。生きてやろうと思うんだ。そう思えたんだ。社会がどうだろうが、どこかの誰かを踏み台にして、犠牲にしようが、先生が言ったみたいに石油を燃やして地球がどうなっちまおうが、生きなくちゃいけないんだよ。生きている以上は、生きなくちゃいけない。こんなところでバナナを食って、たき火をして。ようやく、それが分かったんだ。ここで死んだ方が楽だって、わかっていても、途中で転んだり怪我して、泣きわめいて、見苦しく死んでいくことになっても、それでも行くんだ。行かなくちゃいけないんだ!」
そうして、帰り着くことができたなら!
妖精はなにも喋らない。
男はライターを拾う。
右手には封筒、左手にはライター。泥だらけの靴。灰まみれのパーカー。
そうだ。こういう格好でここから始めなくちゃいけない。
男は、倒木に佇む妖精を目に焼き付けるように眺めてから、背を向けた。
「決して振り返ってはいけない」背後から声が言った。
「わかってるよ」
森の外を目指して、男は一歩を踏み出した。
右手には封筒。左手にはライター。泥だらけの靴。灰まみれのパーカー。 読みチキさん @karusiumu-senbei
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