かろきねたみ

動電光

第1話

むづがゆく薄らつめたくやゝ痛きあてこすりをば聞く快さ 岡本かの子


私は遅刻したことがない。だから目の前の光景に焦げそうにイライラする。もう通学しているべき時間に、この子供はまだトーストの耳をもたもたむしって口に入れている。耳をむしり終えるとハムエッグを皿から剥がして、バターを塗ったパンとチーズを載せたパンに挟み、それを更に折り畳んでかじる。彼女は横目で見ながらコーヒーを飲んでいる。子供の口が止まる。「はい食べてえ」と促す口調がスローな民謡の合いの手並みに緩い。朝の母親はもっとビンビンに張り詰めて叱るものではないのか。子供があと一口分のパンを皿に置いて彼女に抱きつく。離して食わせろ!という念を籠めて睨んでいると、彼女の肩越しに子供の眼とかち合う。私をどう認識しているのかはいつもわからない。この子供は一切言葉を発しないからだ。


「もうお腹はいっぱいになった?」子供は頷いて彼女の膝から滑り下りる。残されたパンを口に押し込んで咀嚼しながら、彼女は子供の肩を抱いて洗面台に連れていく。LDKのテーブルの真後ろに流しはあるのに、毎度律義に洗面台で歯磨きも洗顔もさせて更に遅れは延びていく。子供が使ったタオルを洗濯機に放り込んでスイッチを入れて、漸く黄色い帽子とランドセルを装備してお出かけに相成った。平日の朝らしからぬ長閑な足音が遠ざかって漸く、私は詰めていた息をつく。


洗濯機は止まった。車で送っていった(でないと到底間に合わない)彼女はまだ戻らない。私は洗濯機の蓋に触れてみたが、今日は動かせない。何度かやってみて諦め、テレビを試みる。そっちはうまく点いた。HDDレコーダーは連動設定なので同時に起動する。昨夜の『びじゅチューン!』は新作だ。5分の番組が終わると鍵の音がして、「ただいま」という声がする。反射的に口にした「お帰り」は聞こえたらしく、開け放しな笑みを浮かべて彼女が入って来る。「洗濯終わってる」「あ、ありがと」ピンチハンガーとハンガーを抱え込んで走る足音はこんなにガサツでもお構いなしなのは、階下は空き室だからだ。ベランダの高い竿にはタオルや枕カバーだけを掛ける。柵の内側に隠れる高さのIKEAのスタンド物干しに下着を吊るしたピンチハンガーをかけ、子供のパンツを広げる。女性のものだと遠目にも判る衣類は日当たりのいい窓際のレースのカーテンの内側に置いた布団干しスタンドに掛け並べる。男の居ない家だというだけで、洗濯物を干すだけでもここまで用心しなければならない。




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