蛇足

第50話

 夏を過ぎた後のことは、あまり記憶に無い。何分、色々あって、脳の容量が足りなかったのだ。その上事務手続きの連続で、肉と血に塗れたあの二日間とは違って、印象も薄かった。ただ、後に見た資料と自分の薄っすらとした記憶とを重ね合わせてみると、どうやら村のことは全てあの澤桔梗という男のせいということにされたらしい。父親の死も、母親のことも、全ては彼等の責任になった。

 違和感はあった。俺に都合が良いように、皆、俺の言葉を信じて解釈していくような、そんな感覚があった。

 思えば、その頃から、七竈は全て自分がやったことだと勘違いしていた気がする。俺の父親を殺したのも、母親を壊したのも、全ては俺を脅した結果だと、考えていたのだろう。過去と認識の齟齬など、電子記録ではない限り、自分で気づくことは難しい。


 七竈が勘違いをしていると気づいたのは、その年の冬、大体のことが丸く収まって、村の名前が地図から消された頃のことだった。

 その頃の俺は、久美と浩太と三人で、祖父母の下で暮らしていた。久美は遠縁の親族が養女として引き取ることが決まっていて、その日は彼女を迎えに、養父母がやって来る日だった。


「久美、早く出て来いよ。新しいお母さんとお父さん、もう来ちゃうぞ」


 新調した中学の制服は、小柄な少女を探すには、硬く窮屈だった。夏明けに着た時は少し布が余るほどだったというのに、ほんの数ヶ月で肩が回らなくなってしまった。祖母曰く、俺は「お父さんに似て食べれば食べる程、大きくなる体」なのだという。学年が上がればまた新しく制服を買ってやると言われて、それならまあ良いかと思っていたが、こうも窮屈だと、襤褸布で駆け回っていた頃の方が心地よかった気すらした。

 祖父母の屋敷は、小さな家と呼ぶには広く、どれだけ探しても、久美は見つからなかった。庭の草木を搔き分けても、室内の襖を全て開けても、彼女は何処にもいなかった。


「幽冥、久美ちゃんまだ見つからないの」


 一人、洋間に戻ると、来客の準備をする祖母がそう声を上げた。背筋が伸びて、目元の鋭い祖母の顔は、特段威圧をしているわけではないというのに、妙に恐ろしくて、俺は顔を背けてしまった。


「家の中全部探したんだけど、居なくて」

「困ったわね」


 眉間に皺を寄せた祖母の顔は、やはり父親とそっくりで、背筋が冷えた。彼女は俺達に手を上げるわけでも、怒鳴りつけるわけでも、放置するわけでもなかったが、それでもその印象はどうしても慣れなかった。

 ふと、キイと音がして、俺と祖母は反射的に目を向けた。そこには慣れない車椅子を動かして、廊下からこちらを見つめる浩太がいた。


「久美ならさっき、庭にいたけど」

「庭だったらさっき探したぞ」

「本当? 俺が見てからあんまり時間経ってないと思うけど。一応声かけたんだよ、俺」


 不思議そうな顔でこちらを覗く浩太に、俺は長く溜息を吐いた。彼の頭を撫でて、そのままの足で再び庭へと向かった。

 敷地を囲む白い塀をなぞるように、板を踏んでいく。庭が見えると、同時に、その枯れた緑を眺める祖父の姿が目に入った。彼は庭を一望できる自室で一人、涎を垂らしながら呆けていた。その姿は、秋頃に病院で見た母のそれと同じだった。精神を何処かにやった人間の表情は、何処か幸せそうで、少しだけ羨ましかった。


「祖父ちゃん、久美見てない?」


 目を合わせて、問う。その行為に意味が無いことは知っていた。それが戯れと何一つわからないことは、理解していた。


「………………」

「庭、少し探すね。うるさかったらごめん、祖父ちゃん」

「…………し」


 ガラガラと乾いた声で、唐突に、祖父が呟いた。彼はしっかりと俺の顔を見て、口を動かしていた。


「み…………ず……なぜ……」


 だがその言葉の意味を、俺は理解が出来なかった。そもそも言葉なのかもわからなかった。ただ、その音を吐く祖父の、亡者のような姿が、心地悪くて、俺はすぐに彼から目を反らした。


「久美、いるか。祖母ちゃんがお菓子を用意して待ってるんだぞ。寒いから、ココアを作ってくれてるぞ」


 甘い言葉で誘うのは、夏に覚えた卑怯な術だった。草木の中に隠れているのならと、またそれらを掻き分ける。それでもなお、少女の姿は見つからなかった。


「新しいお母さんがケーキを焼いて持ってきてくれるんだってさ。一緒に食べよう。クリームが溶けたら嫌だろ」


 冷たい風が吹いて、鼻を冷やした。これだけ寒いのだから、祖父の部屋にでもいるのかと、俺は踵を返した。


「夏蜜柑は無いのか?」


 ふと、塀の向こうから、甲高い少女のような声が聞こえた。久しく聞いていなかった、その声は、少しだけ大人っぽくなっていた。


「生クリームが溶けるほど暖かい部屋なら、ケーキよりアイスクリームの方が美味いだろ。センス無いな」


 嫌味と我の強さは健在だった。返事をするよりも前に、俺は、窮屈な学生服のことも忘れて、塀をよじ登っていた。有刺鉄線の無い瓦葺の塀は、いとも簡単に乗り越えることが出来た。以前よりも数倍軽く感じられる体を、ひょいと浮かせて、敷地の外に飛び降りる。そこには、塀に背を預ける少年と、その手を握って泣きじゃくる久美がいた。


「塀を上るのがお前達の趣味なのか?」


 そうやって俺を鼻で笑うのは、俺と同じ制服を着て、マフラーで首を包んだ、七竈だった。彼は短くなった髪を揺らして、首を傾げていた。


「七竈、お前、何でここに。というか、久美はどうして外にいるんだ」

「歩いていたら、塀の上で蹲っていたもんだから、こっちに飛び降りさせた」

「へっ……塀を上ったのか? 足の骨にヒビでも入ったのか? 足痛いか?」


 泣いて七竈に縋りつく久美は、何も言わなかった。ただ泣かれるばかりで、どうすれば良いのか分からないまま、俺は七竈と目を合わせた。


「久美を……妹を、慰めてくれてたのか」

「別に。手を掴まれて泣かれたから動けなかっただけだ」

「手を振りほどかず一緒にいてやるのは、慰めるって言うんだよ」


 俺がそう言うと、七竈は一瞬、眉間に皺を寄せた。ずっと握られていた久美の手を軽く振りほどいて、両手を上げた。それにも抵抗するように、久美は七竈の腰にしがみついていた。


「制服が汚れる」

「クリーニング代を出すよ」

「随分と羽振りが良くなったな」

「元々、そんなに貧乏じゃないんだよ、うち」


 白く塗られた壁をトントンと叩いて見せた。「ふうん」と鼻を鳴らす七竈は、「その程度で?」と言外に俺を嘲っていた。ふと七竈の住んでいたあの屋敷の方が、巨大で豪勢だったことを思い出す。俺は困った様に眉を下げて見せた。村の人間から聞いた話、七竈の住んでいた屋敷は警察が入ったりしたらしいが、その後も彼と父親が共に住んでいるらしい。ただ、各村から来ていた使用人だとかは、全員辞めてしまったという話だった。たまに、村の小さな商店に見知らぬ人間がいるのは、新しく雇われた外部の人間だということだった。


「それで、何でこいつは、こんなに泣いてるんだ」


 いい加減離れろと、七竈は久美の肩を押しのけた。拒絶された久美は更に大きく泣き出して、今度は俺の背中に顔をうずめた。その頭を撫でてやりながら、俺は七竈と再び目を合わせた。


「……事件が、あっただろ。それでさ、ここにいるのも良くないよねって、祖母ちゃんが手を回してくれてさ。遠縁の家の娘になるんだ。医者の家で、色々と……久美の心のこととか、治療も兼ねて」

「ここを出るのか、そいつ」


 俺が「うん」と頷くと、七竈はジッと俺の目を見ていた。一瞬その眼球が、震えたように見えた。


「お前も出ていくのか?」


 七竈の口から零れたのは、俺に対する問いだった。久美のことなど、特に気にもしていない。真っ直ぐに、彼は俺を見ていた。


「……お、俺は、ここに残るよ。浩太……車椅子の弟もいるし。それに、夏の時点で母さん、妊娠してて、今度新しく妹が生まれるから。しかも祖父ちゃんボケててさ。祖母ちゃんだけじゃ手が回らないよ。俺も手伝わないと」

「弟も赤ん坊も、養子に出せば良いだろ。何故お前が残ってまで世話しなきゃならない」


 眉間に、力が入るのがわかった。けれど、何故だかその時には、七竈の欲しい言葉が、理解出来ていた。


「……俺は、俺の意思でここに残るよ。七竈。お前もいるしさ」

「僕がここに残るとは言ってないだろ」

「じゃあ何で制服一緒なんだよ。冬休み明けたら行くんだろ、学校」

「少しは頭が回るようになったらしい」

「お前は相変わらず口が回るな」


 ああ言えばこう言う。と、俺は彼を鼻で笑って見せた。その頃になって、七竈の後ろから、小さく祖母の姿が見えた。彼女は手を振って、俺と久美の名前を呼んでいた。


「そろそろ、久美の新しい家族が来る。行かないと」

「……もう少し話したい」

「わかった、じゃあ、久美だけ祖母ちゃんに預けるよ」


 泣いて動かない久美を担いで、俺は祖母の前に走り出した。七竈はその後ろをマイペースに歩いていた。祖母の後ろには、見知らぬ男女が二人、こちらを覗いていた。どうやらそれが、久美の新しい父母になる夫婦だったらしい。俺は一礼して、二人の前に久美を押し出した。


「祖母ちゃん、俺ちょっと散歩してくる。俺がいると久美も俺に甘えちゃうし……」


 祖母にしがみついてしまった久美を見ながら、俺はそう唱えた。すると、祖母は俺と目を合わせて、ゆっくりと微笑んだ。


「久美が納得するまで連れて行かないことになってるから、時間はたっぷりあります。貴方もしっかり整理してきなさい」


 祖母の芯の通った声で、縮まっていた背が伸びた。俺の後ろから、七竈が祖母に会釈していた。祖母もまた頭を下げると、表情を落として彼に言葉を与えた。


「幽冥とは、ずっとお友達でいてくださいね、七竈さん」


 その言葉を飲み混むように、七竈は整った動きで、「はい」と唇を結んだ。彼に背を叩かれて、足を進める。ゆっくりと、風景が動いた。暫く続く田畑と塀からピントをずらす。眼鏡のズレを直して、七竈の言葉を待った。


「……僕にも、新しい母親が出来るんだ」

「そうか。優しい人だと良いな」

「親戚なんだ。未亡人で、子供もいる。父さんの弟が、その人の夫だった」

「えーっと……つまり、叔母さんがお母さんになるってことか。じゃあ、顔見知りなんだ」

「僕が親戚と顔を合わせる機会があったと思うか」

「んー……無いな」


 考えて喋れよ。と、七竈が呟いて、俺はへらへらと笑って見せた。すると、七竈はふと、俺から目を反らして、一歩、前に出るようにして足を長く出した。


「お前の新しい父親、父さんに言って見繕ってもらおうか」


 唐突に放たれた言葉に、意識が飛ぶ。何を言っているのかがわからなかった。ただ、その声に、罪悪感のようなものが含まれていることは分かった。


「どんな形であれ、お前の父親を奪ったのは、僕だ。母親を壊したのも、僕だ。代替品での弁償が欲しければ、宛はあるぞ」


 そこでようやく、俺は七竈が何か勘違いを起こしていることに気付いた。そしてその認識の歪みが、俺の言葉によるものだと、直感で理解した。

 彼は、あのトラックの荷台で言った言葉のまま、俺との関係を認識している。全て自分が悪いのだと、自分がやったことだと、整合性を抜きにして、考えている。

 その事実に、俺は足を止めた。あの神様の言葉は、本当だったのかと、何かパズルのピースでもハマるかのようにして、脳から何か漏れ出るような感覚があった。


「幽冥?」


 不思議そうに二歩先で七竈が俺を見ていた。言葉に詰まって、数秒、口が回らなかった。


「あ、うん。いや、要らないよ。そんな、もう父親ってのはさ、こりごりなんだ」


 立ちすくんで待っている七竈の隣に立って、俺はそう唱えた。再び動いた足と共に、七竈の言葉を待った。


「父親がトラウマか」

「まあね、良い父親ではなかったし」

「良い父親というのが、どんなものなのか、僕にはわからない」

「少なくとも、突然意味も無く殴ったりしなきゃ上々かな。あと酒飲まない人が良い」

「それならうちの父さんが当てはまるじゃないか」

「お前のお父さんって、何か厳しそうで嫌なんだけど」

「会ってみるか? 父さんもお前と話してみたいって言ってたし」


 考えておくよ。と、俺は一言置いて、いつまでも続く農道の先を見た。焦げた土と木の黒さの上に、小さく白いものが落ちていた。雪が降っていた。白い風景の中に、七竈の短くなった毛先が揺れた。


 ――――いつまでも、この平和が続きますように。いつまでも、七竈が神様にならないまま、一緒にいられますように。

 そうやって、俺は隣を歩く七竈に祈った。

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益母の呪神 棺之夜幟 @yotaka_storys

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